季節は冬真っ只中。
寒い中、車椅子を押しながら坂を進んでいくのは、なかなか辛いものがある。
しかも夜の道で街灯も少なく視界も悪い。
頼まれてもなかなか引き受けづらいものだろう。
しかし、俺はこれを絶対放棄するわけにはいかなかった。
『はっ、ふ、ぅ……』
「……憂?苦しいなら戻っても……」
『なに、言ってんだっ……また、ここに……くるっ
……って、決めた、だろうがぁ、』
俺は足と腕に力を入れながら、気合いで車椅子を押していく。顔は見てないから分からないが、きっと真っ赤になっていただろう。
それくらい力を込めた感覚があった。
「でも……憂は帰宅部だし、昔だって私に腕相撲勝てたこと無いじゃn」
『おいこら!!ここで喧嘩売るんじゃねぇ!!』
車椅子に乗っている女、結衣はさりげなく煽る。
いつもこんな感じで、悪気があって言ってるわけじゃないのが余計に腹が立つ。
だが、こうして結衣が煽ってくれたおかげでさっきよりも力が入るようになった。
徐々に進む車椅子を見て、後ろを向いてた結衣は大人しく前に向き直した。
「憂って、昔から頑固だよね。」
『あ?うる、せぇ。お前だって、頑固だろ。』
「いーや、私よりも憂の方が何倍も頑固。決めたことは意地でも通すし。」
『一度決めたのに、やり通さないのは、嫌なんだよ。』
彼女はもう一度振り返ってこちらを見る。
「ほら、頑固。」
ニヤッともニコッとも取れる彼女の笑顔。
昔はよくイラついたものだが、最近は愛らしさを感じる。
照れ隠しも込めて、合っていた目をそらし、車椅子を押すのに専念した。
ついに坂が終わって平らな道を少し進むと、大きな公園に着く。
「わぁ……」
彼女が見渡す。
時刻は18時。
日はとっくに沈んで、外は真っ暗。
大きく開けたその公園は、街並み全体を見渡せる高台になっていて、家の明かりが綺麗に景色を彩っていた。
『見る約束だったろ。』
「うん……また来れるだなんて。」
一年前、彼女がまだ車椅子に乗っていなかった頃。
ここに来たことがある。
その時、約束した。
「また、ここに来ようね。」
彼女の言葉を俺は叶えるために、今日はここに来たのだ。
彼女の口から白く息が吐かれる。
真冬なのもあり、鼻も赤い。
「憂!!」
『ん?』
「ありがとう。」
彼女は満面の笑みで言った。
あぁ……また見れた。
調子の悪くなる前と同じ、“無邪気な彼女の笑顔” という名の奇跡を、もう一度見たかったんだ。
#奇跡をもう一度
夕暮れ。
お疲れ様でしたー!!と、大声が学校のグラウンドに響く。
ぞろぞろと校舎へ戻ろうとする部員たち。
それに逆らうかのように、俺は自分のグローブをもう一度はめ直す。
「あれ、戻らんの?」
声の方を向くと、同じ野球部の親友が声をかけてきていた。
『おう。大会も近いし。もうちょっとやっていくわ。』
「おぉ、さすが。エース様は違うねぇ。」
エースだなんて、とんでもない。
周りより少し野球の才能があっただけでそこまで他の部員たちと変わらない。でも、そうやって思ってくれることは正直悪い気はしなかった。
だから、それに見合うように周りよりも努力するのだ。
「まぁでも、顧問も言ってたけど体調管理しっかりな?居残り練習が原因で大会出られませんでしたってなったら、本末転倒だろ。」
『あぁ、わかってるよ。』
じゃあな。と肩に手をポンと叩いて、親友は校舎へ戻って行った。
『よっしゃ。やるか。』
気合を入れ、グローブにボールを投げ当てながら練習位置へと移動した。
ガシャンッ
フェンスに的をつけ、そこに目掛けてボールを投げる。
真ん中寄りに当たればいい方だが、今日はうまく当たらない。
『くっそ。調子悪いかなぁ。』
投げる方の手のひらとにらめっこしていると、横の方からカシャ……と音がした。
誰かがフェンスに体重をかけるか、掴んでる音。
目線だけそちらに向けると、人影が見える。
黒髪でボブカットの大人しめの女生徒がいた。
やはり、今日も来ていたか。
ここ数日、居残り練習していると視線を感じる。部活がある日はほぼ毎日。
いつも彼女がこっそり見学をしているのだ。
最初は野球部に興味があるのかと見ていたが、どうやら違うらしい。
普段の部活中には彼女の姿は見かけない。
俺が自主練をしている時にだけ、現れるのだ。
自意識過剰かもしれないが、俺目当てで見学に来ているようだった。
今までは特に気にせずスルーしていたが、そう気づいてしまうと少し緊張というか、気になってきてしまう。
首だけ女生徒の方を向いてみた。
すると気づかれたと思ったのか、明らかに動揺した様子でガシャガシャとフェンスの音を立てながら、わたわたしている。
こっそり見ようとしていただろうから、慌てたのだろう。
そんな姿が愛らしく思えた。
そう、正直彼女に会うために練習しているのもあったのだ。
少しピリッと、しかしどこか温かい時間が流れた。
声をかけようと息を吸ったその時、
「おーい!!まだ練習しとんのか!!」
顧問の先生が声をかけて走ってきた。
女生徒はビクッと驚いて走り去ってしまった。
ガックリしながらも、やってきた顧問の方に顔を向ける。
『うっす。でももう片付けます。』
「あんまり無理すんなよ」
それだけ言うと校舎に戻っていった。
振り返ると、もうそこには女生徒の姿もなかった。
どうやら帰ってしまったみたいだ。
少し残念なような、とはいえ話しかけたとしても何を話したらいいかとなるので、逆に良かったかもしれない。
グローブを外し、片付けの準備をする。
明日も部活はある、俺はまた居残り練習をしよう。
そしたら。
きっと明日も彼女に会えるだろう。
#きっと明日も
ガチャリ
ゆっくりとドアを開けると、昔懐かしい匂いがしてくる。
かつて、寝起きしていた部屋だ。
『ただいま。』
足を踏み入れると、色んな記憶が呼び起こされる。
ベッドを買って貰って喜んだ小学生時代。
友達を呼んで遊んだ中学生時代。
受験勉強に苦しんだ高校生時代。
独り立ちして家を出てしまってからは、この部屋には寄り付かなくなった。
もう10年近くもこの部屋は使われていない。
母が気を遣って掃除はしておいてくれたのか、ホコリだらけということは無いが、殺風景な部屋になっていた。
『物置にでも使ってくれても良かったのにね。』
ふふっと笑いながら、窓を開けて換気をする。
懐かしい景色。
人間関係や将来に行き詰まった時にはよく外を眺めてた。
何が見えるかと言ったら、家の前の道路と真正面のアパートくらいだが、当時の私には考え事するのにはちょうど良かった。
『この景色も見納めかぁ……』
明日、結婚を機に県外へ引っ越す。
引越しの前に両親に会いに来たついででこの部屋を訪れたのだ。
『もう、こんな大人になったんだよ。』
ふと部屋に語りかけてみる。
もちろん返事が聞こえることはないが、私は続けた。
『いっぱい、お世話になったね。ずっとずっと見守っててくれてありがとうね。』
スっと壁を撫でる。
この家を出る時にもお礼は言ったが、もう当分戻ってくることはないだろうから改めて言いたくなった。
シン……と部屋が静寂に包まれる。
どこか寂しげな空気を感じた。
「そろそろ時間よー!!」
『はぁい。』
下の階から母の声がする。
どうやらタイムリミットのようだ。
窓を丁寧に閉めて、出口に向かう。
ふと、もう一度振り返った。
そこにはかつて部屋で過ごしていた私が見えた気がした。
人形で遊んだり、宿題をしたり、友達と遊んだり、ベッドで声を殺して泣いていたり。
懐かしさを感じつつも、私は一言。
『じゃあね。』
パタンっとドアを閉めて、急いで階段をおりた。
#静寂に包まれた部屋
『冷たっ』
見上げると、どんよりとした雲があった。
よく見てみると、ポツポツと雨が降りはじめている。
家まで10分もしないくらい。
このくらいの雨であれば、傘がなくても少し濡れる程度で帰れるだろう。
そう思った矢先、
ザァー。
急に雨脚が強くなる。
さすがにこの雨の強さでは傘をささないときつい。
だが、荷物の中に傘など入っていなかった。
傘無しで家まで走らなければならないか......と覚悟を決めかけたその時、建物が見えた。
よく見るとログハウスで、何か店をやっているのか “open” の小さな板だけ扉にかかっている。
普段なら、得体の知れない建物に入りはしないが、今は緊急事態。目の前のログハウスが店であれば、傘を置いてあるかもしれない。
最悪傘だけ買うか、雨宿りだけでもさせて貰おうと、ログハウスに近寄る。
すると、ドアの上にかけてあるランタンに、ポワっと明かりが灯った。
よく、人を感知してつくライトが防犯のために取り付けてある家は見るが、それとはまた違い、ふわっとゆっくり明るくなった。
オレンジ色のどこか暖かいランタンの明かりに吸い込まれるように、気づけば扉のすぐ側まで来ていた。
ガチャ......
扉の開く音にハッとすると、すぐそばの扉がゆっくり開く。少し開いたところでひょこっと、小さな女の子が顔を出した。
小学校低学年くらいだろうか、自分の半分位の身長に茶色のロングヘア。緑色の綺麗な目をした少女だった。
拍子抜けしたせいか、彼女を見つめる形で固まってしまった。
「......お客さん......?」
少女がキョトンと首を傾げる。
客......客といえばそうかもしれないが、望んできた訳でもないのでなんとも言い淀んでいると、彼女が空を見上げてあぁ、と納得した。
「お兄さん、降られちゃったんだね。」
事情がわかったからなのか、ニコッと笑いながら扉を開ける。
「どうぞ。中に入って。」
不思議な少女に招かれるままに、その店に足を踏み入れたのだ。
中はとてもシンプルで、テーブル席、カウンター席とあり、他に誰もいなかったのでテーブル席に通された。
玄関のランタンと同じ、暖かい明かりで、優しく照らされている室内。
心地よくて、眠気を誘う空間だった。
『(まずい......眠ってしまう......)』
そう船を漕ぎ始めた時、
「どうぞ。」
カチャリ、と目の前にカップが置かれた。
その音と中に入ってるであろう、コーヒーの香りで目が覚める。
『えっ。あの、頼んでな』
「ここからのサービスなんです。お代は受けとりません。」
女の子はニコッと目を細める。
コーヒーサービスのお店は最近見ないが、全く無いわけじゃない。
それに彼女は自分がこの店に来た事情も察している。
ご厚意を無駄にするのも......と思い、頂くことにした。
『......いただきます。』
「めしあがれ。」
ズッとひと口啜ると、深いコーヒーの味。
普段喫茶店に行く訳でもないので、詳しい銘柄や味の善し悪しはよく分からないが、少なくとも普通に美味しく感じるコーヒーだった。
そして何より、優しく感じる味だった。
コーヒーを半分ほど飲み終わった頃、ふと近くの窓から空を眺める。
雨は先程よりは止んだが、まだ傘をささずに帰るには厳しい程度。
時計を見るとこのお店にはもう15分くらい居座っている。店主が優しいとはいえ長く居座るのも申し訳ない。程々で店を出たいところではあるが、ここまで来たらもう濡れずに帰りたい。
さて......どうしたものかな、と息をつく。
「雨......止みませんね。」
声に振り返ると、少女もとい店主様がいた。
困った顔で一緒に窓を見ている。
『そうですね......早く止んでくれると、ありがたいんですが......あはは。』
同じく困った顔で返すと、少女は間髪入れずに答える。
「止みますよ。」
『えっ。』
「止まない雨はないので、必ず晴れます。」
彼女はまっすぐ目を見て言い切る。
綺麗な緑色の瞳が、キラリと光ったように見えた。
十数分後、コーヒーを飲み終わると同じタイミングくらいで雨はあがっていた。
『晴れた......』
「ねっ。言ったでしょう。」
ふふっと笑いながら、彼女は飲み終えたカップを片付けてくれた。
『はい。......でも、今度は晴れている時にここに来たいものだなぁ。』
歩いて10分しないくらいの場所に、こんな喫茶店があるなんて気づかなかった。今度からは周りをよく見ながら歩いてみようと思っていると、彼女は答えた。
「あー、それは出来ないんです。雨の日にしかここには来れないので。」
『え?』
「でも良かったですね。すぐに止んで。通り雨だったんですかね。」
『え、あ、あぁ。そう、かな?』
「またのご来店、お待ちしてますね。」
彼女はお盆を抱えてにっこりと笑っていた。
気づけば出口に足が向いていた。
立った記憶もないのに、まるで魔法にでもかかって誰かに操られているかのような、そんな感覚だった。
急いで振り返り、店主である彼女を見る。
『あの!また、来ます!!』
店を出ていこうとする足に抗いながらも、必死に伝える。
しかし無情にも抗いきれず店を出てしまい、言い終わったかそれくらいで扉がパタリと閉まった。
彼女は驚いたような顔をしていたから、きっと届いたとは思う。
気づいた時には、最初の雨に降られた場所に戻っていた。
同じ道を辿っても、先程のログハウス......喫茶店はどこにも見当たらない。そもそも、この道が合っているのかさえ不安になってくるほど曖昧になってきた。
彼女の言っていた、“雨の日にしかここに来られない”と言うのは、本当なのかもしれない。
狐に化かされたような気持ちであったが、不思議と嫌な気はしなかった。
道もお店の内装も徐々に曖昧になっていくが、コーヒーの味だけは鮮明に覚えている。
今まで雨なんて嫌な思いしかしなかったが、たまにはこういった不思議な経験をするのかもと思うと、雨の日も悪くは無い。
またいつか、可愛らしい店主と心の温まるコーヒーが飲めたらいいなと願うことにした。
#通り雨
ある店の前でふと、足が止まる。
「あぁ……まただ。」
そこは昔付き合っていた元彼が好んでいた香水のお店。
別れたのはもう数年前だというのに、その香りを嗅ぐと未だに思い出して足を止めてしまうのだ。
付き合っていたのはたった数ヶ月。
新入社員として入った会社の直属の上司だった。
とても優しくて、でも時に厳しくて、憧れの人だった。
憧れから恋心に移るのはそう時間はかからず、気づけば私は彼に告白し、交際をスタートさせた。
最初の一ヶ月はとても楽しかった。
歳上でとても頼りになって、職場とプライベートでのギャップとか全てが愛おしかった。
デートも仕事も毎日がとても楽しくて、幸せな一ヶ月だった。
しかし、一ヶ月をすぎた頃、彼と時間が合わなくなった。
彼が大きなプロジェクトを任されてから、職場であまり話さなくなり、デートもキャンセルすることが増えた。
連絡もまめじゃないので、3日に1回「おはよう」と「おやすみ」 が送られてくる程度。
そんな連絡も来なくなってきたある日。
携帯がブルルと震えた。
久しぶりの彼からの連絡。
嬉しくて嬉しくて、急いで開いたトーク画面には、たった4文字のメッセージ。
『別れよう』
信じられなかった。
疑問とか悲しいとか色んな感情が巡っていって、嫌だと反抗しようとしたけれど、会社でギクシャクするのもな、と。
『わかった』
そんな簡単な言葉で終わらせるしか無かった。
別れて数日後に他部署の先輩と付き合ってるという噂を聞いた。あぁ、そういう事かってなんとなく腑に落ちた。
詰め寄る勇気も、反撃する力も残ってなくて。
ただ、その思い出を消すことに必死だった。
そんな日々から、もう数年も経っているはずなのに。
あの香水の匂いだけ忘れられない。
ある意味、彼に囚われ続けているのかもしれない。
私がこの匂いから開放されるのはいつなんだろう。
私は、その香水をとってレジへと向かった。
#香水