「俺、家こっちだから」
いつもとは違う帰り道、見慣れた景色に続く曲がり角の方を向いて、俺は彼女に言った。
「一緒に帰ろう」。そう話しかけられ、一人歩く俺の隣に並んできたのは同じクラスの女子。
何が目的かはわからないまま、かといって断って逃げていくこともできず、進学や就職の話など、先生と生徒の間で交わされる軽い質疑応答のような会話をしながらここまで歩いてきた。
会話中、相手は何度か俺の名前を読んできたが、俺は彼女の名前を覚えていない。
そんな、奇妙な下校もようやく終わる。
「あぁ、そうなの?」
彼女はとても驚いた様子で俺を見る。思えば、俺から彼女に話しかけたのはこれが初めてだったかもしれない。
それ程までに、彼女は一方的に俺に興味を示してきていた。何故?
首を傾げそうになりながらも、「さよなら」と別れの挨拶を告げ、彼女を置いていくように早足で歩き出した。
「えと、また明日ね!」
背後から声をかけられる。その時は何も感じることはなかったのだが、彼女から数メートル、家から一番近い横断歩道で立ち止まっている時、ふと胸元に違和感を感じた。
また、明日。
明日も、ある。待ってくれている。
ただ一つ、何気なく言ったのであろうその言葉が反響して、大きさを増していく。
心臓の壁がキュッと縮み、血液が一瞬止まって、くらりと俯く。
目眩にも似た感覚。
明日もまた、あの子が隣にいる。
それがどんな感情なのか、言葉にして説明することは難しくて……いや、きっとできないんだと思う。
ただ一つ言えることは、その日を境に、彼女との距離は確実に縮まっていったということだけ。
さよならは言わないで
太陽が昇ったかと思ったらいつの間にか月と交替していたり、晴れ渡っていた次の日には嵐が入国してきたり。
この世界は、光と闇を繰り返して進んでいく。真の意味で平坦で永遠な日々などない。良いことと悪いことの境界線は曖昧、もしかしたら無いのかもしれない。
感情もきっと、そんなものだ。
光と闇の狭間で
圧倒的、劣等感。
それはきっと、小説家や芸術家といった創作を生業とする人間だけではなく、スポーツや学業、いや、何かに本気で向き合う総ての人間が感じるものなのだろう。
俺には物書きの師匠がいる。
師匠……というよりかは、彼女を亡くし、作品も作れず、抜け殻のようにただ日々を過ごすしかなかった俺の前に現れた救世主のような存在だ。
その人は俺にとっての太陽であり、俺は彼に対して崇拝に近い感情を抱いていた。
そして、そんな彼の言葉が今もずっと頭の中に残っているのだ。
──君の作品は本当に個性的で良いよねぇ。新しい表現法を常に探しているっていうか、そういう貪欲さが感じられるんだよね。僕は好きだなぁ、君の書く小説。
彼はよくそう言ってくれた。俺の書いた物語を読んで、それを褒めてくれた。
しかし、今思い返してみれば、遠回しにぐちゃぐちゃであると、こんなの文学作品ではないと揶揄していたのかもしれない。
彼は天才だった。
まるで作家になることを運命づけられ、本人もそれを知っていたかのように生まれた瞬間から並々ならぬ努力を重ね続けた。
世界的ヒット作があるわけではないが、それでも根強いファンを持つ名作家として今でも多くの人に愛されている。
神の寵児なのだ。彼という作家は。
対して、十数年前まで何の夢もなかった俺はただ読書が好きだからという理由から唐突に始まり、惰性で続けてきただけの凡人に過ぎない。しかも、その才能は彼に遠く及ばないときている。
遠い、遠い。俺の作品を認めてくれる数少ない人間の一人が、俺というどうしようもない存在を気にかけてくれる人が、むしろここで何もかも総て終わらせてしまったほうが幾分かマシなのではと思う程に絶望しか見えてこない俺の人生を、変わらず照らし続けてくる太陽が。
あんなにも、遠い。
圧倒的、劣等感。
距離
雨の音だけが聞こえてくる青い夜。本や書きかけの原稿用紙が散在するその部屋の端っこで膝を抱えて蹲っている彼を、私は何もできずに見つめていた。
彼は何か辛いことを思い出したりすると、いつもわざと明かりをつけないで一人で泣いている。正直最初は驚いたし、何より怖かったのですぐに明かりをつけていたが、泣き顔を見られたくないのでは、と気づいてからは、彼が満足するまで暗くしていることにしたのだ。
……しかし、彼は泣いている理由を一度も話してくれたことがない。それどころか泣いていることを知られたくないのか、泣き声やすすり泣きの音さえも出さない。ただひたすらに瞳から雫を落とし続けている。
私がそこにいても、彼は一人で泣いている。それを見るのは、とても辛い。
泣きたいときは泣けばいい。
それでも、言ってしまいそうになる。
泣かないで
本の重さでガタガタと揺れ動くカゴに揺らされ、自転車のライトが遠くの針葉樹林をぼやりと照らす。
寒い、暗い、まずい。冷たい風に肌を刺されながら、思ったより早い時間に太陽が降りてしまった世界を駆け抜ける。
街の中心にある大きなデパートに飾られていた、これまた巨大なピンク色のクリスマスツリーに見とれていたら、いつの間にやら外が暗くなっていたのだ。
行きつけの書店、上り下りのエスカレーターの先に、それはあった。「冬は終わりの季節」「真っ白で味気ないわ」と読んでいた小説の中の少女は言っていたが、ふと顔をあげてみればついこの前までかぼちゃおばけの王国だったその空間が、今では気の早いサンタと雪の結晶のホログラムに占拠され、味気ないとは真逆の、ギラギラな世界が広がっていた。
美しい、とは少し違うが綺麗ではあった。
冬のはじまり