……ああ、そうだ。
ようやくわかった、やっと気づいた。
私の住処に、風呂場、というものがある限り。
風呂場を黒やピンクに汚染しヌメヌメにする、あのカビどもとの抗争は、絶対に終わらない──『これからも、ずっと』。
……いままで。
ありとあらゆる、どんな手段を選んだとしても、この戦いを止められやしなかった。
けれど──もしこの物件に、風呂場という名の戦場さえ、存在しなければ。
この不毛な抗争の日々に、或いは、終止符を打つことが出来るのではないか──?
◇
……てなことを、考えるくらい。
これからの季節、また寒い冬が来るまで、この憂いが尽きないかと思うと、ちょっとため息が出ちゃうのです。
いまは難しいけど、例えば老後は……風呂ナシで、銭湯または共同浴場近くの物件に住めたらいいなー、なーんて!
やれやれ。『沈む夕日』に目を射られた主人(人間・♀)が、光の残像に目が眩んでいる、その隙をも“君“(人間・♂)は逃さないのだから、まったく恐れ入る。
だが、まぁ……西向きのバルコニーで二人並んで、ぼんやりと外を眺めていただけの時間が急に、“君“のせいで、流れていた液体に粘性が加わったかの如くにとろりとした、濃密なものになってゆくのを──主人は結局のところ、受け入れてしまうのだ。
「っ、違う! ……あのときは、だってここ11階だし、拒否って突き飛ばしたら危なかったから、そういうことで……あああ、もうっ!」
“君“の奴──主人があの男を“君“と呼ぶのでワガハイもそう呼称している──が撤収した後の、孤独に読書を楽しむはずの時間だというのに、主人の手元の本は、もうかれこれ30分程、同じページのまま。
その大きな独り言──傍らで、主人の飼い猫たるワガハイが聞いているのだから、正確には独り言ではないかも知れぬ──は、さっきからすっかり堂々巡りである。
主人よ、それは後悔なのか、それとも……?
などと、合いの手を入れてやりたいところだが、生憎ワガハイは、人語を操れぬが故……。
(補足:じゃあ何故このように、主人に起こった事象や心情を解することが出来るのか、と問われても、主人に“ワガハイ“と名付けられた時分に自覚した能力である、それ以外はワガハイにも不明であるので、これ以上の説明は出来ない、悪しからず。)
……それで、まぁ。
黙って聞くことくらいは、ワガハイにも出来る、それで良いのだ。
「そもそも、部屋になんか上げるから! にしても、なんか……私って、チョロすぎじゃない?」
ついに本を手放し、主人はワガハイの毛皮に指を埋める。が、いつもはワガハイを悦ばせるのに長けている主人の指は、残念なことにうわの空。
何故なら主人は、その指で何度も、自身の唇を確かめずにはいられない。
しかもそれは、無意識のうちで──。
「……そう、あれは事故。事故じゃなくても、いい大人なんだし? キスくらい、べつに……うん、そうだ。なんならワガハイのキスのほうが、断然嬉しいし……」
主人よ。ワガハイのと比べる、その時点で……それはどうなのだ?
……とは、伝える術もなく。
だが主人の意向に沿ってワガハイは、主人が差し出してきた指をペロリ、と、ひと舐めしてやるのだ。
そして──この後日。
主人は“君“の奴にまんまとつけ込まれ、朝食の時分まで、この部屋に居座られる事態になるのであるが……。
それはまた、別の話である。
「この際だから、はっきり言うわ。君と私が付き合うとか、絶対に無理だから」
と、ワガハイの主人が、君に言った。
君はなに食わぬ顔をして「ふ~ん?」と、口の端を上げたままの表情で返事をするが、君の内心は穏やかでないことを、ワガハイはよく知っている。
君は、とても主人に弱い。
軽薄そうな人となりを装っては見せ、しかしそれは君の仮面であり、盾や鎧でもあるのだ。
主人が『君の目を見つめると』、君は不自然でない程度に、そっと視線を外す。
確かに、主人の飼い猫であるワガハイ──もっとも主人はワガハイを「生涯唯一無二のパートナー」と称する──も、主人に見つめられると、どうしても7秒ほどでフイ、と横を向かざるを得なくなるのであるが、君に至ってはなんと、3秒も持たない。
……ほら、いま現在も。
主人の、君をまっすぐに見つめては、スッを目を細めてみせる、あの独特な圧力に耐えかねて、急にワガハイを撫でたくなってしまったなあ、というフリで、ワガハイがくつろぐソファへと逃げてきたではないか。
「無理、って言われちゃったよぉ~。どうしよう、ワガハイ?」
「どうしようも、なにも……大体ね、私は誰かと付き合ったり、一緒に暮らしたりは出来ないって、君にはちゃんと、説明したよね?
もう、人に振り回されたくない、惚れた腫れたはうんざりなんだって、なのに……ハァ」
二人掛けの片方が不在になったテーブルで、まだ片付けられていない朝食の皿を前に、主人が大きなため息をつく。
君の、ワガハイを撫でる手が止まり、君はまたヒラリと主人の元へ、今度は椅子に掛ける主人の傍らに膝立ち、主人の腰に軽く手を回して主人を見上げて見せた。
「……なにしてんの」
「なにって、スキンシップ。ねぇ、こんなにくっついても大丈夫な相手なのにさぁ、なんで無理って思うの。これまでの矜持? みたいなの、そんなのはさぁ、返上してもいいんじゃないかなぁ」
「そう、簡単に言うけどね。でも、じゃあ……ちゃんと、説明する。
あのねぇ……私、知ってんのよ? 本当はこの週末だって君は、趣味のキャンプに行くはずだったんでしょう?
そうやって無理に私に付き合わなくていいのに合わせてくる、そういうのが無理、って言うか、私は知っての通り、絶対的にインドア、君はバリバリのアウトドアなんだから、ほら、ね?
そもそも水と油みたいな、だから、私と君が付き合うなんて無理ってこと、そういうことだから。……わかった?」
そうやって一気にまくしたてた主人は、自身の主張の論点が既にズレていることには、気づいていない様子。
一方の君は、それに気づいているのか、ニコニコと主人の言うのを聞いていたのだが、主人がふう、と息を切らしたところで、主人のおろしている長い髪を、わざと大げさに、手に取ってみせた。
「や、この週末は確かに、予定をキャンセルしたりもしたけど。でもこれは無理したわけじゃない、なんかさぁ、ここが勝負所かな、って思ったからだし」
「……勝負所?」
「ここでしっかり口説いて、しっかり落とす。もういろいろと、うやむやにしないで頑張ってやる、ってね?」
「っ、落とすって、っ、んむっ……んん」
君が、主人の髪に手を絡めたまま、両手で主人の頭を引き寄せ、そして……。
おやまあ、とワガハイは、慣れた感想を抱きつつも顔を背け、しかし耳だけは、二人のいるテーブルに向ける。
そして……二人の、そこそこ長かった接吻の音が絶え。
そこからまたしばらくしてから主人の、戸惑ったような、小さな声が聞こえてきた。
「だからね、私は……例えば君と『星空の下で』コーヒーなんかを楽しめるような、そんな女じゃないのよ?」
「フフッ、あーね、アウトドアって言うと、そういうイメージ? でもオレは、オレの女にそういうの、求めてませーん」
「っ、趣味だけじゃなくて、好きなものも、いろんなことが違うし、そういうことで無理したくないし、させたくないの!」
「それは、オレもそう。お互い無理はしないしさせない、趣味やらなにやらが違うのはそりゃ、人間だもの?笑 そういうモンだし……えーとオレらは水と油、だっけ? そんなん、いつもは分離しててもこうやって、必要なときに乳化させてやればいいだけー、まぁだからさ、オレと付き合おうよ。ね?」
このチャプチャプという音はおそらく、テーブルに出しっぱなしだったドレッシングのボトルを、君が、これみよがしに振っている音だ。
フン……この成り行きで、どうやら主人の「唯一無二」ではなくなりそうなワガハイは、それでも君を歓迎するだろう。
あの主人に、束の間とはいえ勝利した君へ、わざわざ君の指先をちょい、と舐めてやる、その程度の褒賞は与えてやってもよいと、そう思える……このうたた寝の後にそんな気分になったら、の話ではあるが、な?
昨日の続き。
2000字いっちゃってますが…
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結局、あの人は。
幼い私の手を──あの人の手を握りしめていた、私の指を解(ほど)いて、振り払ったのだ。
「そう、だ。僕は『それでいい』、それでいいんだ……幼いこの子はいずれ忘れる、何もかもを。だから、そう、それでいい……」
いつだって穏やかな表情の、笑うときも口の端を僅かにあげるだけだったあの人が、苦痛に耐えるように顔を歪め、「それでいいんだ」と何度も、繰り返し繰り返し呟く──その様を私は、絶対に忘れないよう何度も、何度でも思い返した。
そうすることで感じる、この胸の痛みは……きっとあのときの、あの人を苦しめただろう痛みと同じものだと、そう思えたのだ。
たとえあの人が、そのすべてを、忘れ去っているのだとしても。
◇
「お前の持つ絆のうち1つだけ、なかでも一番に大切なものを我に捧げれば、ここから出してやろう」
……これは、あのとき。
人の世でもあの世でもない“狭間“で、カラスの姿をとって顕現した悪魔が、わたしたちに言ったこと。
「……幼いこの子の代わりに、僕が宣言する。この子は、この子が持つ絆のうちの、一番大切なものを1つ、お前に捧げる。だから、この子を……この狭間から、追い出すがいい」
そしてこれは、あの人が、私の手をギュッと握りしめながら、悪魔に向かって言ったこと。
そうして私は、そこにポッカリと現れた闇に、あの人の手によって落とされ──人の世に戻ってきた。
そう、あの人は──私を助けることを、選んでくれた。
私を狭間に置き去りにして、自分が助かる道があったにも関わらず。
……本当は。
私は、あの人とずっと、あの狭間に捕らわれていたかった。
あのときの私は、あの人にそれを上手く伝えられなくて、確かに私は、それ程に幼かったけれど。
でも、私があの狭間に捕らわれていた時間は決して短くはなく──あの人との絆が生まれてしまうくらいの、時の長さは、私の精神的な成長をも育んでいて、だから……!
「私はあの人の意に反し、すべてを覚えている。そして悪魔よ、それ故に私は、お前の目論見通り苦しみ、苦しみ抜いて……だからこそいま、ここにいる」
石畳の通り、石造りの家々が並ぶ古い街並みが、果てなく続く、不思議な空間。
この空間が端から、ガラガラと音を立てて崩れてゆくのにも関わらず、あのカラスは僅かに首を傾げて、私を見ている。
私は、それに構わずに続けた。
「あの人との絆を私から奪ったとして、記憶を残せば、絶望だけが人を、私を支配すると、そう思っていたのだろう? それは、お前の誤算……いやそれすらも、お前の目論見のうちだったか?」
「フッ……さて、な。何食わぬ顔して出て行った雌猫がこうして、ふらりと戻って来て餌を貪る様も、そう悪くはなかった。その対価に狭間と、我のこの現し身の一つは、お前の意のままに、呆気なく滅ぼされるとしようか?」
私の長年の研究の成果である、対魔の魔法陣が功を奏し。
結果、カラスを現し身にしていた悪魔は退き、狭間は崩壊した。
……あの人はきっと、無事でいるはず。
絶対に──私の仲間たちが、助けているはずだから。
◇
「ここ、は……」
「私たちの孤児院。そして、これからしばらく、あなたの帰る家になるところ」
幼い頃に別れたときの姿のままの彼に、私は言った。
「……しばらく、ですか」
「もちろん、あなたが望むなら、ずっといてもいい。けれど、こんな辺鄙な場所に……年寄りと子供ばかりのここに、あなたは、留まりたいと思うかしらねぇ? ……でもね、フフッ。どちらにしても、ここはもう、あなたの帰る家──いつだってこの家は、あなたがどこで生きようとも、あなたと共に在るのだから」
私は彼の手を取り、そっと握ってみせる。
青年である彼の、張りのあるしなやかな肌。
いつかの私の手は、この手よりずっと小さかった。いまは、こんな──シミとシワだらけの老婆の手に、すっかりなってしまったけれど。
……ところで。
あの狭間で彼に手を引かれ、孤独を免れたのは、私だけではなかったのだ。
彼を救うための旅の過程で私は、私と同じ苦悩と目的を持つ、多くの仲間に出会った。
彼が顔を歪めながら手を振り解いた回数と、ほぼ同じだけの──。
「……この家は、あなたと私たちの絆。いつかまた、あの悪魔に差し出す日が来たとしても、あなたは狼狽えなくていい。またこうやってね、こんなふうにもう一度、手を繋げはいいだけ、それだけよ」
……彼の表情は変わらず、無表情のまま。
けれどここでの、狭間とは違う淀みのない時間は、きっといつか彼の傷を癒し、彼を本当の笑顔にしてくれるはず。
それが、私の命の火が尽きる前か、どうかは……恐らくは、間に合わないだろう。
……でも、それでいい。
どうかあなたは、あなたの歩む早さで、癒されればいい。
いつかのあなたが、幼い私の歩幅を気遣ってくれたように。
私たちはずっと、あなたの隣を歩む者であり続けるのだから……。
「お前の持つ絆のうち『1つだけ』、なかでも一番に『大切なもの』を我に捧げれば、ここから出してやろう」
と、カラスが言った。
石畳の通りの古い街並みがどこまでも続く、不思議な空間。
この目の前の、人語を話すカラスの話すところによると、ここは人の世でもあの世でもない、カラスが創り出した”狭間”なのだそうだ。
「ただの趣味さ。お前たちも、籠に鳥を囲ったり、鉢に魚を留めたりして、楽しんでいるだろう?」
じゃあ、一番に大切な絆を、カラスに差し出すと、どうなるのか?
「絆が絶たれれば縁も絶える、ただそれだけのことだ。ここから戻れば、お前の記憶には残るが、かつて絆を培った相手やそれらを取り巻く世界は、その記憶を失くすだろう。……1つだけ、を置いてきたはずが、すべてを失った者も少なくはないがな。フフッ」
この理不尽を聞かせられ、激昂した幾人かがカラスに手を伸ばしたが、どうやってもカラスを滅することは出来なかった。
カラスの言うことを聞くほかに、人々に選択肢はなく──やがて人々は、絆を捧げて人の世に還ったり、絆を失うまいと、この狭間に留まったりした。
まぁ、狭間に留まった者の多くもそのうち、この場所の異常さ、不変さに耐え切れずにやがて、カラスに絆を差し出すことになるのだが──。
そんな人々の様子を、僕はずっと見ていた。
そもそも僕は、カラスに差し出せるような絆を、1つとして持っていなかった。
だから僕は、この狭間から出られずにいて、そして──この狭間を行き交う人々が、一様に苦悶するのが何故なのかが、どうにもよくわからなかったのだ。
「ずっとひとりで見てたの? ずっと、って、どれくらい?」
小さな背たけの、小さな手をした女の子が、僕を見上げて尋ねる。
カラスとこの狭間のことを説明してあげたけれど、どこまで理解出来ただろうか。
「……わからない。ここはどうやら、時間の流れが淀んでいるようで」
「よど、んで?」
「ええとね、つまり。たぶん……思い出せないくらい長い間、ってこと」
「そっかー。じゃあずっと、さみしかったねぇ」
いろいろ話をしてみてわかったのは、この子もまた僕と同じように、カラスに差し出せる絆を持たない者だ、ということで。
そうしてその成り行きのまま、僕はしばらく、その子の手を引いて、狭間での時を過ごすことになった。
それから──どれくらいの時が、過ぎた頃なのか。
狭間を彷徨っていた僕とこの子の前に、カラスが再び現れ、そして言った。
「お前の持つ絆のうち『1つだけ』、なかでも一番に『大切なもの』を我に捧げれば、ここから出してやろう」
「……絆を持たない僕らに、いったい……なにを言ってる?」
「フッ、お前。まさか、気づいていないのか?」
……ああ。
そういうこと、か。
カラスは、僕の反応を楽しむために、この子を……それとも、カラスにも予想外の、偶然の産物なのか?
……いや、そんなことよりも。
「幼いこの子の代わりに、僕がこの子の意思表示をすることは可能だろうか?」
「そうだなぁ。仕方がない、特別に認めてやるとしよう」
芝居がかった調子で、カラスが言った。
よし。これでこの子は狭間から出られる。
だが……しかし。
人の世で1つも絆を持てなかったこの子が、戻れたとして。
人の世はこの子にとって、この狭間よりも良いものであると、言えるのか?
そして、この杞憂は……この子との幼く儚い絆を惜しんだ僕が捻り出した、都合のいい考えではないのか?
……そうだ。
これは、紛れもなく杞憂なのだ。
この子が人の世に渡れば、僕はそのうち、この子のことを忘れてしまう。
だから、なんてことのない……。
「おにいちゃん、やだ。手を、離さないで」
小さな手が、僕の手をギュッと握りしめている。
僕はこれから、この僕よりも体温の高い手の小さな指を、1つずつ外す。
……本当に?
僕の手で、それを?
この子はそれを──僕にそうされたことを、忘れることはないというのに。
僕は、どうしたら……。