なぁ、俺の話を聞いてくれよ。
俺には、仲のいい友人がいたんだ。けどソイツ、自転車通学でさ。
徒歩で行き帰りしないもんだから、一緒に帰ろうと誘いたくても誘えなかったんだ。
誘ったところで断られてたし。
ソイツ…結構苦労しててさ。結構って言うか普通に。
親からネグレクトされて、転校生だからって虐められてて、病名は知らないけど、余命宣告されたって聞いた。
その全部を、穏やかな笑顔でそう言った。
俺はソイツのことが大好きだったから、いじめられてるとか関係なく、ソイツの味方でありたかった。
でも、そう言うと、ソイツは俺が傷つくことを望まないからやめてくれと笑顔で止めた。
それからずっと何も言えなかった。ちょっとホッとしてた。
暫く時が経ち、何事も無かったかのようにソイツは死んだ。誰一人として変わりなく過ごしていた。
悲しかった。涙が止まらなかった。
ソイツを苦しめたこの学校の屋上から飛び降りて、この学校の評判を貶めてやろうかと思った。
けれど、ソイツはそんなことを願っていないと思う。他人が不幸になることを願うような奴じゃない。
何事も無かったかのように去っていった癖に、去っていく音すら聞かせずに去っていったソイツの笑顔。
俺、もっと何かできたのかな。あんな隣に居たのに何も知らなかった。
嫌がられても嫌われても、なにかできたかもしれない。
いじめられることを怖がって、何もできなかったのかもしれない。
…話、聞いてくれてありがとうな。あれ、なんかお前、ソイツに似てるな。気の所為か?
俺みたいになるなよ。もしくは、ソイツみたいにならないことを祈ってるよ。
じゃあな。
「遠い足音」
人は何で秋の訪れを感じるんだろう。
気温の変化?テレビのニュース?スーパーに陳列された商品?道端に生えている植物?
私は、何で秋を感じていたかな。
最近は、長袖か半袖か迷う時期だから、腕に当たる空気の温度でぼんやりと秋を感じていた。
秋は、何か作品のテーマになっている時、寂しげな扱いをされているのをよく見る。
私も最近は地球温暖化だなんだで秋が短くなっていると思うし、秋は悲しいとも言える気がする。
けれど、さつまいものスイーツがよく売られていたり、学校行事が盛んだったり、秋は楽しいとも言えそうだ。
学生の頃は、これらからも秋を感じていたなぁ。
ぼんやりと考えていると、ひゅうっと少しの秋が腕に触れた。
「秋の訪れ」
ピアノを始めたのはいつだっただろうか。正確には覚えていないが、小学生の頃には鍵盤に指を置いていた。初めて弾いた曲さえ覚えていない。
有名な曲といえば「エリーゼのために」だったりとかだろうか。それすら、右手で少しメロディを弾けるだけになってしまった。
そう思えば少し淋しく、残念なことだが、仕方の無いことだった。金銭的な余裕がなくなってピアノを辞めたのも、時間が経ち、曲を忘れたのも。
しかし、私が曲を弾いたという事実だけはこの壊れた電子ピアノと共に残っている。それだけで充分だ、と納得するようにした。
誰でも弾けるのかもしれないが、私は「きらきら星」がお気に入りだった。時々、気が向いたら、ほんの少しだけ弾いている。問題なく指を動かせるのはかつての事実があったお陰だろうか。
死人は消えたらあの世へ行くという。なら、記憶は何処へ行くのだろうか。事実は何処へ行くのだろうか。死人と共に消えるのだろうか。それとも、また別のところへ行くのだろうか。
願わくば、こんなところへ留まらないで欲しい。ピアノならば、美しい旋律を奏でてくれる誰かの元へ。もっと裕福な家庭で。忘れられないところで。
ふと我に戻って、私は電子ピアノの解体作業を進めた。
「遠くの空へ」
最近、絵を描くことを続けている。まだ数ヶ月と短いが、私にしては長く続けている方だ。始めたての頃は確かに好きでやっていた。この感情に間違いはなかったと断言しよう。
断言できていた。
近頃、この感情に間違いがあったのではないかと悩んでいる自分がいる。私が好きだったのは、「絵」ではなくその先にあった「賞賛」ではないだろうかと。私は絵が好きだから自分は絵を描いていると思い続けていた。しかし、SNSに絵を投稿する自分や、いいねの数に心を動かされる自分を顧みる度、自分に対してどうも疑ってしまう自分がいる。
私は本当に、絵が好きなんだろうか。私が絵を描き続けているのは、「絵」が理由ではなく、「賞賛」が理由なのだろうか。
世の中には、賞賛されたくて絵を描く人がいる。無論、賞賛されたくて絵を描くことも間違いではないのかもしれない。人の心理に詳しい人はコレは危険だ、と言っているのをまま聞くが、だからと言って絵を描く行為を止めることはできないと思う。
「賞賛」に縋り生きる人々が求めるものを得る唯一の手段なのだから、彼らはその手段をそう簡単には捨てまい。
そしてもうひとつ、絵が好きだから絵を描く人がいる。ただ絵が好きで、好きなものを皆に見せたくて、それだけのただ純粋で、綺麗なもの。子供のように純粋無垢な欲求のまま絵を描く人。そう、子供のように。
私は信じていた。私は後者で、前者のようにただ人に褒められたいだけの虚しい人ではないと。私はただ絵が好きだから。「絵」が好きだから、「賞賛」は二の次にあると。
しかし、子供の頃より少しだけ大人になった今、「賞賛」される喜びを知ってしまった。絵を描くことでは得られなかった、他人から与えられる喜びを。そして、その喜びの儚さと、危険性も。だから、自分は違うと必死に言い聞かせて描き続けている。
時折、優しい人は「信じて描き続ければ大丈夫」と言ってくれる。その時に、ある感情に襲われる。
絵が好きな彼らはきっとこの感情を知らないのかもしれない。それか、忘れたのかもしれない。私は忘れたんだと思う。
私は、とっくに信じている。しかし、その先でこの現状なのである。貰えるいいねは2桁を超えず、貰えるいいねもお情けにしか思えない。誰も私の絵を見てくれない。私は、私が描いた絵は、好きの正反対にある無関心に常に晒されている。
頑張っているんだ。その上で、これ以上何を頑張ればいいんだ。ただ我武者羅に頑張って、ゴールの先に何があるかも知らず、ゴールがあるのかも分からず、取り敢えず筆を握っているんだ。
どれほど頑張っても、上には上がいるのが世の常だ。その人たちは「絵」か「賞賛」か、何が目的か知らないが、今も絵を描いて、今も上手くなっているんだろう。どれだけ真似をしても追い付けない間を常に感じている。
この感情を絵で表現してみようか。表現したところで誰も見てはくれない。気に留めない。もっと描いて、もっと上手くならなければならない。
何故
こう考えた先に辿り着く疑問に、胸を貫かれる。何故私は筆を握るのか。そこまでして「賞賛」が欲しいのか、そこまで「絵」が好きなのか。
分からない。今の私にはまだ分からない。答えが分かるかすら分からない。きっと片方だけでは無いんだろう。片方だけなら既に分かっていただろう。
私か求めるものも、この感情の名前も、複雑さも、分かるかもしれない。今は可能性に掛けることにした。
きっと、その可能性は低い。検索すれば分かってしまうような単純なものではないだろう。そうだとすれば、私はここまで「絵を描く」ことに執着しないだろうから。
私は筆を握っている。
「!マークじゃ足りない感情」
最近よく桜に関するニュースを目にする。朝のお天気と一緒に桜の開花情報なんてざらだ。最近の桜はよく通りすがりに見るとイメージすることが増えた気がする。一昔前だとスーツにビール瓶で酒仰いだリーマンとか…桜と言うよりお花見(お酒を飲んだりする人達)をイメージしていた。
自分はアウトドアではないもので、桜の花言葉について調べてみた。
桜の花言葉は桜が持つ「儚さ」に因むものらしい。確かに、桜は咲き誇ったと満を持して見に行けば散っている。地面に踏み潰された花弁を見た時のあの複雑な気持ちといえばない。
調べたと同時に出てくる桜の画像を拡大して見る。桜は花の単体で見ればそう美しくもないのだろうか。なんというか地味に感じてしまった。しかし、複数枝先に咲く姿は美しいと感じた。…富士山と同じ感じだろうか。
次に桜にまつわる言葉について調べてみた。なんだか厨二心を擽る言葉が多いなと言うのが初手の感想だった。ふと目に付いたのは「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」という言葉。桜は繊細だから切っちゃダメだけど梅は図太いから切っていいよみたいな意味だった。なんか桜って面倒臭いな…女みたいだ。桜を愛で育てる人達は顔が良ければどんなワガママも聞く、面食いに違いない。
その下には「桜は桜木、人は武士」という言葉が書いてあった。これは初耳の言葉だった。武士が現存していた頃には結構有名な言葉だったんだろう。花では桜が最も優れていると言っても、結構感性によるのでは?まぁでも今は海外の花とかも入ってくるけど当時は鎖国とかあったらしいし知らないのも当然か。
朝のニュース画面に目を戻す。
桜、言うほど咲いてないな。都内だけだろうか、咲いてるところは徹底的に咲いてるんだろうか。
こうなればもっと桜について調べてみようか。桜にまつわる雑学とか、花言葉についてももっと掘り下げてみてもいいかもしれない。
テーマ『桜』