望まぬ、最期。
肺の空気は、もう無い。
荒波に呑まれ、船は沈んでいく。
口から空気の泡が溢れて、上へ上へと登ってゆく。
美しい。
なんと、美しいのだろう。
青く澄んだ海の中から見る太陽は眩く輝き、
空気の泡は白く透明な丸い水晶みたいだった。
今生に悔いが無いと言えば、嘘に成る。
しかし、これほど美しい光景を最期に見られたのだ。
ならば、もう生を諦めて良いと思えた。
白い布手袋をはめる。
壊れぬように、破れぬように、慎重に手記を開く。
この手記は、貴族の邸宅の地下室から見つかった。
保存状態は極めて良く、日光、湿気、乾燥などからも守られていた。
ターコイズグリーンに染められた皮の背表紙、当時の最高品質の紙、
エメラルドグリーンのインクで記されていた。
この手記の著者は、とても裕福だったことが伺える。
記さている言語は多岐に渡るが、恐らく同一人物だと思われる。
根拠としては、ラテン文字や漢字などに共通の僅かな癖が在ったことから。
全体的に文字は、とても洗練された柔らかい文体。
この文体から、女性だと思われる。
ごくありふれた日常の出来事が記されており、
交際関係は、とても華やかで複数人とそういう関係に在ったようだ。
そして、驚くべきことに最も多い内容は子どもに関してのものだった。
子どもの成長、子どもの可愛いさ、子どもの将来について、などなど
様々な子どもに関する内容が、この手記のおおよそ八割を占めていた。
子どもと過ごす時間は少なかったみたいだが、
子ども一人ひとりに関する情報量がとても多い。
実子と養子合わせて、数十人分の描写が細かく、一人ひとり記されていた。
そして、手記の表紙の見開きには『大切な日々の記憶』と記され、
手記の裏表紙の見開きには、
『世界一の宝物たちへ 世界一の幸せものより』と記されていた。
この手記の内容を解読し終わる頃には、みんな涙で顔がぐちゃぐちゃだった。
この手記の著者たる彼女は、家族のことを心から愛し、
家族たちもまた、彼女のことを心から愛していたことが伝わってきた。
こんなにも暖かく穏やかな手記は、今迄に類を見ないものだった。
私は、今迄どう家族と接していたっけ。
平和で、些細で、何気ない、私の歩む日々を大切にしたいと思えた。
この手記は『麗らかな手記』と名付けられ、博物館で展示されている。
月白の髪、紫翡翠の瞳、白磁の肌、整った特徴の無い顔立ち。
『美の権化』、そんな言葉が浮かんだ。
翠色の衣を身に纏い、その手には銀の剣を握られていた。
まだ齢十二、三の童だ。
一瞬だけ、目が合った。
僅か、一瞬。
その一瞬で、殺された。
手練れの部下が、いとも容易く、首を斬られた。
あれは、到底、人間技では無い。
洗練された、剣舞のような剣術。
どれだけ人を殺めれば、あの領域に達するのだろう。
美しいものは、皆、好きだ。
自然も、芸術も、歴史も、文化も、言語も、人も、美しい。
この世界は、時に編み出された、美しいものたちで溢れている。
誰だろう。
白いレースのワンピースを着た少女が、こちらに駆け寄ってくる。
艷やかな黒檀の髪。
明るい琥珀の優しい眼差しの瞳。
朱色の紅がさされた口は弧を描き、微笑む。
ここは、どこだろう。
蝶は舞い、あたり一面に美しい花々が咲き乱れている。
『さようなら、愛する貴男。』
彼女の思考が流れてくる。
「生きて。」
彼女は涙を流しながら、柔らかく微笑みながら、そう言った。
目が覚める。
自然と、私は涙が溢れていた。
何故、夢の中で気が付かなったのだろう。
夢の中の少女は、幼き日の愛する貴女だったことに……。