「久しぶり。」
ポツリと、誰もいない部屋に向かって言葉を放った。
和室。畳の匂いで充満していて、部屋はとても綺麗に整頓されていた。
簡易的な洋服クローゼット、大事な書類等が入っているであろう大きな箪笥。有名な書道家が書いたのだろうか、行書体で何て書いてあるか読めない掛け軸。
小さな頃から見慣れた、母の部屋だ。
生活感があるようでない、そんな質素な母の部屋が私はどこか苦手だった。
静かで寂しげな空気が、幼い頃の私には怖かったのかもしれない。
物が少ないせいか、母の部屋のものは全て覚えている。
一つ一つとの思い出を蘇らせながら、部屋を見渡していく。私の足がピタリとある場所で止まった。
母の部屋で私がいた頃までは無かったもの。
_______仏壇だ。
そこには、誰かが先に来て生けておいてくれたのであろう母が好きな花と、母の戒名、そして、にこやかに笑う母の写真があった。
厳しい母だった。
行儀作法はもちろん、勉強や交友関係、色んなものに口を出す所謂〝過保護な母親〟でもあった。私が幼い頃に父親とは離婚していたので、女手一つで育てていたが故だろう。
過保護に、そして厳しい躾をされていた私は、当然ながら楽しい学生時代を送ることはできず、勉強と習い事に貴重な青春を費やしていった。
そんな生活を続けて、私が母の事を好意的に見れるはずもなく、昔から母のことが嫌いだった。
小学生の頃は〝怖い〟という感情の方が大きかったが、中学生に上がり多感な時期に入ってくると、嫌悪の感情も同時に湧き上がってくるようになった。
しかし、母娘という関係であるのと、養ってもらっている手前、下手に逆らうことができず、仕方なく母の言う通りにするしかなかった。
大学に上がると同時に、家を出た。
友達と勉強するから、と適当な理由をつけてバイトをしながら、一人暮らしできる物件を探していたのだ。
塾に通いながら、母の見つからない遠くのコンビニでバイト、正直倒れるんじゃないかと言うくらい体を酷使した。
「あの母親から離れる為なら。」
その言葉を支えにしながら日々をこなし、無事家から出ることに成功したのだ。
そうやって大学、社会人、と今に至るまで家には帰らなかった。
家出同然で出ていったのだ、帰れるはずもない。
帰りたい、と思うことも全くなかった。
そんな私が、何故この家へ帰ってきたのか。
それは、自分の中でけじめをつける為だった。
静かに母の仏壇へと近づき、しゃがみ込む。
写真の母と目線を合わした。
「そんな風に笑えたんだね。」
私は母の笑った顔を見たことがなかった。
いつも、眉間に皺を寄せて難しそうな顔をしていて、母娘らしい会話もせず、二人で笑い合ったこともなかった。
この人は笑うことができないんだなと、呆れたほどだ。
正直仏壇の写真を見て、別人の誰かなんじゃないかと思った。
しかし、その顔はまさしく母だった。
「今日は、報告があって来ました。」
正座に座り直して、再び母に語りかけた。
緊張もあるのか、声が上擦る。
「私、結婚したの。5年前に。それでね、今…」
言葉が出てこなくて、自分のお腹をさすった。
今、この中には生命が宿っている。
「私もあなたと同じ、母親になります。でも、絶対あなたのような母親にはならない。」
不思議と落ち着いて話せていた。
子供を授かったとき、これだけは言いたかった。
本当は直接言ってやりたかったのだけど、それも叶わなかったので、今日ここに来たのだ。
我ながら根深いなと思うが、これくらい許してほしい。
線香もあげ、用事も済んだので家に帰ろうと立ち上がると、玄関からガチャリと言う音がした。
母の部屋から玄関を覗くと、40代くらいの男性がゆっくり入ってくるのが見えた。
「お、いたいた。やっぱり来ていたんだねぇ。」
男性は私の顔を見るなり、にっこりと微笑み、話しかけてきた。
「久方ぶりです。」
「いつぶりだっけ?姉さんの葬式には来てなかったから、それよりも前かぁ。」
この人は、母の弟。私の叔父にあたる。
今日、この家に来ることを念の為連絡しておいたのだ。無断で入って通報とかされても困るし。
「姉さんも久しぶりに娘に会えて嬉しかっただろうね。」
能天気に母の仏壇を見ながら、にっこりと笑う。
そんな久しぶりに会えた娘からは啖呵を切られて、母は散々だろうな。
まぁ、後悔はしていないが。
苦笑いをしながらその場を流す。
「あ、そうだ。」
叔父は思い出したかのように、自分の持っているバックを漁り出す。
「これ、姉さんが病院で最後まで手放さなかったやつなんだけどさ。覚えてる?」
叔父が取り出したのは、一枚のボロボロになったタオルだった。
所々破けていて、布切れにしか見えない。
「それ……」
「これね?入院してたとき、ずっと肌身離さなかったの。洗濯するからって言ってもね、絶対嫌だって。」
そのタオルには見覚えがあった。
まだ純粋な小学生だった頃。
家庭科の授業で、親御さんに何かを作って日頃の感謝を伝えよう。そんな授業があった。
厳しい母に何を送ればいいのかわからなかった私は、簡単に作れるタオルを贈ることにした。
あって困るものじゃないだろうと、そう考えたからだ。
何も考えずに作ったからか、つまらない質素なものになった。それでも、学校の課題だと言えば受け取ってくれるだろう。
「お母さん、あの、これ……」
緊張しながらも、母に渡した。
___しかし、そのタオルは静かにゴミ袋へと入れられた。
「布がよれてる、縫い目もズタズタ、あなた、お裁縫も碌に出来ないの?」
冷たい目と、静かな声で母はそう言い放った。
「こんなの使えもしない。」
ゴミ袋に詰めると、母は何事もなかったかのように家事の続きを始めた。
忘れもしない、それが私の心が壊れた瞬間だった。
捨てられたはずのタオルが何故、こんなところにあるのか、不思議でしょうがなかった。
しかも、肌身離さなかったということは、とても大切にしていたということだ。
「なんで、それが……」
「姉さん、このタオルずっと持ってたんだよ。君がくれたその日から。」
訳がわからなかった。
あれだけ罵倒した、この布切れを?
使い物にならないと、目の前でゴミ袋に入れたこの布切れを?
頭が混乱して、言葉が出ない私に叔父は一つの手紙を出した。
「え?」
「これ、姉さんから。君宛てだよ。」
差し出された手紙を恐る恐る受け取る。
母から手紙なんて貰わなかったし、送りもしなかった。
今までなら、どんな罵詈雑言が書いてあることかと手紙を開けずに捨てていたところだが、今昔からの母のイメージが崩れつつあり、どんなことが書いてあるのか、気になってしまったのだ。
茶封筒の封を切り、手紙に目を通す。
母の字なんて、きちんと見たのは初めてだった。
きっちりと綺麗な母らしい字だった。
書いてからしばらく経っているだろうに、母の匂いがほのかにした様な気がした。
手紙を一通り読み終えた私は、頭が真っ白になっていた。こんなものを残していたなんて。
沸々と湧き上がる感情を抑え込むことができることはなく、叔父の手からタオルを奪い、母のいる和室へと足早に入った。
「あのさぁ、ふざけないでよ!こんな布切れ、大事にしてさぁ……!」
気づいたら、勢い任せに仏壇に向かって怒鳴っていた。
今まで言えなかった言葉がつらつらと出てきたのだ。
「使い物にならないんでしょ?一度捨てたものをわざわざとっておかないでよ……こんな手紙まで書いてさ、何?これで許してって?馬鹿じゃないの!?」
だんだん声が大きくなっていく。
後ろの叔父も、静かに見ていた。
「今更なんだよ!どれだけ苦しかったと思ってんの?どれだけ傷ついたと思ってんの?欲しかったのは、そんな言葉欲しかったのは今じゃないのよ!!こんな……こんな……」
だんだん声も小さくなっていき、気づいたらボロボロと涙が出ていた。
「何も言えなくなってから、言わないでよぉ……」
座り込んで、わんわんと泣いていた。
堰き止めていたものがなくなり、私は子供のように泣き出した。母を亡くしてから、初めて泣けた。
叔父は、優しく背中をさすってくれていた。
手紙とタオルは私の涙でぐしゃぐしゃになった。
娘へ。
こんな風に手紙を出すのは初めてですね。
あなたが家を出ていってから、10年以上経ちました。元気に過ごしていますか?
正直何を書いたらいいのか分からないの。
でも、ずっとあなたのことが心配でならなかった。
あなたをきちんと愛せなかったことを、ずっと後悔してた。
言い訳をするのであれば、お父さんと別れてから、あなたを立派に育てなくては、って必死だったの。
女手一つだからって、あなたに不自由な将来を送ってほしくなくて、厳しく接してしまったわ。
その中でも、あなたが一生懸命タオルを作ってくれた時、冷たく貶してしまったのは本当に申し訳なかったと思ってる。とても嬉しかったのに、甘やかしてはいけないって冷たく突き放してしまった。
本当は、ありがとうって言いたかったのに。
いらない意地を張っていたの。母親として最低な事をした。
勝手かもしれないけれど、そのタオルはずっと私の宝物です。あなたがくれた唯一のプレゼントだから。
他にも沢山あなたにキツく当たってしまった。
きっとあなたにとっては、最悪の母親でしょう。
この手紙を読む頃、きっと私はもういないかもしれないけど、どうかこの言葉だけは伝えたい。
私の元に生まれて来てくれてありがとう。
そして、ごめんね。
母
#ごめんね
5/29/2023, 2:07:59 PM