陽射しが強くなってきた今日この頃。周りも風通しの良い涼しげな格好をする人が増えてきた。朝の通学途中に見える風景の中ですら、制服が長袖のシャツのままだったり、早くも夏用の半袖シャツを着ていたりとそれぞれだ。
私はまだ半袖に腕を通すほどではないから、長袖シャツにときおり学校指定のカーディガンを羽織ったりして体感温度を調節している。
「よーっ、いつも早いな」
後ろから肩を軽く叩かれた。思わず心臓が跳ねる。振り返ればそこには同じクラスの彼がいて、爽やかな明るい笑顔を私に向けてくれている。
「おはよう・・・・・・」
何とか朝の挨拶を絞り出す。私にとってはこれが精一杯の発言だった。
「つーかっ、聞いてくれよ。俺、朝が苦手なんだけど、今朝は部活の朝練の鍵当番でさー。だから、昨日は念のため目覚まし3個かけて準備しといたわけよ」
彼は口数の少ない私の代わりに、とりとめのない話題をふって会話を続けてくれる。私はそれに小さく頷き返しながら耳を澄ます。
「けど、そういう時に限って、目覚ましにセットした時間よりも早くに目が覚めんの。これって何でなんかね?」
彼は今朝の様子でも思い出しているのか、おもむろに頭の後ろに両手を組んでは、目線を上へと放る。
「・・・・・・二度寝しなくて、良かったね」
私はというと、隣を歩く彼の半袖のシャツから覗いた、その腕の形や筋肉のつきかたなどがまじまじと視界に入ってしまい、慌てて顔を逸らした。
「そういえば、今日は暑くなるんだってよー。思わず夏用のシャツ引っ張り出しちまったよ」
「そう、なんだ・・・・・・」
現在進行形で私の体温が上がっていることなど、きっと彼は知るよしもないだろう。
とりあえず、今日はカーディガンの出番はなさそうだ。
【半袖】
「君たちは何か勘違いをしてないか?」
横一列に並んで床に正座をする俺達の前を、その男はゆっくりと歩きながら呟く。男は人好きのする穏やかな笑みを口元に湛え、俺達それぞれの様子を観察するかのように、順番に眺め遣っていた。
「天国と地獄はね、いつだって隣り合わせなんだよ」
控えめな声音なのに、男の声はこの四方を厚い壁に囲まれた薄暗い室内によく通る。
「たったひとつの選択肢の違いで、ほんの僅かな心持ちの違いで、同じはずだった状況が、人によっては天国にもなるし、地獄にもなる」
歩いていた男の足がピタリと止まる。
「さて・・・・・・」
男は一息つくように、肩の力を抜いた。俺達は俯いたまま動けない。誰も手足の自由を奪われてさえいなければ、人数だってこちらのほうが勝っているはずなのに、何故かその男の視界に捉えられると、誰もが萎縮し抵抗を諦める。
「これから君たちにいくつか質問することになる」
男が上着の内ポケットへ手を差し入れた。カチャリという不穏な音が耳に届く。
「答えによっては天国に昇れるか、地獄に堕ちるかの分かれめだ」
俺は勇気を出してチラリと視線だけを上へとあげた。
「みな心して発言するように」
ニヤリと口角を上げた男は、至極楽しそうだった。その手に握られた黒光りする銃口に、一気に冷や汗が背筋を伝う。
天国だろうが地獄だろうが、その狭間で生きる人間の世界ほど、愉楽と絶望に塗れた世界はないのだと、俺は改めて自覚した。
【天国と地獄】
頭上に広がる濃い闇色に、丸い黄金色が浮かんでいた。私は住宅街の中にぽつんと存在する小さな公園の、その敷地に設置されたブランコのうちのひとつに腰掛け、夜空を照らす唯一の光源をじっと見上げていた。辺りには私以外の人の姿は見えない。まるで自分ひとりだけが静寂に包まれた夜の世界に、取り残されたみたいな心地がした。
何だか不思議な解放感に満たされたような気になって、今なら長年この胸に眠っていた想いを、こっそりと打ち明けても許されるような、そんな気持ちが何故か湧いてきた。私は念のためもう一度だけ辺りを見回して、誰もいないことを確かめる。両手を合わせて指を組み、そっと目を閉じて呟いた。
「──────」
少しくぐもったような声になってしまったけれど、生まれて初めて言葉という形にした私のかけがえのない想いは、夜の世界に吸い込まれるようにして溶けていった。
私は組んでいた両手を解いて顔を上げる。私の様子を見守りながら、変わらず夜闇を照らし続ける優しい月に向かって、しーっと人差し指を一本、自分の顔の前に立てて告げた。
「お願いだから、ここで私が呟いたことは秘密にしてね」
あなたと私、ふたりだけの約束だよ。
【月に願いを】
厚い雲に覆われた空から降りしきる雨の中、屋根のついた小さなバス停のベンチに座っていた私は、次に来るはずのバスの到着を待っていた。
「こちらご一緒してもよろしいですか?」
そんなさなかに急に声を掛けられびっくりする。今の今まで辺りには自分しかいないと思っていたから余計にだ。
いつの間に現れたのだろうか。長い裾の薄手のコートに、鍔の広い帽子を目深に被った、いかにも紳士風な背の高い男の人が、目の前に立っていた。
私は小さく頷いてベンチの端の方へと移動する。男は軽く会釈を私に返し、空いたスペースに腰を掛けた。男は手に大きめの黒い傘を持っていた。それを杖のようにして地面に立て、持ち手の部分に両手を重ねる。不思議と男の傘は全くといっていいほど濡れておらず、よく見れば男の着ている衣服にも雨に打たれたような痕跡はない。いっこうに降り止まないこんな雨のなか、男はいったいどうやってここまで来たのだろうか。
「あの・・・・・・」
「どのくらいですか?」
「えっ?」
こちらから話し掛けようとする前に、男の方から私に問い掛けてきた。
「どのくらいで次のバスは来そうですか?」
男の質問に私は近くにあったバスの時刻表へ目を向けた。そこでふと違和感に気付く。
(あれ・・・・・・?)
眺めた時刻表には何も書かれておらず真っ白で、よく見たら停留所の名前すらも書かれていないことに気付く。ここがいったいどこで、私はいつからバスが来るのを待っていたのか、急に思い出せなくなる。
「・・・・・・あの、すみません。わかりません」
私は正直に男へと告げた。俯いた私の答えに彼がふと息をついたのが分かる。「そうですか・・・・・・」と、穏やかな声が鼓膜に届いたと思ったら、「それは良かった」と安堵したような響きが遅れて聞こえた。
私は返ってきた意外な答えに顔を上げる。目深に被った帽子のせいで男の目元は隠れて見えなかったが、その口元は僅かに笑んでいるようだった。
「それならあなたは大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、私にはよく分からない。きょとんとする私をよそに彼は続ける。
「この世界での行き先が空白ならば、あなにはまだこの世界での行き先がないということです。それならあなたは元いた現実へ戻れる」
私は首を傾げた。彼の言葉の意味を半分も理解できないけれど、かろうじてこれだけは訊いてみた。
「けれどこんな土砂降りの雨のなか、どうやって帰れば?」
彼は今度こそ分かりやすくニコリと笑った。
「大丈夫。もうすぐ雨は止みますよ。もし心配でしたら、これをあなたに差し上げましょう」
男は持っていた大きな傘を私のほうへ差し出した。私は咄嗟にそれを受け取ってしまう。それを見届けた男は、すっと立ち上がった。
「さあ、もうお行きなさい」
男はバス停から少し出たところで足を止め、外の世界を指し示すように片手をそちらへ向けて広げていた。私は男の片腕が雨に濡れてしまうと慌てて立ち上がり傘を広げたが、私が彼の肩に傘を傾けようとしたところでやんわりと男に背中を押され、私はバス停の屋根から外へと出る。
「いつかまた会う日までは、どうかお元気で」
そんな声が聞こえて振り返ったら、バス停に男の姿はもうなかった。開いた傘に雨が当たる音がする。けれど先程よりも弱まった雨音に、私は帰らなければならない場所があることを思い出した。
【いつまでも降り止まない、雨】
毎日が辛くて辛くてしかたがなかったね。
どうして私ばかりがこんな人間なのだろうと、誰かと比べては卑屈になっていたその気持ち、今でもすごく分かるよ。
明日が来るのが不安で、生きていくのが心許なくて、死にたい死にたいと口にしては、何とかそうならずに生きてきてくれたね。
ありがとう。
まだまだ苦しい日々を嘆いては、塞ぎ込んだりする時もあるけれど。
たまに何とかなるや、気にしなくても大丈夫だと、ほんの僅かだけでもそんなふうに考えられるようになったのは、あの時のあなたが何とか頑張って、こうしてここまで居てくれたおかげです。
不甲斐ない私だけれど、それでも、まだ。
どうにかこうにか日々を過ごしています。
今の自分のことはまだ全然好きにはなれないけれど。
あの頃の不安だった私へ。
あなたのことが、私は好きだよ。
【あの頃の不安だった私へ】