komaikaya

Open App

昨日の続き。
2000字いっちゃってますが…
ー➖ ー➖ ー➖ ー➖ ー➖ ー➖


 結局、あの人は。
 幼い私の手を──あの人の手を握りしめていた、私の指を解(ほど)いて、振り払ったのだ。

「そう、だ。僕は『それでいい』、それでいいんだ……幼いこの子はいずれ忘れる、何もかもを。だから、そう、それでいい……」

 いつだって穏やかな表情の、笑うときも口の端を僅かにあげるだけだったあの人が、苦痛に耐えるように顔を歪め、「それでいいんだ」と何度も、繰り返し繰り返し呟く──その様を私は、絶対に忘れないよう何度も、何度でも思い返した。

 そうすることで感じる、この胸の痛みは……きっとあのときの、あの人を苦しめただろう痛みと同じものだと、そう思えたのだ。

 たとえあの人が、そのすべてを、忘れ去っているのだとしても。



「お前の持つ絆のうち1つだけ、なかでも一番に大切なものを我に捧げれば、ここから出してやろう」

 ……これは、あのとき。
 人の世でもあの世でもない“狭間“で、カラスの姿をとって顕現した悪魔が、わたしたちに言ったこと。

「……幼いこの子の代わりに、僕が宣言する。この子は、この子が持つ絆のうちの、一番大切なものを1つ、お前に捧げる。だから、この子を……この狭間から、追い出すがいい」

 そしてこれは、あの人が、私の手をギュッと握りしめながら、悪魔に向かって言ったこと。

 そうして私は、そこにポッカリと現れた闇に、あの人の手によって落とされ──人の世に戻ってきた。

 そう、あの人は──私を助けることを、選んでくれた。
 私を狭間に置き去りにして、自分が助かる道があったにも関わらず。

 ……本当は。
 私は、あの人とずっと、あの狭間に捕らわれていたかった。

 あのときの私は、あの人にそれを上手く伝えられなくて、確かに私は、それ程に幼かったけれど。

 でも、私があの狭間に捕らわれていた時間は決して短くはなく──あの人との絆が生まれてしまうくらいの、時の長さは、私の精神的な成長をも育んでいて、だから……!

「私はあの人の意に反し、すべてを覚えている。そして悪魔よ、それ故に私は、お前の目論見通り苦しみ、苦しみ抜いて……だからこそいま、ここにいる」

 石畳の通り、石造りの家々が並ぶ古い街並みが、果てなく続く、不思議な空間。
 この空間が端から、ガラガラと音を立てて崩れてゆくのにも関わらず、あのカラスは僅かに首を傾げて、私を見ている。
 私は、それに構わずに続けた。

「あの人との絆を私から奪ったとして、記憶を残せば、絶望だけが人を、私を支配すると、そう思っていたのだろう? それは、お前の誤算……いやそれすらも、お前の目論見のうちだったか?」
「フッ……さて、な。何食わぬ顔して出て行った雌猫がこうして、ふらりと戻って来て餌を貪る様も、そう悪くはなかった。その対価に狭間と、我のこの現し身の一つは、お前の意のままに、呆気なく滅ぼされるとしようか?」

 私の長年の研究の成果である、対魔の魔法陣が功を奏し。
 結果、カラスを現し身にしていた悪魔は退き、狭間は崩壊した。

 ……あの人はきっと、無事でいるはず。

 絶対に──私の仲間たちが、助けているはずだから。



「ここ、は……」
「私たちの孤児院。そして、これからしばらく、あなたの帰る家になるところ」

 幼い頃に別れたときの姿のままの彼に、私は言った。

「……しばらく、ですか」
「もちろん、あなたが望むなら、ずっといてもいい。けれど、こんな辺鄙な場所に……年寄りと子供ばかりのここに、あなたは、留まりたいと思うかしらねぇ? ……でもね、フフッ。どちらにしても、ここはもう、あなたの帰る家──いつだってこの家は、あなたがどこで生きようとも、あなたと共に在るのだから」

 私は彼の手を取り、そっと握ってみせる。
 青年である彼の、張りのあるしなやかな肌。
 いつかの私の手は、この手よりずっと小さかった。いまは、こんな──シミとシワだらけの老婆の手に、すっかりなってしまったけれど。

 ……ところで。
 あの狭間で彼に手を引かれ、孤独を免れたのは、私だけではなかったのだ。

 彼を救うための旅の過程で私は、私と同じ苦悩と目的を持つ、多くの仲間に出会った。
 彼が顔を歪めながら手を振り解いた回数と、ほぼ同じだけの──。

「……この家は、あなたと私たちの絆。いつかまた、あの悪魔に差し出す日が来たとしても、あなたは狼狽えなくていい。またこうやってね、こんなふうにもう一度、手を繋げはいいだけ、それだけよ」

 ……彼の表情は変わらず、無表情のまま。
 けれどここでの、狭間とは違う淀みのない時間は、きっといつか彼の傷を癒し、彼を本当の笑顔にしてくれるはず。
 それが、私の命の火が尽きる前か、どうかは……恐らくは、間に合わないだろう。

 ……でも、それでいい。
 どうかあなたは、あなたの歩む早さで、癒されればいい。

 いつかのあなたが、幼い私の歩幅を気遣ってくれたように。
 私たちはずっと、あなたの隣を歩む者であり続けるのだから……。

4/5/2026, 5:46:31 AM