Yushiki

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 ──あんなに若くして可哀想に。
 ──運が悪かったのねぇ。


 一カ月くらい前のことだ。
 この道路で轢き逃げ事件が起きたのは。
 被害者は仕事から帰宅途中だった三十代の女性会社員。
 道端に倒れ早朝になるまで放置されていた女性は、発見した頃にはすでに心肺停止状態であった。

(もしかしたら『これ』は、そういう類いのものなのかもしれない・・・・・・)

 頭の中でそんな思考にいたるも、深く考えている余裕はなかった。

 息も絶え絶えながら、必死に足を動かす。追い付かれたらと思うと、それだけで血の気が引いて寒気がした。

(・・・・・・お願いだから、こっちに来ないで)

 普段から使い慣れていたはずの道が、いつからか不気味な雰囲気を漂わせるようになったような気はしていた。きっと一カ月前に起きた、あの事件がきっかけだったのだろう。

 どうしてもっと早くに、この場から立ち去らなかったのか。

 けれど、にわかには信じ難かったのだ。半信半疑のまま今日までこの道を、変わらずに歩き続けてしまった。しかも事件と同じ、こんな夜更けに。
 だから、目を付けられてしまったのか。
 心霊現象からは無縁の人生を歩んでいたはずの自分が、どうしてこんなことに──。

 私はただ逃げるしかない。
 この不快なほどに降り注ぐ、悍ましい感覚から。

 ひゅうっと、後ろからものすごい速さで、何かが顔のすぐ真横を通り過ぎた。あまりにも至近距離ですり抜けていったその何かに驚いて、思わず駆けていた足を止めてしまう。

(・・・・・・これは、・・・・・・刀?)

 私の行く手を阻むかのように前方のコンクリートの地面には、見るからに立派な日本刀が突き刺さっていた。固い地面にどうしてこんな日本刀が深々と突き刺さることができるのかという疑問が過るも、それよりももっと重大なことに気付き、驚愕で膝が震え上がる。

(・・・・・・っ!! 動けない!)

 まるで地面に足が縫い止められてしまったかのように、これ以上一歩も前へ行くことができない。私はその事実に悲鳴を上げるも、緊張で上手く声が出ないのか、周囲へ助けを呼べるほど自分の声が響かない。

 ざっ、ざっ、ざっ、と背後から近づいてくる足音に、私は為す術もなく振り返る。

「ああ、よかった、追い付いた」

 夜闇で影になっている場所から、落ち着いた声音が放たれる。

「これ以上離されたら、どうしようかと思ったよ」

 影から現れ出てきたのは、柔和な顔つきの年若い青年だった。青年は穏やかに微笑むと、こちらに歩を進めながらゆっくりと手を伸ばす。

「君を迎えに来たよ。残念ながら君のいられる場所は、もうこの世のどこにもないんだ」

 だから、在るべき場所に僕が案内するよ。

 青年のその言葉に、私は力が抜けたようにその場へと座り込んだ。

 ああ、そうか、と、腑に落ちて、私はやっと一カ月前に自分の身に起きた、事の顛末を思い出す。

 私はあの日、車に轢かれて死んだのだ。死んだ私に追い打ちを掛けるように、ここを通る見知らぬ人達から、望まぬ哀れみの言葉の数々が吐き出されるものだから、私はずっと逃げていたのだ。逃げても変わらないのに。私はもうここの他にはどこにも行けなかったのだから。

 けれど、青年がここも私の居場所ではないのだと教えてくれたおかげで、私はようやく心の底から安堵し、自分でも知らぬうちにたえていた涙を、思いっきり流すことができたのだった。



【ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。】

5/31/2023, 5:24:45 AM