Yushiki

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 厚い雲に覆われた空から降りしきる雨の中、屋根のついた小さなバス停のベンチに座っていた私は、次に来るはずのバスの到着を待っていた。

「こちらご一緒してもよろしいですか?」

 そんなさなかに急に声を掛けられびっくりする。今の今まで辺りには自分しかいないと思っていたから余計にだ。

 いつの間に現れたのだろうか。長い裾の薄手のコートに、鍔の広い帽子を目深に被った、いかにも紳士風な背の高い男の人が、目の前に立っていた。

 私は小さく頷いてベンチの端の方へと移動する。男は軽く会釈を私に返し、空いたスペースに腰を掛けた。男は手に大きめの黒い傘を持っていた。それを杖のようにして地面に立て、持ち手の部分に両手を重ねる。不思議と男の傘は全くといっていいほど濡れておらず、よく見れば男の着ている衣服にも雨に打たれたような痕跡はない。いっこうに降り止まないこんな雨のなか、男はいったいどうやってここまで来たのだろうか。

「あの・・・・・・」
「どのくらいですか?」
「えっ?」

 こちらから話し掛けようとする前に、男の方から私に問い掛けてきた。

「どのくらいで次のバスは来そうですか?」

 男の質問に私は近くにあったバスの時刻表へ目を向けた。そこでふと違和感に気付く。

(あれ・・・・・・?)

 眺めた時刻表には何も書かれておらず真っ白で、よく見たら停留所の名前すらも書かれていないことに気付く。ここがいったいどこで、私はいつからバスが来るのを待っていたのか、急に思い出せなくなる。

「・・・・・・あの、すみません。わかりません」

 私は正直に男へと告げた。俯いた私の答えに彼がふと息をついたのが分かる。「そうですか・・・・・・」と、穏やかな声が鼓膜に届いたと思ったら、「それは良かった」と安堵したような響きが遅れて聞こえた。

 私は返ってきた意外な答えに顔を上げる。目深に被った帽子のせいで男の目元は隠れて見えなかったが、その口元は僅かに笑んでいるようだった。

「それならあなたは大丈夫だ」

 何が大丈夫なのか、私にはよく分からない。きょとんとする私をよそに彼は続ける。

「この世界での行き先が空白ならば、あなにはまだこの世界での行き先がないということです。それならあなたは元いた現実へ戻れる」

 私は首を傾げた。彼の言葉の意味を半分も理解できないけれど、かろうじてこれだけは訊いてみた。

「けれどこんな土砂降りの雨のなか、どうやって帰れば?」

 彼は今度こそ分かりやすくニコリと笑った。

「大丈夫。もうすぐ雨は止みますよ。もし心配でしたら、これをあなたに差し上げましょう」

 男は持っていた大きな傘を私のほうへ差し出した。私は咄嗟にそれを受け取ってしまう。それを見届けた男は、すっと立ち上がった。

「さあ、もうお行きなさい」

 男はバス停から少し出たところで足を止め、外の世界を指し示すように片手をそちらへ向けて広げていた。私は男の片腕が雨に濡れてしまうと慌てて立ち上がり傘を広げたが、私が彼の肩に傘を傾けようとしたところでやんわりと男に背中を押され、私はバス停の屋根から外へと出る。

「いつかまた会う日までは、どうかお元気で」

 そんな声が聞こえて振り返ったら、バス停に男の姿はもうなかった。開いた傘に雨が当たる音がする。けれど先程よりも弱まった雨音に、私は帰らなければならない場所があることを思い出した。



【いつまでも降り止まない、雨】

5/25/2023, 11:22:50 PM