「もう、こんな仕事やめてやる。」
酒瓶を片手に愚痴る男が居た。
「おい、大丈夫か。酔っ払い。」
私は、この男を昔から知っている。
「五月蝿い。俺は酔ってない。」
その口調は、完全に酔いが回っていた。
「いや、完全に酔ってる。一人称、変わってる。」
そして、この男は酔いが回ると、一人称が俺に変わる。昔のように…。
「五月蝿い!おまえに何が分かる。」
一従者たる私には、あなたの苦労は到底…分かりかねない。
「どんなに嘆こうとも、この仕事は辞められないって。
どうしても辞めたいなら、僕、自ら殺してやろうか。」
昔のように冗談を言ってみる。
「嗚呼、頼む。もう、私は全て終いにしたい。」
頭が真っ白に成った。
「いつ、酔いから覚めた。」
何故なら、その声にその口調はシラフの彼の口調だったから。
「僕、自ら殺してやろうか。って、ところから。」
バシッ「ふざけるな!」
思いっきり頬を引っ叩いて、大声を上げて、あいつの胸ぐらを掴んでいた。
「其れだけは、絶対言うな!其れだけは、言わぬ約束だろう!」
私は激情に駆られ、怒鳴ってしまった。
分かっている、今のは私が悪い。
誰だって、たまには弱音を吐きたくなるし、死にたくなるものだ。
でも、あの日、あの時、誓ったことを忘れていた、彼が許せなかった。
彼は、ひどく驚いた表情をして、安堵したような表情に成った。
「嗚呼、そうだったな。昔、誓ったのだったな。すまない。」
「こちらこそ、大人気なく感情的になってしまい、すみませんでした。」
あっ、彼の顔付きが変わった。
憑き物が落ちた、晴々とした表情に変わっていた。
『ルネさん』
『ルネさま』
『ルネ』
『あなた』
『お母さま』
『母上』
『母さま』
ハッ、ハーハァ、ハーハァ、スゥーッ、ハアー。
びっくりした…。
何で何度も、誰かに呼ばれた。
ハッハッハ…、何だ…夢か。
此れが俗に言う、走馬灯なのか?
右手を上げようと、ふと、右手を見た。
お母さまに右手を握られ、上げられなかった。
辺りを見回して、分かった。
此処は、病室だった。
嗚呼、なるほど。
だから、たくさん呼ばれたのか。
「お母さま、おはようございます。」
「お母さま、」
「ふふふ、起きてますよ。おはよう、ルネ。」
「おはようございます。」
嬉しくて思わず、頬が上がる。
「先ほど、たくさん、私が呼ばれる夢を見ました。」
「ああ…それは、此処に駆け付けた方々の声じゃないかしら。」
「そういうことでしたか。」
私の中で、納得した。
「ええ、あなたは生死を彷徨っていましたから。
本当に良かった。あなたの声をもう一度、聞けて。」
お母さまの声は、どこか安堵した声だった。
「ごめんなさい、心配をお掛けしました。」
「もう、謝らないの。家族にくらい、心配かけて良いの!」
「ありがとう。お母さま。」
「良いのよ…それくらい。わたしも謝らないといけないの。」
お母さまは、どこか申し訳なさそうな表情をした。
「あのね、あなたの家族のことなのだけど…。」
「どうしたの?」
「あなたを心配して、三日三晩ずっと…あなたのそばを離れなかったから、
あなたの容態が安定した時に、半ば強引に家に返したの。ごめんなさいね。」
「ううん、ありがとう。寧ろ、助かったよ。」
「久しぶりにあなたの手を繋いだわ。」
「あの時、以来ですね。」
「あなたが私の娘に成ってくれた日、以来ね。」
「はい。」
穏やかな時間が流れた。
「あっ、いけない。早く、あなたの目が覚めたことを皆に知らせないと。」
私は、幸せ者だな。そう、改めて思えた日でした。
あっ、死ぬかもしれない。
肩から横腹まで、斜めに斬られた。
幸い、予想してたより痛くない。
でも、もう無理かもしれない。
相手がおおきく振りかぶった。
『どうか、お気お付けて。ご武運を祈っております。』
凛とした、覚悟を決めた、妻の表情が蘇る。
一瞬の走馬灯。
もう、身体が動かない。
貴女と人生を共に過ごせて、歩めて、本当に幸せだった。
之まで、ありがとう。
そして、約束を果てせなくて、ごめん。
最高級品の和紙に文鎮を置き、硯で墨を磨る。
墨汁は便利だが、硯で磨った墨には敵わない。
筆に墨を吸わせ、硯の端で墨を拭う。
一文字、一文字、集中し過ぎないよう意識しながら、文字を書き連ねる。
そして、和多志の名を署名し、筆を置く。
最後に、玉印に朱肉を付け、署名の下に玉印を押す。
之で終わり。
重要書類を書いた後は、どっと疲れる。
之ばかりは、未だに慣れない。
窓から外を見ると、日は沈みかけ、空を朱く染めていた。
『たまには早く帰って、家族と過ごせ。そう云う時間は、無限では無いよ。』
上司に云われた言葉を思い出す。
今日は、早く帰ろう。
今夜は空気が澄み、月が美しい。
こういう日は、月見酒がしたくなる。
夜分遅くに仕事が終わり、久々に誰かと呑みたくなった。
「なるほど、それで和多志のところへ訪ねてきたと。」
そして、同僚の男を何の約束無く、夜分遅くに訪ねた。
「はい。酒瓶は、持ってきました。」
「和多志が明日、仕事なのをご存知ですか。」
「はい。たまには、こういうのも悪くないと思いまして。」
男同士、年齢も一つか、二つしか変わらぬ為、
悪びれもなく、図々しく呑みに誘ってみる。
「お断りします。と、言いたいところですが、今日は付き合います。」
「有難うございます。一つ、借しにして下さい。」
「いえ、以前こちらが借しを作ったので、これで帳消しです。」
縁側に二人で座り、杯では無く、湯のみに酒瓶を傾けて酒を注ぐ。
「「乾杯。」」
「やはり、仕事終わりの酒は別格です。」
「……どこの清酒ですか。」
「知人が酒蔵をやっていまして、そこの少し良い酒です。」
「良い酒だ。」
「そうでしょう。知人に伝えときます。」
「今夜の月は、見事なものです。」
「だから、誘ったのです。」
そこからは無言のまま…酒瓶の酒が尽きるまで、月を見ながら呑んだ。
「では、帰ります。」
「清酒、有難うございました。」
「いえ、こちらこそ、呑みに付き合って頂きましたから。」
「では、又。」
灯籠の要らぬほど明るい、良い月夜でした。