「初恋、ねえ」
きらきらと好奇心で輝く瞳に見つめられ、思わずたじろぐ。喉の奥のひりつく痒さに耐えかねて、薄い皮膚を引っ掻いた。少なくとも自分にとっての初恋は、それほどいいものではなかった。
調律師だった父の仕事について回るのが日常だった子どもの頃。教会や学校が主な取引先である中で、数軒の個人所有の屋敷にも出入りをしていた。
その屋敷の持ち主はいわゆる地主と呼ばれる人たちで、教養の一つとして娘に洋琴を習わせているようなところばかり。澄ました顔で整調済みの洋琴を弾く令嬢たちのほとんどは、整調前後の違いなどまるでわかっていないのに「先生のおかげで素敵な音になりました」と父を持て囃す姿は子どもながらに滑稽に見えた。笑わないように焼き菓子を口に詰め込んでむせ返るのは、もはやその頃の一連の流れでもあった。
そのわずかな音の違いがわかる耳を持って生まれたことはこの世の幸運であり、それもこれも自分の血を引いているからだと父は言った。父の自慢らしいこの耳の持ち主は「この世の音すべてがうるさくてかなわない」と煩わしく思っているが、そのことを当の本人は知らないのだから幸いなのはそちらではないかと父に向かって心の中でよく吐き捨てたものである。
雲ひとつないどこまでも青い夏空の日。ジリジリと肌を照りつける陽射しに足を重くさせながら、洋琴の演奏会の時に着るような他所行きの格好でたどり着いた屋敷は実に見事なものだった。よほど裕福なのか舶来もので溢れている。手入れの行き届いた庭の一角に、オランダから渡ってきたばかりのチューリップが時期はずれに数本咲いていたが、さすがに間も無く枯れるだろう。
紳士然とした振る舞いでありながら、構わずずんずんと奥へ歩みを進める父の背中を追う。その際にすれ違った使用人たちは見慣れた様子で、依頼人のいる方を指差した。
「お嬢さん」
「あら先生、もう約束のお時間でした?」
日陰で椅子に座り本を読んでいた女が顔を上げると、絹のような黒髪が肩口から滑り落ちていく。
「今日はお連れ様がいらっしゃるのね」
父を挟んで向かい合うと、こちらの存在に気づいた女の垂れた目がやや見開かれて丸くなる。父は仕事に支障がなければわざわざ連絡をしないような筆無精なきらいがあったため、こうしたことも決して珍しいことではなかった。
「息子です」
呆れたと冷ややかな眼差しを父の顎あたりに浴びせていると、仕切り直しのような咳払いと共に肘で突かれて慌てて頭を下げた。
「父の手伝いで参りました」
「ええ、本日はよろしくお願いしますね」
そう言って椅子から腰を上げた令嬢は、一寸ほど自分よりも目線が上にあった。
※途中です。また加筆します。
【届かぬ想い】
4/15/2023, 6:48:16 PM