「貴様は、今、何を為そうしている。」
「さあ、何のことでしょうか。」
私の臣下である男は、不敵に笑う。
全く、小賢しく、食えない奴だ。
奴のような人間を、俗は天才と呼ぶのだろう。
自分で言うのも何だが、私の頭は相当切れる方だ。
しかし、奴には敵わない。
何と恐ろしい奴を、弟は遺して逝ったのだろうか。
本来なら、奴のような人間は人を寄せ付けない。
どれだけ有能だろうと、奴のような人間には信頼が置けない。
しかし、奴の右腕たる彼が、それを可能にしている。
「本当に貴様は、彼が右腕で幸運だったな。」
「はい。半ば無理やり、彼を右腕にした甲斐がございました。」
「本当に感謝しておけ。
貴様の右腕が彼でなければ、私は貴様を臣下にはしなかった。」
「我(わたし)も貴男様のお立場なら、我のような人間を起用致しません。」
「分かっているなら良い。
貴様が企んでいる事の顛末は、彼に聞くとしよう。」
「承知、致しました。」
空を見て、思い出す。
かつての、もう忘れる事の叶わない、貴男方に先立たれた日のよう。
貴男方には、恩が有った。
でも、恩を返すことは叶わなかった。
その前に、貴男方は……。
分かっていた、覚悟していた、はずなのに……。
政とは、こういうものだと。
……貴男方を、助けたかった。
なのに、私は何も知らなかった、何も為せなかった。
どうして、貴男方が……死なねばならない。
……どうして、いつも、私は……何も、出来ないのだろう。
……どうして、いつも、私ばかり……生き残ってしまうのだろう。
嗚呼、貴男方に何と詫びれば、良いのだろうか。
赤子を抱く。
今にも壊れそうな、小さく軽い身体。
本当に赤いのだな。
そして、かわいい。
嗚呼、なんて可愛いのだろう。
嗚呼、僕はこの人を愛してるんだな。
彼女と皿洗いを一緒にして、洗濯物を一緒に干して、掃除を一緒にして、
ふと、そう思った。
彼女とは、見合い婚。
見合いの席、初対面で婚約。
彼女が大学卒業後、結婚。
互いに仕事が忙しくて、年に数回しか逢わない。
妻とは、一緒に住んだことが無い。
俗に言う、別居婚。
平安時代中期まで結婚しても一緒に住まない事があたり前だったから、
僕的に目新しいとは思わない。
3人の子どもたちは、私の実家でいとこたちと暮らしている。
かわいそうと思うかもしれないが、僕の家ではあたり前だ。
僕自身、いとこたちと一緒に育った。
妻の話に戻ろう。
当たり前ことをしても、彼女は『ありがとう』、と言ってくれる。
だから、僕も、いつも『ありがとう』を言うようにしている。
彼女には、本当に多くのものを与えて貰った。
例えば、『ありがとう』という言葉が大好きになった。
ありがとう、たった一言。
この一言で、暖かい気持ちになる。
彼女と一緒に決めた、ふたつの約束。
ひとつ、当たり前のことでも、『ありがとう』を互いに言う。
ふたつ、別れ際は必ず抱きしめて、『愛してる』を互いに言う。
だから、僕は今日も 心からの『ありがとう』と『愛してる』を
貴女に贈る。
そして、今日、初めて新しい言葉を付け加える。
「生きていてくれて、ありがとう。愛してる。」
貴女は、少し驚きながらも微笑み、こう言った。
「こちらこそ、生きていてくれて、ありがとう。愛してるわ。」
目を瞑り、微笑む。
高貴な血筋と家格を有する、氏族の嫡流にして本家嫡男として振る舞う。
この時ほど、自我が不要な時は無い。
礼儀正しく、愛想良く、上品で紳士的な所作を……念の為、意識する。
優しく微笑んでいながら、鋭く冷たい目をする。
お偉い方々に丁寧な挨拶とちょっとした雑談をする。
○家の嫡流には妙齢な娘が居る、●家と□家が婚姻した、
▽家が没落した、■家は〜派に移った、などなど様々な情報が行き交う。
パーティは、政の戦場。
ここから、国や経済が動く。
我が一族の努めは、至って明確だ。
ただ、勢力のバランスを保てるよう、手を回し、引き際を見極めるのみ。
今の世は、動きが激しい。
ならば、その動きに寄せ、立ち回るのみだ。
友人と目が合う。
いつもとは全く異なる表情、ひどく冷たい目をしている我(わたし)を見て、
彼は、なんと思うのだろうか。
私は、彼ほど器用で天賦の才を有する人を見たことが無い。
そして、彼ほど自我を殺すことに長けた人を、未だ見たことが無い。
同じ氏族の傍流の宗家嫡男として、これから彼に仕える者として、
彼に同情する。
嗚呼、その姿は、まるでかつての私を見ているよう。