桜が咲く時季にだけ現れるあの人に会うために、南から北へ旅をする。「君も難儀な人だね。よりにもよって私だなんて」と笑うだけで決して突き放しはしない、優しくて残酷な人。
「そう思うのなら、連れていってちょうだいよ」
「それは困ったなあ」
彼の通った直後に桜が咲き、彼がその土地から離れると散っていく。
桜の季節しか会えないあなたとの一年に一度の逢瀬。この旅が昨年より一日でも長く続くようにと祈りながら、終わりを知らないふりをして歩いていく。
【桜散る】
「わっちと逃げておくんなまし、旦那」それが叶えばどれだけ良いだろう。ひとときの夢を魅せるための箱庭からこの蝶と共に抜け出せたのなら、朝になってもこの手を離さずにいられるのだろうか。
【ここではない、どこかで】
「初恋、ねえ」
きらきらと好奇心で輝く瞳に見つめられ、思わずたじろぐ。喉の奥のひりつく痒さに耐えかねて、薄い皮膚を引っ掻いた。少なくとも自分にとっての初恋は、それほどいいものではなかった。
調律師だった父の仕事について回るのが日常だった子どもの頃。教会や学校が主な取引先である中で、数軒の個人所有の屋敷にも出入りをしていた。
その屋敷の持ち主はいわゆる地主と呼ばれる人たちで、教養の一つとして娘に洋琴を習わせているようなところばかり。澄ました顔で整調済みの洋琴を弾く令嬢たちのほとんどは、整調前後の違いなどまるでわかっていないのに「先生のおかげで素敵な音になりました」と父を持て囃す姿は子どもながらに滑稽に見えた。笑わないように焼き菓子を口に詰め込んでむせ返るのは、もはやその頃の一連の流れでもあった。
そのわずかな音の違いがわかる耳を持って生まれたことはこの世の幸運であり、それもこれも自分の血を引いているからだと父は言った。父の自慢らしいこの耳の持ち主は「この世の音すべてがうるさくてかなわない」と煩わしく思っているが、そのことを当の本人は知らないのだから幸いなのはそちらではないかと父に向かって心の中でよく吐き捨てたものである。
雲ひとつないどこまでも青い夏空の日。ジリジリと肌を照りつける陽射しに足を重くさせながら、洋琴の演奏会の時に着るような他所行きの格好でたどり着いた屋敷は実に見事なものだった。よほど裕福なのか舶来もので溢れている。手入れの行き届いた庭の一角に、オランダから渡ってきたばかりのチューリップが時期はずれに数本咲いていたが、さすがに間も無く枯れるだろう。
紳士然とした振る舞いでありながら、構わずずんずんと奥へ歩みを進める父の背中を追う。その際にすれ違った使用人たちは見慣れた様子で、依頼人のいる方を指差した。
「お嬢さん」
「あら先生、もう約束のお時間でした?」
日陰で椅子に座り本を読んでいた女が顔を上げると、絹のような黒髪が肩口から滑り落ちていく。
「今日はお連れ様がいらっしゃるのね」
父を挟んで向かい合うと、こちらの存在に気づいた女の垂れた目がやや見開かれて丸くなる。父は仕事に支障がなければわざわざ連絡をしないような筆無精なきらいがあったため、こうしたことも決して珍しいことではなかった。
「息子です」
呆れたと冷ややかな眼差しを父の顎あたりに浴びせていると、仕切り直しのような咳払いと共に肘で突かれて慌てて頭を下げた。
「父の手伝いで参りました」
「ええ、本日はよろしくお願いしますね」
そう言って椅子から腰を上げた令嬢は、一寸ほど自分よりも目線が上にあった。
※途中です。また加筆します。
【届かぬ想い】
拝啓から始まる手紙を選り分けていく。
日焼けした紙に羅列するゴツゴツとした堅苦しい字体は、本人の性格を表しているのか、ひたすら無骨に見える。よく見ると何度も書き直しているらしく、紙にはインクで書かれた文字とは別に透明な文字が踊っている。用紙の束の上で書かれたことが容易に想像できる。
机の上で書いたのだろうか。それとも板みたいなものだろうか。大きな体を縮こませて無言で目を逸らす若かりし頃の手紙の主を想像して、似合うような似合わないような複雑な思いを抱えながら、また一通と手を伸ばす。
「あ! やべっ」
床に無造作に置いたマグカップに足先がぶつかり、一瞬ひやりと肝を冷やした。しかし、実際には中身はとっくの前に空になっていたようで底は完全に乾燥している。
いつの間にか作業に没頭していたらしい。手紙の整理を始めてから小一時間は軽く経っている。
凝り固まった体の関節を鳴らしながら、小休憩だと台所へ向かう。
「あれ、そっちは終わったの」
「ぜーんぜん! でも疲れちゃってね」
進捗を伺うと先客である母は、なまじりを下げて笑った。母が両手で包み込んでいるマグカップからはすでに湯気は失われており、少しというには些か長めの時間が経過しているのは明らかだった。
「そっちは?」
「んー、もう少しかかりそう」
自分でも憔悴している声が漏れたことに気づいた。
いくら許可を得ているとはいえ、祖父の遺品整理は骨が折れる。祖母が片付けられないからという理由で任された二人の手紙のやり取りは、安請け合いしたのを後悔するくらいにはお互いへの思いが詰まっていた。
裕福な家庭の生まれではなかった二人は互いに家族のために出稼ぎに出ている時代。その頃の主な連絡のツールは手紙で、それを通じて思いを育ててきた様子が手に取るように文章から読み取れてしまうのだから困る。これではまるで盗み見だ。
「ばあちゃんはなんで、あんな大事なものを処分するんだろう」
「……きっと処分じゃないのよ」
縁側に座って外を眺めている祖母の小さく丸まった背中を見つめながら、母はそうつぶやいた。
仕分け終わったかい、と自室に顔を出した祖母の背中を追う形で慌ただしく手紙を持って縁側に向かったのが十数分前の出来事だ。
祖母に言われるがまま、沓脱石に立てられた一本のわずかな蝋燭の火に手紙を焚べていく。じりじりと紙が焼ける臭いする。緩やかな一本の線を描いて登っていく煙をじっと見つめている祖母の横顔はひどく穏やかだ。
会話もなく作業のようにただひたすら焚べて、ようやく最後の一通が灰となり一瞬で風に溶けていった。煙で乾いた目をこすっていると、真新しい封筒が一通祖母の手によって焚べられたのが見えた。
「それ新しいやつじゃん」
「あの人、ああ見えて心配性でしょう。だから近況を送ってあげないと」
目を細めて笑う祖母を見てようやく、手紙を燃やすと言う行為が寂しがり屋の祖父のために行われていたことに気づいた。
立ち上る煙が文字となり、祖父のもとへ届くように。
【遠くの空へ】
机の上に無造作に放り出された黒い塊。研磨される前のゴツゴツしたその石を指で突きながら「君みたいだね」と呟くと、ふわりと長い黒髪が左右に揺れる。いいえ。それが彼女の答えらしい。そうかなあと食い下がろうと口を開きかけたが、彼女のくちびるが困ったように結ばれていると気づいてしまったら、もうこれ以上何も言えやしない。
幾重にも黒いレースが重ねられたヘッドドレスがこちらを窺うように揺れ、かさりと音を立てる。その帽子はオーダーメイド仕様なのか、それだけのボリュームを持つものを被っている人も、店内で並べられているのも見たことがない−−彼女のトレードマークだ。
「なんだい、レディノワール」
彼女の本名は誰も知らない。そのため街の人からは、トレードマークの色に由来する形で、レディノワールと呼ばれている。
主に天然石を扱って生計を立てている彼女の見立ては、いつ見ても見事なものだ。そう遠くないうちにこの黒曜石もだれかの手に渡るであろう。指でつまんで弄んでいると、レディノワールのやわらかな手に包まれた。
「触ってはいけなかったかな。すまない」
彼女は本名と同様にその声をだれにも聞かせたことがないが、その手がわずかに震えていたら何かしたことくらいわかる。彼女が発さないから何を訴えようとしているのかはわからない。ただいつもより肩が下がり、不安を滲ませていることは長年の付き合いから察することができる。
「君のものを勝手に触って本当にすまなかった。泣いてはいないかい」
ヘッドドレスのレースの境界線である頬に手を添えると、その上から彼女の手が重ねられる。
「レディノワール?」
まるで制止するかのような力の入り具合に驚いていると、親指がわずかにレースに引っ掛かった。あ、と言葉を漏らすより早くに手が弾かれ、その拍子にふわりと彼女のヘッドドレスが手前に大きく靡いた。
これまで隠されていた彼女の素顔があらわになる。夜空のような輝きを放つ右目。
「ああ……そうか。それで君は……」
もう一方の目はぽっかりと空になっている。見立てが間違っていなければ、この黒曜石はそこにすっぽりと収まるだろう。
絶望に染まる表情を心苦しく思いながら「君の左側に触れることを許してくれるだろうか」許可を乞う。
戸惑いの色を隠さないままの彼女が怖がらないよう努めて微笑み、その窪みにほのかに熱を分けた黒曜石を埋め込んだ。
「ほら僕の言った通りだったろう? 君みたいな石だった」
これ以上彼女の頬を滑っていく涙が見えないように肩口に引き寄せた。
【君の目を見つめると}