「お前の持つ絆のうち『1つだけ』、なかでも一番に『大切なもの』を我に捧げれば、ここから出してやろう」
と、カラスが言った。
石畳の通りの古い街並みがどこまでも続く、不思議な空間。
この目の前の、人語を話すカラスの話すところによると、ここは人の世でもあの世でもない、カラスが創り出した”狭間”なのだそうだ。
「ただの趣味さ。お前たちも、籠に鳥を囲ったり、鉢に魚を留めたりして、楽しんでいるだろう?」
じゃあ、一番に大切な絆を、カラスに差し出すと、どうなるのか?
「絆が絶たれれば縁も絶える、ただそれだけのことだ。ここから戻れば、お前の記憶には残るが、かつて絆を培った相手やそれらを取り巻く世界は、その記憶を失くすだろう。……1つだけ、を置いてきたはずが、すべてを失った者も少なくはないがな。フフッ」
この理不尽を聞かせられ、激昂した幾人かがカラスに手を伸ばしたが、どうやってもカラスを滅することは出来なかった。
カラスの言うことを聞くほかに、人々に選択肢はなく──やがて人々は、絆を捧げて人の世に還ったり、絆を失うまいと、この狭間に留まったりした。
まぁ、狭間に留まった者の多くもそのうち、この場所の異常さ、不変さに耐え切れずにやがて、カラスに絆を差し出すことになるのだが──。
そんな人々の様子を、僕はずっと見ていた。
そもそも僕は、カラスに差し出せるような絆を、1つとして持っていなかった。
だから僕は、この狭間から出られずにいて、そして──この狭間を行き交う人々が、一様に苦悶するのが何故なのかが、どうにもよくわからなかったのだ。
「ずっとひとりで見てたの? ずっと、って、どれくらい?」
小さな背たけの、小さな手をした女の子が、僕を見上げて尋ねる。
カラスとこの狭間のことを説明してあげたけれど、どこまで理解出来ただろうか。
「……わからない。ここはどうやら、時間の流れが淀んでいるようで」
「よど、んで?」
「ええとね、つまり。たぶん……思い出せないくらい長い間、ってこと」
「そっかー。じゃあずっと、さみしかったねぇ」
いろいろ話をしてみてわかったのは、この子もまた僕と同じように、カラスに差し出せる絆を持たない者だ、ということで。
そうしてその成り行きのまま、僕はしばらく、その子の手を引いて、狭間での時を過ごすことになった。
それから──どれくらいの時が、過ぎた頃なのか。
狭間を彷徨っていた僕とこの子の前に、カラスが再び現れ、そして言った。
「お前の持つ絆のうち『1つだけ』、なかでも一番に『大切なもの』を我に捧げれば、ここから出してやろう」
「……絆を持たない僕らに、いったい……なにを言ってる?」
「フッ、お前。まさか、気づいていないのか?」
……ああ。
そういうこと、か。
カラスは、僕の反応を楽しむために、この子を……それとも、カラスにも予想外の、偶然の産物なのか?
……いや、そんなことよりも。
「幼いこの子の代わりに、僕がこの子の意思表示をすることは可能だろうか?」
「そうだなぁ。仕方がない、特別に認めてやるとしよう」
芝居がかった調子で、カラスが言った。
よし。これでこの子は狭間から出られる。
だが……しかし。
人の世で1つも絆を持てなかったこの子が、戻れたとして。
人の世はこの子にとって、この狭間よりも良いものであると、言えるのか?
そして、この杞憂は……この子との幼く儚い絆を惜しんだ僕が捻り出した、都合のいい考えではないのか?
……そうだ。
これは、紛れもなく杞憂なのだ。
この子が人の世に渡れば、僕はそのうち、この子のことを忘れてしまう。
だから、なんてことのない……。
「おにいちゃん、やだ。手を、離さないで」
小さな手が、僕の手をギュッと握りしめている。
僕はこれから、この僕よりも体温の高い手の小さな指を、1つずつ外す。
……本当に?
僕の手で、それを?
この子はそれを──僕にそうされたことを、忘れることはないというのに。
僕は、どうしたら……。
4/4/2026, 5:59:37 AM