どこか見覚えのあるその少年は、錆びてボロボロになった手すりの上から、ただ静かに水面に揺れる銀波を見下ろしていた。
十歳前後のあどけなさを残した柔らかな輪郭に埋め込まれている二つの瞳は、この世の悲しみやら不条理やら……とにかく、闇といったら思いつく物事総てをミキサーにかけ、その液体をそのまま眼窩に入れたかのように真っ黒で、ぼーっとした彼自身の表情も相まって生気を感じなかった。
そんな可愛げとは無縁の子供は、濁った水面下で大口を開けて絶望に耐えかねた彼が飛び込んで来るのを今か今かと待っている魔物をただ静かに見下ろしていた。
……あぁ、あの時はただひたすらに毎日が苦しかったよな。覚えているさ。あの夜も家に帰れず、いつも通りきらきらと輝く街をあてもなく歩き回っていたんだ。
そんな時に、その世界は見えた。
俺を終わらせてあげるって、逃してあげるって、ゆらゆらと誘惑してくる、おぞましくて魅力的な世界。
幼い俺は迷わずそこに足を踏み入れた。
……結局、幻想は幻想でしかなく、元の世界で人生は続き、今の冴えない俺に繋がると……ざまぁないな、あはは。
しかしまぁ、生きていればなんとかなってしまうものだ。今ではその体験さえも笑いながら小説や雑談のネタにしてしまっている事実が、我ながら恐ろしい。
あそこで終わらないで良かった。終わらせないで良かった。
意外と幸せなのだ、今の俺は。
終わらせないで
虐待は、愛から起こる。
図書館で適当に借りた実用書の中にそんな話があった。
曰く、良い子に育てたいが為にしつけが行き過ぎたり、良い人生を送らせたいが為に勉強や高得点を強要したりなど「その子が良くなる為」の行為がエスカレートしていくと、その行為はやがて愛情表現ではなく、単なる暴力へと変わっていくというのだ。
ここからはそれを読んだ後の俺の考えなのだが、まだ一人では生きられない子供にとって、親とは世界そのものであり、それを否定し、遠ざける事は、自分の安全を投げ捨てることに等しい。
だから子供は親に対して「どうやって逃げるか」ではなく「いかにして怒らせないか」を必死になって考える。
ならば、何もされなかった、無関心を貫かれた者は、完全に愛されていないのか。
……そもそも、愛情とは何だろうか。愛されるとは何だろうか。
俺を含めた人間が、こんなにも執着している愛とは、どういうものなのか。
俺の大好物である答えのない問いが、頭の中をぐるぐる回る。
ふと、視界の端に、何かが映った気がした。視線を向けると、写真立ての中から微笑みかけてくる彼女と目があう。
……愛情とは、何だろうか。
俺には、まだわからない。
愛情
俺が抱く愛情は、いつでも微熱から始まっていた。
一日中読書をしていることを、俺は何とも思っていなかった。ただ、己の人生には欠かせない行為、心臓を動かすのに必要不可欠な要素。
しかし、他の子供たちといて気づいた。
俺は、読書を愛している。
その時やっと、俺は自分の高熱に気づいたのだ。
ただひたすらに散歩することを、俺は何とも思っていなかった。ただ、小説を書くときのネタ集め、頭を空っぽにして世界に向き合う時間。
しかし、並ぶ自己啓発書を見て気づいた。
俺は、散歩を愛している。
その時やっと、俺は自分の高熱に気づいたのだ。
彼女と見つめ合えることを、俺は何とも思っていなかった。ただ、彼女は物好きなだけ、興味がなくなれば、俺は再び一人だ。
しかし、彼女が亡くなって気づいた。
俺は、彼女を愛していた。
その時やっと、俺は自分の高熱に気づいたのだ。
過ちに、気づいたのだ。
微熱
運動会という行事が、俺は本当の本当に大嫌いだった。
騒がしい、暑い、疲れるの三大嫌い要素が重なる最低な行事だ。
散歩が趣味なお陰で持久力はあるが、協調性や身体能力が全く備わっていなかった俺は、皆でスポーツをするその日が本当に嫌いで、競技に出る回数を極限に抑えたとしてもどうでもいい勝ち負けを見届ける為に炎天下の中を半日以上座り続けなければならないことに苛立ちさえ感じていた。
日焼けするだけの日。正直、その日だけ学校をサボり、一日中読書していた方が何倍も有意義だとさえ思っていた。
……何だか勢いに任せてボロクソに言ってしまったが、もちろん個人的な意見であり、各組のイメージを元にした旗のイラストはよりどりみどりの個性的で、毎年どんなものが仕上がったのか楽しみだった。だから、完全に悪いだけとは思っていない……と、保険をかけておく。
今は冬に片足をつっこんだ秋だが、今年の夏のような炎天下で散歩をしていると、嫌でもその行事のことを思い出すのだ。
太陽の下で
やってしまった。
昨晩、洗濯機に適当にぶち込んだ衣服の中に縮んだセーターを見つけ、朝一番の軽い絶望に頭を抱えていた。
本当に、何も考えていなかった。確か、これを着たまま寝落ちしてしまい、カーペットとの擦り合いのせいで帯電してしまったのが気持ち悪かったので脱ぎ捨て、寝ぼけた頭のまま洗濯機にぶち込んだのだ。
あまり鮮明に覚えていないが、大体そうだった気がする。
虫にくわれ、静電気が発生し、洗濯で縮み……なんとも面倒くさい衣服だ、セーターは。
……しかし、俺はこんなセーターなんて買っていただろうか?
セーター