Yushiki

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5/31/2023, 5:24:45 AM

 ──あんなに若くして可哀想に。
 ──運が悪かったのねぇ。


 一カ月くらい前のことだ。
 この道路で轢き逃げ事件が起きたのは。
 被害者は仕事から帰宅途中だった三十代の女性会社員。
 道端に倒れ早朝になるまで放置されていた女性は、発見した頃にはすでに心肺停止状態であった。

(もしかしたら『これ』は、そういう類いのものなのかもしれない・・・・・・)

 頭の中でそんな思考にいたるも、深く考えている余裕はなかった。

 息も絶え絶えながら、必死に足を動かす。追い付かれたらと思うと、それだけで血の気が引いて寒気がした。

(・・・・・・お願いだから、こっちに来ないで)

 普段から使い慣れていたはずの道が、いつからか不気味な雰囲気を漂わせるようになったような気はしていた。きっと一カ月前に起きた、あの事件がきっかけだったのだろう。

 どうしてもっと早くに、この場から立ち去らなかったのか。

 けれど、にわかには信じ難かったのだ。半信半疑のまま今日までこの道を、変わらずに歩き続けてしまった。しかも事件と同じ、こんな夜更けに。
 だから、目を付けられてしまったのか。
 心霊現象からは無縁の人生を歩んでいたはずの自分が、どうしてこんなことに──。

 私はただ逃げるしかない。
 この不快なほどに降り注ぐ、悍ましい感覚から。

 ひゅうっと、後ろからものすごい速さで、何かが顔のすぐ真横を通り過ぎた。あまりにも至近距離ですり抜けていったその何かに驚いて、思わず駆けていた足を止めてしまう。

(・・・・・・これは、・・・・・・刀?)

 私の行く手を阻むかのように前方のコンクリートの地面には、見るからに立派な日本刀が突き刺さっていた。固い地面にどうしてこんな日本刀が深々と突き刺さることができるのかという疑問が過るも、それよりももっと重大なことに気付き、驚愕で膝が震え上がる。

(・・・・・・っ!! 動けない!)

 まるで地面に足が縫い止められてしまったかのように、これ以上一歩も前へ行くことができない。私はその事実に悲鳴を上げるも、緊張で上手く声が出ないのか、周囲へ助けを呼べるほど自分の声が響かない。

 ざっ、ざっ、ざっ、と背後から近づいてくる足音に、私は為す術もなく振り返る。

「ああ、よかった、追い付いた」

 夜闇で影になっている場所から、落ち着いた声音が放たれる。

「これ以上離されたら、どうしようかと思ったよ」

 影から現れ出てきたのは、柔和な顔つきの年若い青年だった。青年は穏やかに微笑むと、こちらに歩を進めながらゆっくりと手を伸ばす。

「君を迎えに来たよ。残念ながら君のいられる場所は、もうこの世のどこにもないんだ」

 だから、在るべき場所に僕が案内するよ。

 青年のその言葉に、私は力が抜けたようにその場へと座り込んだ。

 ああ、そうか、と、腑に落ちて、私はやっと一カ月前に自分の身に起きた、事の顛末を思い出す。

 私はあの日、車に轢かれて死んだのだ。死んだ私に追い打ちを掛けるように、ここを通る見知らぬ人達から、望まぬ哀れみの言葉の数々が吐き出されるものだから、私はずっと逃げていたのだ。逃げても変わらないのに。私はもうここの他にはどこにも行けなかったのだから。

 けれど、青年がここも私の居場所ではないのだと教えてくれたおかげで、私はようやく心の底から安堵し、自分でも知らぬうちにたえていた涙を、思いっきり流すことができたのだった。



【ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。】

5/30/2023, 8:22:02 AM

 赤い雫が視界に入る。飛び散った生温い感触が、僕の頬に付着した。こちらに覆い被さるような姿勢で膝をついた彼は、高く屈強だった体躯を今にも踞りそうなほどに折り曲げて、荒い息を吐き出している。目を見開いたままそんな様子の彼を見つめた僕は、気付いたらその手を伸ばしていた。僕は傾く彼の身体をそっと抱き締め、その背中に腕を回す。ぬるりとした血液が手のひらに触れ、彼から溢れ出る夥しい量の鮮血は、もうどうすることもできないことを僕に悟らせる。

「・・・・・・お怪我は、ありません・・・・・・か?」

 消え入るような声が、普段と変わらぬ穏やかな調子でたずねてくる。僕が微かに頷くと、彼は「・・・・・・良かった」と、心底安堵したように息をついた。

 彼の吐息と共に、何台もの車が僕の後ろに到着したのが分かる。車からバタバタとした足音が下りてきたのが聞こえ、すぐさま僕と彼の周りを囲むようにして大人数の人だかりができた。

「ご無事ですかっ!?」

 人だかりの一人が大声を上げた。僕を守るように躊躇いなく銃弾の前に背を向けた彼の、今にも事切れそうな様子を目にして、すぐさま声を上げた人物はこれまでの事態を把握したようだった。

「早くこちらへ!」

 銃弾の雨は止んでいた。駆け付けてきたこちらの援軍に、敵対勢力もすでに逃げ去った後らしい。

 僕は傾いできた彼の頭の後ろへ手を置いた。ぽんぽんと労るように軽く撫で、もう身体を保っていることもできないらしい彼の耳元へ、そっと言葉を溢す。

「お疲れさま。君が居てくれて助かった」

 今までありがとう。そう言ったのが最後まで届いたのかは分からないが、項垂れたまま動かなくなった彼の陰から抜け出し、僕はこちらへやって来た幾人かの人に支えられるようにして車へと乗り込んだ。

 僕が乗車したのを確認すると、運転手はすぐさまハンドルをきる。先程までいた場所が遠離っていくのを、後部座席に背中を預けながらバックミラー越しに眺め遣る。その中に血だらけになった彼の姿が映り込んだ。

 僕は最後に掛けられなかった言葉を秘かに飲み込んで、視線を窓の外の過ぎ去る風景へと向けた。



【「ごめんね」】

5/28/2023, 11:10:43 PM

 陽射しが強くなってきた今日この頃。周りも風通しの良い涼しげな格好をする人が増えてきた。朝の通学途中に見える風景の中ですら、制服が長袖のシャツのままだったり、早くも夏用の半袖シャツを着ていたりとそれぞれだ。

 私はまだ半袖に腕を通すほどではないから、長袖シャツにときおり学校指定のカーディガンを羽織ったりして体感温度を調節している。

「よーっ、いつも早いな」

 後ろから肩を軽く叩かれた。思わず心臓が跳ねる。振り返ればそこには同じクラスの彼がいて、爽やかな明るい笑顔を私に向けてくれている。

「おはよう・・・・・・」

 何とか朝の挨拶を絞り出す。私にとってはこれが精一杯の発言だった。

「つーかっ、聞いてくれよ。俺、朝が苦手なんだけど、今朝は部活の朝練の鍵当番でさー。だから、昨日は念のため目覚まし3個かけて準備しといたわけよ」

 彼は口数の少ない私の代わりに、とりとめのない話題をふって会話を続けてくれる。私はそれに小さく頷き返しながら耳を澄ます。

「けど、そういう時に限って、目覚ましにセットした時間よりも早くに目が覚めんの。これって何でなんかね?」

 彼は今朝の様子でも思い出しているのか、おもむろに頭の後ろに両手を組んでは、目線を上へと放る。

「・・・・・・二度寝しなくて、良かったね」

 私はというと、隣を歩く彼の半袖のシャツから覗いた、その腕の形や筋肉のつきかたなどがまじまじと視界に入ってしまい、慌てて顔を逸らした。

「そういえば、今日は暑くなるんだってよー。思わず夏用のシャツ引っ張り出しちまったよ」
「そう、なんだ・・・・・・」

 現在進行形で私の体温が上がっていることなど、きっと彼は知るよしもないだろう。

 とりあえず、今日はカーディガンの出番はなさそうだ。



【半袖】

5/28/2023, 2:46:36 AM

「君たちは何か勘違いをしてないか?」

 横一列に並んで床に正座をする俺達の前を、その男はゆっくりと歩きながら呟く。男は人好きのする穏やかな笑みを口元に湛え、俺達それぞれの様子を観察するかのように、順番に眺め遣っていた。

「天国と地獄はね、いつだって隣り合わせなんだよ」

 控えめな声音なのに、男の声はこの四方を厚い壁に囲まれた薄暗い室内によく通る。

「たったひとつの選択肢の違いで、ほんの僅かな心持ちの違いで、同じはずだった状況が、人によっては天国にもなるし、地獄にもなる」

 歩いていた男の足がピタリと止まる。

「さて・・・・・・」

 男は一息つくように、肩の力を抜いた。俺達は俯いたまま動けない。誰も手足の自由を奪われてさえいなければ、人数だってこちらのほうが勝っているはずなのに、何故かその男の視界に捉えられると、誰もが萎縮し抵抗を諦める。

「これから君たちにいくつか質問することになる」

 男が上着の内ポケットへ手を差し入れた。カチャリという不穏な音が耳に届く。

「答えによっては天国に昇れるか、地獄に堕ちるかの分かれめだ」

 俺は勇気を出してチラリと視線だけを上へとあげた。

「みな心して発言するように」

 ニヤリと口角を上げた男は、至極楽しそうだった。その手に握られた黒光りする銃口に、一気に冷や汗が背筋を伝う。

 天国だろうが地獄だろうが、その狭間で生きる人間の世界ほど、愉楽と絶望に塗れた世界はないのだと、俺は改めて自覚した。



【天国と地獄】

5/26/2023, 11:24:44 AM

 頭上に広がる濃い闇色に、丸い黄金色が浮かんでいた。私は住宅街の中にぽつんと存在する小さな公園の、その敷地に設置されたブランコのうちのひとつに腰掛け、夜空を照らす唯一の光源をじっと見上げていた。辺りには私以外の人の姿は見えない。まるで自分ひとりだけが静寂に包まれた夜の世界に、取り残されたみたいな心地がした。

 何だか不思議な解放感に満たされたような気になって、今なら長年この胸に眠っていた想いを、こっそりと打ち明けても許されるような、そんな気持ちが何故か湧いてきた。私は念のためもう一度だけ辺りを見回して、誰もいないことを確かめる。両手を合わせて指を組み、そっと目を閉じて呟いた。


「──────」


 少しくぐもったような声になってしまったけれど、生まれて初めて言葉という形にした私のかけがえのない想いは、夜の世界に吸い込まれるようにして溶けていった。

 私は組んでいた両手を解いて顔を上げる。私の様子を見守りながら、変わらず夜闇を照らし続ける優しい月に向かって、しーっと人差し指を一本、自分の顔の前に立てて告げた。

「お願いだから、ここで私が呟いたことは秘密にしてね」

 あなたと私、ふたりだけの約束だよ。



【月に願いを】

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