烏羽美空朗

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10/29/2022, 1:51:35 PM

星が遥か上空に見える。横幅一メートルもない路地裏を進んでいくと、二つ並んだ室外機のせいで更に狭まった道の奥に、大人一人がぎりぎり蹲まれる程の隙間がある。小学生位の子供だったら横たわることもできるが、それでも狭いものは狭い。

四方を外壁に囲まれ、外に出れるのは通ってきたこの道一本のみ。長くいると世界から完全に断絶されているように錯覚し始めるこの空間は、幼い頃の俺が歩き回ってやっと見つけた隠れ家だった。
諸々の事情で家にも学校にも居場所がなかった俺にとっては、ある意味この場所こそが唯一安らげる自宅であったのだ。

ここなら、誰も来ない。ここなら、静かに本を読める。尻や背中がじんわりと湿っていくけれど、慣れてしまった俺は特に気にすることもなくここにいた。
……今考えると、誘拐なり、暴力なり、病気なりと常に隣り合わせで、かなり危なかったのだな。あの日々は。

そう、もしも俺が、ここにいることによって、何かの事件に巻き込まれていたら。

あの頃に、俺の生が終わっていたら。

……それはそれで、悲しくも何かを教えてくれる素晴らしい物語として、世に知れ渡っていたかも知れないな。

いや、しかし、こうして生きていたからこそ、こんなにも沢山の物語を書き続けてこれたのだ。

俺の運命が、そちらの物語に続いていなくて良かったと、今、はっきりと言える。

もう一つの物語

10/28/2022, 1:09:20 PM

両腕で作られた暗闇の中で、ハッと目を見開いて、数秒後。書斎机、というよりかは原稿用紙にキスをしていた顔を上げる。
閉め切ったカーテンから僅かに外灯の光が漏れている。何時間寝てしまったのだろうか。

明かりをつけようとして、気付いた。そうだ、今は丁度、重苦しくて暗い別れのシーンを書いていたんだっけか。それで、昔のことを思い出して、一度意識してしまったら、視界は滲むばかりで……。

小説の執筆というのは、想像以上に精神力が必要なことであり、時に主人公たちと共に絶望に追い詰められることさえある。感受性が強すぎるだけと言われればそこまでだが、俺の作風がそちら寄りな為、精神がやられそうになることは多々ある。

そんな俺は、一人でよく泣く。いい歳した大人のくせに、と嗤われたっていい。泣くときは泣く。しかし、必ず暗がりの中で、と決めている。

理由は幾つかあるのだが、一番はもし彼女に泣いているのがバレても、その顔をしっかりと見られなくて済むからだ。前述のとおり、泣くことは恥ずかしいことではないと思っているのは事実である。しかし、彼女に見られるのは別だ。
恥ずかしいというか、なんというか……。

とにかく、彼女がいなくなった今も、その癖が抜けていないのだ。

あと、もう一つ。俺が泣いている時、彼女は何も聞かずに頬を撫でてくれた。その時の彼女の表情をしっかりと見なくて済むから、という理由もあった、かも知れない。

しかしまぁ、今夜は本当に暗いなぁ。

暗がりの中で

10/27/2022, 1:21:09 PM

ゴボゴボゴボゴボ……沸騰を急かすように次第に大きくなっていくそれに、聞いているこっちまで少しばかり不安を誘われる。
数秒後、カチッ、という音を最後にその音が遠ざかっていくのを感じ、俺は安堵して本を閉じた。

湯通しで温めておいた透明硝子のポット。その中にスプーン一杯分の茶葉を入れてから、未だ沸騰中のお湯をゆっくりと注いでいく。透き通った橙が重なり、だんだんと濃くなって、濁って。夕日とは少し違うすっきりとした橙だが、俺はこの橙も好きだ。

三分見つめて、スプーンで一かきしてからティーカップに注ぎ入れる。
微かに香るアールグレイ。ミルクもレモンも混ざっていない、芳香剤にするには控えめで上品すぎる、透明な香り。

最後の一滴が落ちる。書斎机に運ぶ前に一口だけ飲んでみると、ほんのり苦味を感じるが、不快ではない。むしろ、内側からだんだんと温まっていく身体は安らぎを感じ始め、思わず溜め息が溢れる程だ。

気取っているようだが、紅茶を飲みながらの執筆はなんだかとても雰囲気が良くて、いつもより鉛筆が進む気がしていた。

……一度だけ、注意力散漫で鉛筆を持ったままカップに手を伸ばし、バランスを崩して原稿用紙に盛大にぶちまけたことがある。周りの小物までをも巻き込む大洪水は、今も苦い経験として俺の中と机のシミに刻み込まれている。

その苦味を持ってしても、この安らぎは捨てがたいのだ。

紅茶の香り

10/26/2022, 1:22:34 PM

「ありがとう」
伝えようと思えば誰もが口にできる、この言葉こそが俺は愛言葉だと思っている。

本来、愛を伝えるのに難しい言葉などいらない。飾った言葉などいらない。ただ、感謝を、君といれて幸せだと、ずっと共にいたいと、そう伝えれば良い。
しかし、心からそう思っている筈なのに、口に出そうとした瞬間、何故だかそれがとてつもなく難しく、まるで禁句を口走ろうとしているかのような感覚に伝えるのを止めてしまうときがある。

そんなときに、便利なのだ。
「ありがとう」という、愛言葉は。

愛言葉

10/25/2022, 1:06:00 PM

まさか、衣替えを先送りにしたせいで死にかけるとは。何が起きるのかわからないものだ。まぁ、九割位は昨晩の俺が感傷的になりすぎたせいなのだか。
寒くなり始めた時期の真夜中、半袖一枚で雨に数分濡れていれば、たとえ人生皆勤賞の健康な人間だって風邪をひくだろう。あぁ、昨晩の俺は本当に、馬鹿なことをしていた。
……本当に、死んだらどうするつもりだったんだ、俺は。

押し入れから引っ張り出した適当な服を何層にも着込み、そのまた上から掛け布団を巻いて、六畳の角で一人震え続ける。

暑くて、寒くて、苦しくて、眠たくて。しかし、目を閉じれば閉じたでぐるぐるピカピカとしたサイケデリックな世界に空いた大きな空洞に落ちていく感覚に襲われ、もうおかしくなってしまいそうだった。

こんな時に友達でもいれば、事情を説明して解熱鎮痛薬や消化に良い何かを買ってきて貰うこともできるのだろう。だが、あいにく俺は誕生以来一人も友達を作る気になれず、こうして一人、そこそこ幸せな人生を謳歌している。
……数年前まで、彼女はいた。友達はいないのに、何故だか彼女はいた。
色々特殊だったのだ。俺と彼女の出会いと関係と、そこにある感情は。

和気藹々と輪に混ざり、誰とでも遊べる彼らの関係を友達といえるのかは、俺にはわからない。あの時から俺は一人で折り鶴と遊んでいたから、やはりわからない。

友達。読んできた数多の本の中でその単語が出てきた。書いてきた数多の作品でその単語を使った。
しかし、俺は未だにその単語の意味がわからないようだ。

はっぐじょん、鼻の奥が痛くなる程のくしゃみをして、再び震えだす。

……あぁ、馬鹿なことをしたなぁ。
ぼやけた視界に苦笑を残し、俺は諦めて悪夢の空洞に落ちていった。

友達

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