未来
部屋でぼぅっとしている。
無意識に、僕は瞼を閉じる。
ブラインドを閉じたような、陽射しからの暗闇に。暗闇はアメーバに。ぐねぐねと動き、形になっていく。動きはスローモーションではなくて、早送りな画のように。それはまるで、影絵みたいで、どこか砂絵のようでもあって。瞼の裏側に、一寸先の未来を描く。
未来が見えるというと、とても羨ましい話のように思える。それでも、見えるのが僅かに先のことで、しかも瞼を閉じるというワンクッションが、この有難いはずの力を、とても使い勝手の悪いものにしていた。
どれだけ早送りなアメーバも、瞬きの素早さには追いつかないし。覚醒と睡眠では、瞼を閉じる工程が同じでも効能は違うようで、睡眠中に未来を見通せたことは一度もない。あくまでも意識的に。もしくは、無意識的に。完全な覚醒を保ったまま、瞼を閉じることが必須のようだった。
この条件を満たして映し出される未来といえば、これがまた、下らなくて泣きたくなる。飲食店で料理を口にしたときの自分の反応だとか。ボードゲームをしたときの自分の勝敗だとか。カラオケで熱唱したときの、友人の微妙な表情だとか……。
ちょっとした得があるとすれば、毎週日曜日のじゃんけんに無敗でいられることぐらいだろう。
一寸先は闇という。
先の予測がつかないことの喩えだ。
限定的ではあれ、一寸先の未来を見られる僕に光はあるのだろうか。闇に触れたことも、光に触れたこともない身からしたら、一寸先が分かるとも、分からなくとも、どうでもいいような気がしていた。
部屋でぼぅっとしている。
無意識に、僕は瞼を閉じる。
アメーバが形を作った。取り乱す母の姿。
おじいちゃんの様子が変だと。
僕は、最期の声に間に合わなかった。
なら、瞼を開こう。駆け出すために。
声に間に合う、未来がまだあるかもしれないから。
一年前
世界の仕組みが壊された。
誰かか、僕の手によって。
手元のカレンダー。今日にバツを記す。僕の記憶に間違いがなければ、ちょうど、一年が経った。
思い返せば。いや、思い返さなくても、これまでの人生で一番、濃度の高い一年間だった。
水曜日。天気は晴れ。社会人である僕には、仕事がある。でも、今日は特別な日だから、無断欠勤をする。携帯には、暇な上司からの着信や、メッセージが画面を通知で埋めるほどに届いている。
はじめて無断欠勤をしたときは、さすがに気が引けた。今は慣れたものだ。一切の応答もせず、特別な今日に行うべきことを考える。
実のある一年は、テキストを眺める学生生活よりも、小言を言われ続ける社会生活よりも、有意義だった。僕がしたいことをし続けた、したくないこともやってみた、実体験ならば、どんな作家よりもリアリティを強く反映させることができる自信がある。
日本中を飛び回った。美味しいものを毎日たべて。毎日、全財産を使い尽くす。泥棒をして、殺人をして、自分が考える完全犯罪を実行してみたり、それがムダ打ちに終わって警察に捕まったり。そんな豪遊と犯罪の毎日だった。
最高だ。どんなことも、好きなように。誰にも、なにも気にすることなくできた一年。飽きることのない、スリルばかりに満たされた毎日。ただ、どうしても、生きている実感というものだけが満たされない。
一年前。僕の記憶に間違いがなければ、ちょうど今日。水曜日。天気は晴れ。同じ日は続いている。
まさか、こんなに続くとは思ってもみなかったけれど。世界の仕組みが壊されてしまったのなら、仕方がないのかもしれない。誰かか、僕の手によって。
明日はどうなるだろう。
一年とプラス一日で、世界は動き出すのか。
今日は特別な日だから、贅沢に使おうと決めた。このまま、深い眠りに落ちて。書いても、書いても消されてしまうバツ印が、明日、僕の抜け殻とともに残っているのかを誰かに確かめてもらうために。それとも、また真っ新なカレンダーを自分で確かめるために。
死というものは一生に一度か。
最高だ。どんなことも、好きなように。
ようやく実感が満たされて。
今なら死んだっていい。
終わらない一年前からの僕のままで。
好きな本
読書よりも、書く方が好きな人生を歩んでいる。
自宅に棚はあっても、本は収納されていない。棚にたくさんの背が並んでいても、そこにプリントされるタイトルはどれも、ボードゲームのものだ。いや、それだけではなかった。映画のタイトルも並んでいる。
趣味の執筆。頭に浮かぶ、自分だけの愉悦をしたためるために、ローテーブルにはパソコンが一台。本を見つけられるのは、そんなパソコンの周辺に限られる。読書のためというよりも、資料の名目。けれども、まだ四半世紀をわずかに過ぎたばかりの人生で見つけた、自分だけのお気に入りは、確かにそこにあった。
マンガはあまり好きじゃない。でも、絵が上手くなりたいと考えたことは何度もある。勉強はかなり苦手だ。でも、頭を良くしたいと遅れを取り戻そうとしたことは数多い。ゴシップには興味がわかない。でも、記者の仕事に就いてみようかと考えあぐねたことはある。
そんな自分の手元には、やはり、マンガも、参考書も、雑誌も、存在しない。あるのは主に、小説本。ジャンルはミステリに傾倒している。
世の中には数えきれないほどの本がある。
廃れていったって、今なお、消えることはない。
下手な鉄砲も数を撃てば当たるように、読み尽くせないほど存在する本に、あてどなく手を出していけば、誰だって、好きな本に巡り会えることだろう。特に自分などは、好きなジャンルが決まっている分、どれだけ読む数が少なくても、当たりを得ることは多くある。
ミニマリストほどではないけれど、所持品を増やすのはあまり好きな方ではない。本に対しても、その気持ちは同じだ。一方で、収集癖な所もあって、お気に入りだけは、いつまでも、手元に残したくなる性分でもある。ローテーブルに置かれた、一台のパソコン。周辺に並ぶ本の群れのほとんどは、実は、そんなお気に入りたちだったりする。
それでも。そんな中から、たった一冊の好きな本を選べと言われたら、僕はなにを取るだろう。考える必要もない。その本に初めて触れた瞬間から、これだけが、この先で出会うどんな本よりも、特別で、大好きであると分かっていたから。
僕は趣味で物語を紡ぐ。
作家になろうと思ったことは、恥ずかしながら、やっぱりあるのだけれど、なれると思ったことは一度としてない。だから僕は、夢をお金で買った。
必死に紡いで、自分のためだけに、自分の好きなものを多く込めた、そんな物語。依頼をかけた印刷所から送られてきた、たった一冊の夢。喜びと虚しさが同居する気持ちの奥底でも、手にした一冊は、なによりも特別だ。
あいまいな空
白いものに色をつけよう。水に溶かした色を落として。一層でもいいし、何層でもいい。好きなように、好きなだけ。白いものに、新しい形を残していくように。そうして、できた形に名前をつけよう。自分だけの名前を。白いもの。その繊維の一つ一つに着色されて、染み渡った、あなただけの模様に。……でも一体、なんと名前をつけたらいい?
空模様という言葉がある。
空を見上げたときに、見上げた人が感じる模様がある。曇っていれば、雨が降りそうで。でも、曇り空に陽が差し込めば、いずれ晴れそうで。季節によっては、雪が降りそうだし。雲の形を見て、どこかに地震がきそうな予感を抱くことさえある。でも、ほとんどの人が、そんな模様に名前を与えることはない。目に見えるものに、模様という記号がすでにあるから。
心模様という言葉がある。
自分の内側に潜む、本当に存在しているのかも分からない、心という輪郭。輪郭のさらに内側を埋める、自分だけの色。そこに模様が広がった時、人は感情というものを知る。
空と心は似ている。実際、心をあらわすときに、今日は晴れ模様と言ったり、曇っていると感じたり、雨に濡れている気がすることもある。けれども、一つだけ大きな違いがある。それは、そこにある模様を、自分の力で塗り替えることができるかどうか。
僕たちは自然に敵う力を持っていない。だから、魔法に憧れたりもするのだけれど。道端に落ちる枝を振っても、お守りを握って天を仰いでも、気持ちを込めたてるてる坊主を吊るしても、自然が僕たちの望む模様を写すカンバスになってくれることはない。
でも。自分の心はどうだろう。
たったの一滴でもいい、色を落とすことはできないだろうか。難しいかな? そんな時もある。
心というのはとても曖昧で。自然のように複雑で。ただ、とても純粋に。自分というものを写してくれたりもする。僕たちだけの、カンバスに。
白いものに色をつけよう。
一層でも、何層でも。たまには、すでに描かれた模様にだって。好きな色を落としてもいい。
そうして、できた形に名前をつけよう。
自分だけの名前を。
でも一体、なんと名前をつけたらいい?
あなたの好きなように。
あじさい
厚い雲がかかる。光沢のない、鈍い鉛色。人は上を見て、嘆息を吐く。雨模様を悟って。天気予報を見なくても、傘が必要になることは勘が促している。僕の場合は、勘よりも先に偏頭痛が、今日の項垂れた天気を痛みに変えて受信していた。
学校に向かう途中ですでに、薄い線の雨が空から落ちてきた。あまりに薄くて、はじめは気が付かない。夏の訪れを予感させる、じめつく暑さ。そんな空気のなかでも、学生服の長い袖に腕を通して、長い裾に足を通せば、肌の露出は格段に少ないから。たまに頬を掠める冷たいものが、「ああ、降り始めたかも」なんて、頼りにならない気づきで、薄い線の注ぎにようやくピントを合わせようとするのだ。
雨が降る日が増えてきた。温暖化というものの影響なのか、年々、季節の境目が不明瞭になっている気がする。そのためか、梅雨入りさえもはっきりとしない。新聞も、ニュースにも、興味がないから、本当はテレビのどこかで、「梅雨入り」の報告があったりもするのだろうけど、僕は情報の外側で、雨乞いとは真逆の晴乞いを、心でそっと続けるばかりだ。
校舎に入ってしばらくすると、談笑や、講義中の声にノイズをかけるみたいな雨が降り出した。日常に集中をしていると、意識の枠から外れてしまうけれど、ふと、なにかのきっかけを得たように、雨音は鼓膜を衝きはじめる。地面を打つ激しさ、窓ガラスに跳ねる軽やかさ、水溜りに沈む侘しさ、その全てを、雨晒しから身を守る安全地帯の表側で、演出している。多くの人に存在を嫌われながらも、それでも気がついてほしいように、煩わしいほどの音を立てて。僕らから、日常への集中を奪っていく。どうだろう。そのせいなのだろうか。今日は一段と、学校のなかは静まり返っている。
下校となり、持参した傘を広げて外に出た。
雨の激しさが、足元を素早く濡らしていく。
地面の窪みに広がる、水たまり。踏まないために、僕は。僕らは、下ばかりを見て歩いている。頭痛は続いている。湾曲した首の後ろが、なんだか重たい。やはり、雨は嫌いだ。否が応でも、こちらの気分を虚にしてくるから。光沢のない、鈍い鉛色。雨続きのここ最近は、世界がどこか、色褪せて見える。