太陽の光が反射して、海がキラキラと輝く。
青い空。そして、静かな波の音。
〝平和〟そのものだ。
僕はずっと海の絵を描いている。
毎日毎日海に赴き、海の姿をスケッチに記録するのだ。
雨や雪、天気が荒れてる日は出来ないが、晴れや曇りの日にはなるべく描きに行くようにしている。
なぜ俺が、毎日海へ向かうのか。
それは、ある人との約束だった。
『君の絵の中に、私を入れてよ。』
黒いロングのストレートヘアーを風になびかせながら、彼女は僕に言った。
彼女の瞳は、海を写しているような綺麗な青色。
そんな瞳に心を奪われてしまったからか、僕は身勝手な彼女の願いを聞き入れた。
その日からずっと、僕は描く海の絵のどこかに彼女を潜ませている。
浜辺を歩かせたり、波打ち際で遊ばせたり。
様々な彼女を描いた。
ちなみに彼女とは、一度しか会ったことがない。
初対面の男に、こんな我儘を言ってきたのだ。
普通、無視か断るものだと思うが、僕は出来なかった。
それくらい、彼女の瞳は魅力的だった。
彼女を描き続けて、気づいたことがある。
彼女は絶対にこちらを見ない。
絵の中の彼女も、海かまたは別のどこかを眺めている。
僕を見ることは、きっとない。
だからこそ、僕が見ていないとどこかへ飛んでいってしまう気がした。そう思うと、筆が自然と動いて彼女を描くのだ。
そう描き続けて、どれくらいの月日が経ったのか。
僕の家には、彼女と海の絵が何百もある。
最初に比べて、筆のスピードも遅くなってきた。
もしかしたら、筆を持てなくなる時が来るのかもしれない。
そうすれば、この〝平和〟な時間も終わりだ。
もしこの時間に、この世界に終わりが来るのだとしたら。
僕は君と一緒にいたい。
君と海を眺めて、その姿をまた描きたい。
そう思いながら、徐々に重くなっていく手を動かしていく。
懸命に、海とキャンバスを見ながら描いていたからか、僕は後ろから来る人に気づかなかった。
『ねぇ。』
その声を聞いた瞬間、僕は涙がこぼれた。
#世界の終わりに君と
学生時代は勉学ばかりにかまけていたせいか、友達と青春と謳歌した記憶が無い。
文化祭や体育祭など、皆が喜びそうなイベント事の時は大人しく、背景と同化するかのように細々と過ごしてきた。正直、興味がなかったのだ。
「他人と何かを成し遂げる」ということ自体、下らないと思っていた。先生からしたら、ある意味生意気な生徒だったと思う。
それぐらい、人が嫌いだった。
そんな俺だが、一度だけ告白された事がある。
高校二年生の夏。
蝉が沢山鳴いていて、ものすごく暑い日だった。
天気も良くて、入道雲がよく見えた。
その日は夏休み期間だったけれど、夏期講習があって。
一学期の定期試験で赤点を取った者以外は、任意参加な訳だが、俺は迷いなく参加した。
こんな猛暑の中、わざわざ学校に来てまで勉強をする者は少なく、教室の三分の一も埋まっていなかった。
学校から家も近かったため、面倒にも感じなかった。
ただ、夏休み期間は空調設備の電源がつかない為、教室の扇風機で暑さを凌ぐしか無く、それだけは納得がいかなかった。
講習が終わり、帰りの準備をする。
勉強以外やる事も無いので、帰らずに図書館にでも寄ろうかと考えていたその時、
人影がこちらに向かってくるのが見えた。
『ねぇ。すこし、時間ある?』
焦げ茶のセミロング。
学校指定のセーラー服。リボンを少し緩めに結び、スカートは膝丈程度。
顔立ちは整っていて、化粧をしていなくても十分なくらいの美形。
そんな彼女が、俺に一体何の用なのか。
『手短にしていただけるなら。』
『あ、えっと……その……。』
気温で暑いせいか、彼女の頬がほんのり赤い。
視線は俺を見たり、あさっての方向を向いたり。
手のひらを合わせたり組んだりと、落ち着かない様子。
手短に、と言ったはずなのに彼女がなかなか話を始めないので、教室には俺と彼女の二人だけになっていた。
『……まとまっていないのなら、後日にして貰えないか?』
『え、あ、』
彼女の返事を待たず、鞄を持って出口へ向かう。
教室の扉に手をかけた瞬間、背中に何かがぶつかった。
とすっ。
振り返ると、彼女が俺の背中に手を置いている。
人にここまで近寄られる事の経験がない俺は、戸惑いを隠せなかった。
『何の真n』
『好きです。』
彼女は俯いたまま、言葉を放った。
背中に置いてるだけだったはずの彼女の手は、緊張からか俺の服を握っている。
『ずっと、好きだったんです。付き合って、貰えないでしょうか。』
彼女がゆっくりと言葉を紡ぐ。
きっと考えたのだろう。
いつ言おうか、どう言おうか、言ったらどんな反応をされるのか。
俺の事をどれだけ考えたのだろうか。
今まで感じたことの無い、小さな温かさを感じた。
しかし、俺は彼女を全く知らない。
同じクラスだったかどうかも分からない。
話したことがあったかどうかも、思い出せなかったのだ。
そんな知らない相手と付き合えるほど、軽い性格ではなかった。
『すみません。あなたのこと、知らないので。』
ぺこりと頭を下げて、彼女の顔を見ずに教室を後にした。
とぼとぼと、歩いていた。
先程話していた彼女の顔が、頭から離れない。
そもそも、彼女は俺のどこが良かったのだろうか。
勉強にしか興味が無い俺のどこが。
悶々とどうでもいい事ばかりを考えてしまう。
普段なら図書館まで徒歩でそう時間はかからないはずなのに、倍以上の時間をかけても着いていなかった。
それだけ目の前のことに集中出来ていない。
これだから、人は嫌いなのだ。
関わると、こうして時間を取られる。
相手にどう思われてるか、行動言動一つで一喜一憂する。だから関わらないようにしたのに。
彼女は一体どんな顔をしていたのだろうか。
どんな気持ちで、教室に残されたのだろう。
何を考えながら、校門を出るのだろう。
『……っ。あぁ、もう。』
俺は気づいたら踵を返し、再び学校に戻っていた。
まだ、彼女はいるだろうか。
泣かせてしまったかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
教室の前に着くと、声がする。
女子数人の声。
教室に入ろうとしていた手が止まる。
『あーあ……』
彼女の声だ。
もしかしたら、友達と話しているのかもしれない。
出直した方が良いだろうか、
そうやって後ろへ半歩下がった時だった。
『なんだよあいつ。せっかく私が告白したのにさ。』
確かに彼女の声だった。
数十分前、好きだと言ってくれた彼女と同じ声だった。
『ガリ勉のくせにさ、一丁前に断ってんじゃねぇよ。』
『はーい、賭けはウチらの勝ち。』
『駅前のクレープ奢りね〜』
どこにでもいるような女子の会話。
それなのに、なんだか酷く突き刺さる。
というか、扉一枚隔てた先で話しているのは彼女なのだろうか。彼女と同じ声をした別人であって欲しかった。
『てかさ、告白OK貰ってたらどうしてたの?』
『え?そりゃあ、適当に遊んでポイでしょ。』
『うーわ、ひっでぇ。』
ギャハハと笑い声がする。
うるさい。普段ならただうるさいだけだが、今はとても不快に聞こえてくる。
パタパタ。
『っ!』
足音がしたので、急いで隣の教室に入る。
彼女らの視界に入らないよう、急いで身を隠す。
行動が早かったのが功を奏したのか、そんな俺に気づくことなく彼女たちは笑いながら昇降口に繋がる階段へと歩いていった。
その時にはもう俺の話題はなかったかのように、楽しく談笑していた。
整理すると、彼女が告白してきたのは友人との賭けのため。
俺に対しては一切の気持ちなどなく、ただ遊びで、おふざけのつもりで、告白してきたのだ。
腑に落ちた気がした。
そもそも、全く接点のない彼女が俺を好きになる事などおかしな話なのだ。
ほぼ一人で、誰とも絡まない俺は格好の的だっただろう。
分かってたことだ。
人なんてそんなもんだって。
それなのに。
この胸の痛みはなんだろう。
目の奥がツンとするのはなんでだろう。
彼女の事なんてどうでもよかったくせに。
なんとも思ってなかったくせに。
何故、ここまで苦しいのか。
しばらくの間、その場から動けなかった。
___それ以来、俺は人を愛せていない。
#失恋
雨がしとしとと、降り続いている。
この喫茶店に入って数時間。雨は降り止まず、傘を持っていない私は、ただひたすら珈琲をスプーンでかき混ぜながら晴れるのを待つしか無かった。
さすがに、珈琲一杯頼んだだけで数時間も居座るというのは図々しいにも程があるので、途中サンドイッチやオムライス、ケーキなど頼んでみたが、フードファイターでもない20代女性の胃袋にも限界がくる。もう食べ物の入る隙間はどこにもないだろう。
そもそもこの梅雨の時期に、何故傘を持たずに出歩いてしまったのか。
実は、彼女の家はこの喫茶店から徒歩10分圏内にある。
元々喫茶店の隣にある文房具屋に用事があり、済ませて帰ろうとしたところ雨に降られたのだ。
出かける時間に雨は降っておらず、すぐに帰るなら平気だろうと、彼女の油断が招いた結果だった。
小雨にでもなってくれれば走って家に帰るのだが、傘もささずに帰れるほどまだ雨脚も弱まってなかった。
退屈、と。彼女が代わり映えのしない景色に飽きてきた頃、ふと人影がこちらに近づいてくるのを目の端で捉えた。
カチャ。
小さな音。
ガラスの食器がテーブルの上に置かれた音だった。
ウェイターの格好をした、30代前半くらいの男性。
髪は少し長いのか、後ろで括っている。
紙製のマスクをつけているので、顔は上半分しか見れない。
ぱっちりとはっきりした目に、困り眉をした優しそうな顔だった。
彼が置いたガラスの皿には、クッキーが数枚。
『あの、頼んでませんが?』
そもそも、メニュー表の中にクッキーなんてあっただろうかと記憶を遡ろうとする前に、目の前の男性が答えた。
『サービスです。何も無く雨宿りするのも退屈でしょう。随分待たれているようですし。』
見た目とは裏腹に、とても低い声が店内に響く。
しかし、もう私の胃の中にこの数枚のクッキーでさえ入る隙間は全くない。
ご厚意に甘えたいところだが断ろうかと考えていると、再び男性が口を開く。
『ゆっくりでいいので。沢山頼まれていましたし、まだお腹もいっぱいでしょう。残しても構いませんから。』
そこまで言われてしまっては、さすがに断るのも忍びない。「結構です。」という言葉が喉元まで来ていたが、なんとか抑え込み、静かに「頂戴します。」と呟いた。
男性は嬉しそうに目を細め、窓の外に視線を移す。
『昼前からずっと止まないですね。予報だとそろそろなんですが。』
『そうですね……こんなことなら、傘を持ってくれば良かったなぁ。』
苦笑いしながら、クッキーを一枚頬張った。
さくっ。
口の中に広がる、バターの香りと、チョコの甘み。
私は、___この味を知っている。
キョトンと、クッキーを見つめていると、
男性はニッコリとまた笑う。
『美味しいですか?』
『え、あ、はい。とても……』
正直、今の私にとって味の善し悪しは問題では無い。
確かにこの喫茶店に来たことはあるが、そもそもメニューにこのクッキーは存在しなかったはずだ。
とすると、サービスを以前に頂いたことになるが、さっぱり記憶にない。
『お気に召して頂けて何よりです。』
男性は一礼して、スタスタと厨房の方へ戻っていってしまった。
狐につままれたような感覚で、もう一度クッキーを一枚口へ運ぶ。
『……おいしい。』
一枚目と同じ、あたたかく優しい味がした。
_____________________
雨は嫌いだ。
雨が降る日は良くないことばかり起こる。
転んだり、交通機関が乱れたり、洗濯物が乾かなかったり。
会社が倒産した時も、雨がザーザー降っていた。
『また雨か…………』
その日も、しとしとと雨が降っていた。
職を失った後、知り合いのツテで小さな喫茶店に就職。まだ働いて一年経ってないといったところだが、ようやく仕事も板についてきた。
雨の日ということもあり、客も少なくゆるやかに時間が流れていった。
店内にいた最後の客の会計を済ませ、あとは閉店時間までゆっくりしようかと思った、その時だった。
『っ……ぐす。』
すすり泣く声が聞こえた。
思わず振り返ると、窓際の席に女性が一人、ポツンと座っていた。
先程会計した客が最後と思っていたが、どうやらまだ残っていたようだ。
(あれ、確かもう一人連れがいたような。)
思い出した。
確か昼頃、男性と二人で入ってきた女性だ。
二人とも暗い顔で入店してきて、珈琲を確か二つ頼んでずっと静かに話していた気がする。
もちろんプライバシーもあるので、あまり話は聞かないようにしていたのだが……。
(喧嘩か……もしくは別れたか?)
雨のせいで二人とも暗い顔をしていたのだろうと思っていたが、どうやら違ったようだ。
きっと、静かに話していた時に色々話をしたのだろう。
それがどんな内容かは分からないが、良い話では無さそうだ。
『ぐすっ……ひっ……くっ……』
声が店内に響き渡る。
今この空間にいるのは、女性と自分の二人。
きっと客もこの時間から来ることはほとんどないし、しかも雨の日なので閉店時間まで客はこの女性だけ。
しかし、すすり泣く女性を放ったらかして店じまいを進めるのは、何か人として欠けてるような気がした。
一店員と客に過ぎない。
何も考えずに「どうしたのか。」と聞くのも馴れ馴れしいだろうし、喫茶店の店員ができる何か良い励ましはないかと、頭を抱えてしまった。
ふと厨房を見渡した時、おやつ用に作ったクッキーが目に入った。
自分用に作ったお粗末なチョコチップクッキーだったが、そこに一筋の光が見えた気がした。
迷いはあったが、行動あるのみと自身を奮い立たせ、いそいそとお皿を準備し始める。
クッキーを数枚取り、お皿の上へ盛り付けて、そーっと彼女の座る席へと向かう。
カチャン。
クッキーをテーブルに置くと、泣いていた女性は体をビクッと震わせ、俯いていた顔を上げた。
鼻を真っ赤にして、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
目を丸くして、見つめてきた。
『サービスです。よろしければどうぞ。』
声が震える。
こんな風にするのは初めてで、正直柄では無い。
もし、断られてしまったらと内心ドキドキしていた。
女性は目をパチパチとさせた後、クッキーに視線を戻す。
一枚慎重にとって、さくっ、と頬張った。
『……』
女性はクッキーを飲み込んだあと、また一枚クッキーを取り口へ運ぶ。
口にあったのだろうか?
声をかけようとすると、女性がこちらを向いた。
『美味しい、です。』
目に涙は浮かんでいたものの、ニッコリと笑いながら女性は言った。
雨は止んだのか雨音は聞こえず、日が差してきたようで、少し明るくなっていた。
女性の顔が日差しに照らされ、不謹慎かもしれないが、
美しい、と、思ってしまった。
#梅雨
「はぁっ……はぁっ………」
ただひたすら走っていた。
闇雲に。どこに向かっているのかは分からない。
周りを見ても何も見えず、遠くに見える光を目指して走り続けていた。
後ろから追いかけてくる、〝何か〟から逃れるように。
自分の呼吸の音だけが聞こえる。
どれだけ走っただろうか。
心臓がドクドクと脈打っていて、足も重くなってきた。
もう限界は近づいているのに、止まることはできない。
後ろの〝何か〟に対する恐怖心が、今の自分を動かす動力となっていた。
「はっ…………ぐっ……」
歯を食いしばる。
汗が顔を伝い、喉はカラカラに乾いていく。
もしこれが、学校の体育の授業ならば迷いもせず止まっていただろう。
しかしこれは、体育の授業では無い。
体育の授業ならどれだけ良かっただろうか。
後ろの圧迫感がどんどん強くなっていく。
どんどん距離を詰められている気がする。
何がいるのか、全く分からない。
ただ少なくとも追いつかれた後、無事でいられる気はしなかった。
ドッ。
音がした。自分の下から。
「は、」
音がしたと同時に、ふわりと浮いた。
いや、浮いたのではなく、着くはずの地面がなかった。
「なっ、あぁっ!?」
変な声を上げながら下に落ちていく。
見えないどこかへ落ちていくほど怖いものは早々にない。
ドサッ。
すぐに地面の感覚がした。
体制を崩したため腰から仰向けに落ちたが、穴が浅かったのだろう、さほどのダメージにはならなかった。
深い穴で無いのなら、もしかしたら手の感覚だけで上がれるかもしれない。そう思って起き上がろうとした時だった。
起き上がれない。
と同時に、お腹の上に重さを感じる。
_________体の上に、何かが乗っている。
冷や汗が伝う。
何も見えない。しかし、息遣いは聞こえる。
今目の前にさっきまで後ろにいた〝何か〟がいるのだ。
モゾモゾとお腹の上で動いている。
体が動かない。
徐々に顔に近づいてくる。
顔なのか、はたまた手なのか、それともそれ以外か。
そもそもこの上にいるものは生き物なのか。
得体の知れない〝モノ〟が自分に触れようとしている。
死を覚悟した。
ゴンッ。
鈍い痛みで意識を取り戻す。
真上には見慣れた天井。自分の部屋だ。
ベッドから頭を下にした状態で落ちたのだろう、まだ足だけかろうじてベッドに乗っていた。
「ゆ、め?」
吐き出すように声が出る。
ふと、夢の中で重圧を感じていたお腹の方を見ると、すやすやと眠る愛犬の姿があった。
「な、んだ……お前かよ。」
全身の力が抜けていくのを感じた。
そばの少し空いた窓から、風が入る。
寝汗をかいたのか、少し涼しく感じた。
風に揺られ、壁にかけてあった日めくりカレンダーがなびく。
そこには、〝月曜日〟という文字があった。
#ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。
「久しぶり。」
ポツリと、誰もいない部屋に向かって言葉を放った。
和室。畳の匂いで充満していて、部屋はとても綺麗に整頓されていた。
簡易的な洋服クローゼット、大事な書類等が入っているであろう大きな箪笥。有名な書道家が書いたのだろうか、行書体で何て書いてあるか読めない掛け軸。
小さな頃から見慣れた、母の部屋だ。
生活感があるようでない、そんな質素な母の部屋が私はどこか苦手だった。
静かで寂しげな空気が、幼い頃の私には怖かったのかもしれない。
物が少ないせいか、母の部屋のものは全て覚えている。
一つ一つとの思い出を蘇らせながら、部屋を見渡していく。私の足がピタリとある場所で止まった。
母の部屋で私がいた頃までは無かったもの。
_______仏壇だ。
そこには、誰かが先に来て生けておいてくれたのであろう母が好きな花と、母の戒名、そして、にこやかに笑う母の写真があった。
厳しい母だった。
行儀作法はもちろん、勉強や交友関係、色んなものに口を出す所謂〝過保護な母親〟でもあった。私が幼い頃に父親とは離婚していたので、女手一つで育てていたが故だろう。
過保護に、そして厳しい躾をされていた私は、当然ながら楽しい学生時代を送ることはできず、勉強と習い事に貴重な青春を費やしていった。
そんな生活を続けて、私が母の事を好意的に見れるはずもなく、昔から母のことが嫌いだった。
小学生の頃は〝怖い〟という感情の方が大きかったが、中学生に上がり多感な時期に入ってくると、嫌悪の感情も同時に湧き上がってくるようになった。
しかし、母娘という関係であるのと、養ってもらっている手前、下手に逆らうことができず、仕方なく母の言う通りにするしかなかった。
大学に上がると同時に、家を出た。
友達と勉強するから、と適当な理由をつけてバイトをしながら、一人暮らしできる物件を探していたのだ。
塾に通いながら、母の見つからない遠くのコンビニでバイト、正直倒れるんじゃないかと言うくらい体を酷使した。
「あの母親から離れる為なら。」
その言葉を支えにしながら日々をこなし、無事家から出ることに成功したのだ。
そうやって大学、社会人、と今に至るまで家には帰らなかった。
家出同然で出ていったのだ、帰れるはずもない。
帰りたい、と思うことも全くなかった。
そんな私が、何故この家へ帰ってきたのか。
それは、自分の中でけじめをつける為だった。
静かに母の仏壇へと近づき、しゃがみ込む。
写真の母と目線を合わした。
「そんな風に笑えたんだね。」
私は母の笑った顔を見たことがなかった。
いつも、眉間に皺を寄せて難しそうな顔をしていて、母娘らしい会話もせず、二人で笑い合ったこともなかった。
この人は笑うことができないんだなと、呆れたほどだ。
正直仏壇の写真を見て、別人の誰かなんじゃないかと思った。
しかし、その顔はまさしく母だった。
「今日は、報告があって来ました。」
正座に座り直して、再び母に語りかけた。
緊張もあるのか、声が上擦る。
「私、結婚したの。5年前に。それでね、今…」
言葉が出てこなくて、自分のお腹をさすった。
今、この中には生命が宿っている。
「私もあなたと同じ、母親になります。でも、絶対あなたのような母親にはならない。」
不思議と落ち着いて話せていた。
子供を授かったとき、これだけは言いたかった。
本当は直接言ってやりたかったのだけど、それも叶わなかったので、今日ここに来たのだ。
我ながら根深いなと思うが、これくらい許してほしい。
線香もあげ、用事も済んだので家に帰ろうと立ち上がると、玄関からガチャリと言う音がした。
母の部屋から玄関を覗くと、40代くらいの男性がゆっくり入ってくるのが見えた。
「お、いたいた。やっぱり来ていたんだねぇ。」
男性は私の顔を見るなり、にっこりと微笑み、話しかけてきた。
「久方ぶりです。」
「いつぶりだっけ?姉さんの葬式には来てなかったから、それよりも前かぁ。」
この人は、母の弟。私の叔父にあたる。
今日、この家に来ることを念の為連絡しておいたのだ。無断で入って通報とかされても困るし。
「姉さんも久しぶりに娘に会えて嬉しかっただろうね。」
能天気に母の仏壇を見ながら、にっこりと笑う。
そんな久しぶりに会えた娘からは啖呵を切られて、母は散々だろうな。
まぁ、後悔はしていないが。
苦笑いをしながらその場を流す。
「あ、そうだ。」
叔父は思い出したかのように、自分の持っているバックを漁り出す。
「これ、姉さんが病院で最後まで手放さなかったやつなんだけどさ。覚えてる?」
叔父が取り出したのは、一枚のボロボロになったタオルだった。
所々破けていて、布切れにしか見えない。
「それ……」
「これね?入院してたとき、ずっと肌身離さなかったの。洗濯するからって言ってもね、絶対嫌だって。」
そのタオルには見覚えがあった。
まだ純粋な小学生だった頃。
家庭科の授業で、親御さんに何かを作って日頃の感謝を伝えよう。そんな授業があった。
厳しい母に何を送ればいいのかわからなかった私は、簡単に作れるタオルを贈ることにした。
あって困るものじゃないだろうと、そう考えたからだ。
何も考えずに作ったからか、つまらない質素なものになった。それでも、学校の課題だと言えば受け取ってくれるだろう。
「お母さん、あの、これ……」
緊張しながらも、母に渡した。
___しかし、そのタオルは静かにゴミ袋へと入れられた。
「布がよれてる、縫い目もズタズタ、あなた、お裁縫も碌に出来ないの?」
冷たい目と、静かな声で母はそう言い放った。
「こんなの使えもしない。」
ゴミ袋に詰めると、母は何事もなかったかのように家事の続きを始めた。
忘れもしない、それが私の心が壊れた瞬間だった。
捨てられたはずのタオルが何故、こんなところにあるのか、不思議でしょうがなかった。
しかも、肌身離さなかったということは、とても大切にしていたということだ。
「なんで、それが……」
「姉さん、このタオルずっと持ってたんだよ。君がくれたその日から。」
訳がわからなかった。
あれだけ罵倒した、この布切れを?
使い物にならないと、目の前でゴミ袋に入れたこの布切れを?
頭が混乱して、言葉が出ない私に叔父は一つの手紙を出した。
「え?」
「これ、姉さんから。君宛てだよ。」
差し出された手紙を恐る恐る受け取る。
母から手紙なんて貰わなかったし、送りもしなかった。
今までなら、どんな罵詈雑言が書いてあることかと手紙を開けずに捨てていたところだが、今昔からの母のイメージが崩れつつあり、どんなことが書いてあるのか、気になってしまったのだ。
茶封筒の封を切り、手紙に目を通す。
母の字なんて、きちんと見たのは初めてだった。
きっちりと綺麗な母らしい字だった。
書いてからしばらく経っているだろうに、母の匂いがほのかにした様な気がした。
手紙を一通り読み終えた私は、頭が真っ白になっていた。こんなものを残していたなんて。
沸々と湧き上がる感情を抑え込むことができることはなく、叔父の手からタオルを奪い、母のいる和室へと足早に入った。
「あのさぁ、ふざけないでよ!こんな布切れ、大事にしてさぁ……!」
気づいたら、勢い任せに仏壇に向かって怒鳴っていた。
今まで言えなかった言葉がつらつらと出てきたのだ。
「使い物にならないんでしょ?一度捨てたものをわざわざとっておかないでよ……こんな手紙まで書いてさ、何?これで許してって?馬鹿じゃないの!?」
だんだん声が大きくなっていく。
後ろの叔父も、静かに見ていた。
「今更なんだよ!どれだけ苦しかったと思ってんの?どれだけ傷ついたと思ってんの?欲しかったのは、そんな言葉欲しかったのは今じゃないのよ!!こんな……こんな……」
だんだん声も小さくなっていき、気づいたらボロボロと涙が出ていた。
「何も言えなくなってから、言わないでよぉ……」
座り込んで、わんわんと泣いていた。
堰き止めていたものがなくなり、私は子供のように泣き出した。母を亡くしてから、初めて泣けた。
叔父は、優しく背中をさすってくれていた。
手紙とタオルは私の涙でぐしゃぐしゃになった。
娘へ。
こんな風に手紙を出すのは初めてですね。
あなたが家を出ていってから、10年以上経ちました。元気に過ごしていますか?
正直何を書いたらいいのか分からないの。
でも、ずっとあなたのことが心配でならなかった。
あなたをきちんと愛せなかったことを、ずっと後悔してた。
言い訳をするのであれば、お父さんと別れてから、あなたを立派に育てなくては、って必死だったの。
女手一つだからって、あなたに不自由な将来を送ってほしくなくて、厳しく接してしまったわ。
その中でも、あなたが一生懸命タオルを作ってくれた時、冷たく貶してしまったのは本当に申し訳なかったと思ってる。とても嬉しかったのに、甘やかしてはいけないって冷たく突き放してしまった。
本当は、ありがとうって言いたかったのに。
いらない意地を張っていたの。母親として最低な事をした。
勝手かもしれないけれど、そのタオルはずっと私の宝物です。あなたがくれた唯一のプレゼントだから。
他にも沢山あなたにキツく当たってしまった。
きっとあなたにとっては、最悪の母親でしょう。
この手紙を読む頃、きっと私はもういないかもしれないけど、どうかこの言葉だけは伝えたい。
私の元に生まれて来てくれてありがとう。
そして、ごめんね。
母
#ごめんね