蓼 つづみ

Open App
12/7/2025, 11:15:24 AM

あれに乗ることが出来れば「安泰な未来」へ連れて行ってくれるらしい。

バスは、もう行先表示の文字が霞んでいた。

バスのドアが閉まり、白く曇ったフロントガラスの向こうで、ぼんやりと暖色の灯りが揺れるのを見て、足が動く前に、心が走り出していた。

アスファルトを蹴る音が乾いて弾け、
肺が冷たい空気に削がれるように痛む。

「……僕も、乗せてくれないか!」

声はエンジン音にかき消され、どこにも届かなかった。

バスの後ろ姿は、坂の上の白すぎる空に曝されつつ遠ざかって、
バックフォグランプの赤が、脈打つ心臓のように小さくなっていく。

距離というものが残酷なまでに脚力へとのしかかり、すり減った靴裏が地面をかきむしる。

やがて体力は限界を迎え、肩で息をしながら、何もない道に立ち尽くした。

肺を擦るように荒く吐き出した息だけが、
胸にまだ熱が残っていることを、白く示している。


題 白い吐息

12/6/2025, 10:16:28 AM

感情の層を透かして見ると、
相手という存在が癒しに留まらず、自分の在り方にまで届いてしまう人ほど、忘れることができない。

それは単なる執着ではなく、記憶の中で相手を尊重し続けているということ。

だからこそ、周りからいくら「新しい恋をすれば忘れられる」と言われても、それは軽薄な処方箋にしかならないのだろう。

傷まなくなろうとしなくていい。
その痛みはやがて、愛しい痛みへと変わるから。

そして痛みが優しさに変わり、喪失が愛せる場所へとたどり着く。

それは、「痛まなくなった」ということとは違う。

——大人なんて、大半がそんなものだよ。きっと。

題 消えない灯り

12/6/2025, 4:19:25 AM

冬の空気の冷たさが光を研ぎ澄まして、
十二月の夜の並木道は化ける。

普通の白熱灯が氷片を溶かす小さな暖炉のように燃え、

ただの窓明かりが物語の入口のように灯り、

イルミネーションは、
星座を地上に引きずり下ろしたように光る。

いつもと同じ街なのに、
本来の姿から逸脱して姿を変えるのは、
季節の魔術と呼べるだろう。

街の灯りは幸福の痕跡であると同時に、
誰かがひとりで立ち尽くす時間をも映し出す。

痛みや孤独、迷い、沈黙、
光はそれらを消し去ってはくれない。
ただ、物語がそこに静かに存在していることを淡々と照らし続けるだけだ。

夜が深いほど、帰宅して灯す一灯の温度が宝石のように光って見える。
闇と光は対立しているのではなく、
どちらかが欠けると、もう一方も形を失う。

だから、光を見つめるとき、同時にその裏側にある影も意識してしまう。

影しか見えなくても、その先には必ずどこかに淡い灯りはある。光は影に寄り添う刹那に呼吸をし、影は光へ還る前に身じろぎを見せる。二つが呼応し合い、溶け合い、歴史が積み重なって一瞬の輝きを形づくっている。

その輝きが集まって、硝子片を散らしたような、あの綺羅めく街並みは出来ているんだろう。

だからこそ、胸の奥を静かに締めつけるような感覚が生まれるのかもしれない。

私の知る“希望”とは、決して眩しく華々しいものではなく、
暗がりを手探りしたときにみつける、底光りするような力のことだ。

世界には孤独も沈黙もある。
―――それでも光はあるんだよ。

題 きらめく街並み

12/4/2025, 12:09:28 PM

インクが乾く前に指先がためらいをにじませ、
うまく言葉に出来ない気持ちを何度も書き直した。

宛名は君へ向けたはずなのに、
どこかで「届かなくてもいい」と思っていた。

だから小さく折りたたんだ文字が、
紙の重さよりも、ずっと沈んで見えた。

封筒は、まだ言えない気持ちに封をした。

圧縮された心音みたいな手紙は、
届かない場所へ行きたがるのに、
静かに引き出しの奥にある。

誰にも読まれないまま、
伝えたかったことだけが
薄い紙の内側で密かに呼吸を続けている。

題 秘密の手紙

12/3/2025, 12:07:28 PM

ひとひらの寒気が地を薄く撫でるような冬の入り口に、
君は雲よりも静かに背を伸ばし、
薄紫の冠を掲げて立っている。

風が来ても揺らがぬ芯、
凛と響く茎の青さ。
見下ろすのではなく、
ただ季節の行方を見守るように高みに咲き、
大気の澄明をそのまま纏い込んでいる。

手の届かぬ高さでありながら、
なぜか胸の奥に触れてくる花だ。
茎は空へ向かって伸びゆくのに、
その顔だけはこちらへ向けるように咲いている。

それは単なる首の角度ではなく、
高さという孤独の中で、
人の気配を探し当てた花の仕草のようだ。

大気の上層に近いところで、
冷たく澄んだ風を纏いながら、
それでもなお地上にいる僕らへ
「ここにいるよ」と囁くように花弁を傾けてくる。

見上げれば手は届かないのに、
視線だけは真っ直ぐ交わってしまう不思議さ。

散る時も崩れることはなく、
衣を落とすように地へ降りてくる。

透きとおる薄紫色は一枚ずつが驚くほど大きく、
触れればふわりと水へ変わってしまいそうなのに、
そこには儚さよりも、むしろ舞台を降りる役者の
最後の所作のような優雅さがある。

地に落ちた花弁たちは冬の光を反射し、
まるで一晩だけ残された羽衣のように横たわる。

散ったあとでさえ、あの花は高貴さを失わない。
むしろ落ちて初めて、その大きさと静かな存在感が
いっそう際立つほどだ。

キダチダリアは、ただそこに立っていた。
その立ち姿が、季節そのものと接続し、
歩かぬ冬の足音を今年も感じさせてくれた。

題 冬の足音

Next