烏羽美空朗

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10/24/2022, 11:33:01 AM

巻かれた栗色の髪はいつも艶めき、落ち着きのないくせにふわふわと揺れる危ないスカートを好む、トイプードルのように騒がしく無邪気な彼女。
感情を顔や声に出すのが苦手で、人間という物を理解できなかった、いわば人間もどきである俺の、唯一の理解者だった彼女。
いつもいつも笑顔で、どんな文章を書いても、決してそれと俺を否定しなかった、人間のくせに優しすぎた彼女。

雨の夜、ただ夜道を女一人で歩いていたというだけで、悪意ある人間に追いかけ回され、このマンションの手前でぐっさりと刺された不憫な彼女。

俺の目の前で、遠く、遠くへ行って、もう二度と、帰ってこない彼女。


冷たい、冷たい、彼女。


……何故?何故俺は、一緒に行かなかった。たかが近所のコンビニ、だったら共に行っても良かったじゃないか。それか、雨だし暗いから。そんな感じの言い訳で、引き留めていれば良かったのか?

通り雨が衣服を濡らしていくのにも構わず、俺はベランダからあの道路を見下ろし、一人過去の幻想を描いていた。

行かないで

10/23/2022, 1:07:37 PM

カーテン越しでもわかるほどに、今日は天気が良い。なんだか自分の調子も良いみたいだし、少しだけ遠出をしよう。あまり使っていない自転車の鍵を回し、人の波に突っ込まないよう、猫やゴミさえも轢かないように細心の注意を払って飛び出した。少し前までは心地良かった風も既に冷たいだけの秋風になっており、通行人が全くいないような脇道に入った頃には、頬がすっかりと冷え切っていた。

二十数分後、ペダルをこぐ足が止まったのは何も無いあぜ道。石と泥だらけででこぼことした道に疲れ、手押しで自転車を運びながら、田んぼと田んぼの間を歩いていく。既に稲刈りが終わったそれは少し寂しくもあるが、落ち穂を突き、稲株からちょこちょこと顔を出す鴉達はとても可愛らしく、美しい。「烏羽」と俺の名前に入れる程に、俺は鴉が好きなのだ。

ふと、一斉に鴉達が飛び立ち、俺もつられて空を見る。何の障害物もないここで見上げたことにより、俺はようやく今日の空には雲が一つも無いことに気付いた。快晴というものだ。
「美空朗」というだけあって、俺は空も好きだ。曇り空だって嵐の中だって、生まれたときからずっと、空は一秒たりとも美しさを失くしたことは無い、と思っている。

それにしても、見事に空一色。遠くの山にさえも雲が見当たらない。あまりにも見事な情景だったので、俺は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、一枚だけ写真を撮って引き返した。

どこまでも続く青い空

10/22/2022, 12:50:24 PM

頭がしっかりと覚めた後、まずはカーテンを開ける。まずはそこで目に映る僅かな情報から今日という日や季節を予想して、次にベランダに出て実際の空気を感じるのが、毎朝の習慣だった。
例えば、近くの木に止まった雀の太り具合だったり、深緑に枯れ色が混ざり始めているかだったり、朝日が遠くに見える赤い屋根の上をどこまで昇っているか、など、些細な世界の描写でも季節を感じ取ることができる。
今日もマンションの下に見える、通学路を談笑しながら歩く高校生達が紺色のカーディガンを羽織り始めたことに気づき、衣替えの季節をふんわりと察した。
いつの間にか冷え切っていた腕を擦りながら部屋に戻り、俺も衣替えをしなければ、と押し入れを開ける。

……しかし、適当に入れたタオルの雪崩に、結局同じ物ばっかり選んで殆ど着なかった半袖や薄地のカーテンが行く手を阻む。その奥底に、目的である冬服の詰められた収納ケースの角が僅かに見えたのだが、総てを払い除けてまでそれに手を伸ばす気にはなれなかった。

もう少し寒くなってからでも遅くないだろう。そう自分に言い聞かせ、俺はそっと扉を閉めた。

衣替え

10/21/2022, 1:34:42 PM

目的地も決めぬまま、沈みゆく太陽を追い詰めながら俺は歩いていた。
陽光を庇うように立ち塞がる坂を、足を引きずって息を切らし、少し後悔しながらも登り切ると、太陽は既に地平線の彼方へ逃げ切る寸前であった。
どっぷりと海に浸かり、燃え尽きる手前で一段と輝き出した今日の太陽に目を焼かれそうになり、慌てて逸らす。太陽から滲み出た絵の具を溶かした空と海は、毎日数分限定で橙に染まっている。

何の感情もなくそれを眺める。ふと、何故だか無性に叫びたくなった。
理由は不明だ。多分、今なら何を叫んでも夜の訪れと共に消えて、無かったことになるとでも思ったのだろう。それか、年甲斐もなく青春の真似事がしたくなったか。

思い切り息を吸い込んで、目と口を大きく開けて前のめりになる。
……が、特に叫びたいことが見つからなかった喉はただ息を吐き出し、それは大きな溜め息となって潮風に溶けていった。
そんな今の俺は、傍から見れば相当滑稽で不審な姿に映るだろう。

何だか馬鹿馬鹿しくなって、誰かが来る前にさっさと踵を返す。
見下ろす世界からは既に橙は消えていた。

しかし、もし、声が枯れるまで、何かを叫べていたら。
……少しだけ、この馬鹿馬鹿しさを嗤えたかも知れない。

声が枯れるまで

10/20/2022, 2:24:48 PM

眠りの水面下から浮上する直前まで、俺はいつも記憶を失っている。
自分は誰か。何処にいるのか。昨日は何をしていたのだろうか。今日は何をすべきか……など、自分に対する総てを一切忘れているのだ。
そうして一晩中、何も考えないでただ揺蕩っていた俺の襟元に、そろそろ起きる時間だ。と、現実への釣り針はこれまた巧みに引っ掛けられ、否応なしにぐんぐんと引き上げていく。その時のぎゅうぅんとする感覚の中に、何とも言えぬ気持ち良さがあるのだ。

瞼を開く。木目の天井がそこにある。何も考えないでそれを見つめていると、次第に預けていた記憶が上から降りてくる。

三秒かけて総てを思い出し、少し肌寒い感覚に躊躇いながらも身体を起こす。俺を離して冷えていく掛け布団のシワを伸ばし、差し込む朝日に目を細めた。

さて、無事に今日が始まったようだ。

始まりはいつも

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