言うはずじゃなかった。言わないでおきたかった。言ったってどうにもならないことを分かっていた。
でも、口を塞ぐ前に、言葉が飛び出していた。
「——……」
最初で最後の、僕からきみへのわがままだった。
見事な秋晴れだった。
いつも眠っているあいつが久々に目を覚まして「外に出たい」なんて言うものだから、青々とした空の下、二人で敷地内を歩いて回った。
暖かい陽気と心地よい風に包まれて、なんとも穏やかな時間だった。あまりにも気持ちの良い空だったから、あいつがまた眠ってしまわないかと不安になって、何回もその横顔を伺った。
「見すぎ」
そう言って笑った顔が、幼い頃の面影と重なった。ああ、ちゃんと成長してるんだな。なんて、ジジくさいことを思ってしまってちょっと恥ずかしい。誤魔化すように、わざと大きく咳払いをした。
明日も晴れたらいいね。そう言うと、あいつは少しきょとんとして、それから静かに微笑んだ。そうして空を見つめて、言葉少なに肯定した。
青空には白い筋がひとつ、長く長く横たわっていた。
この病室からは、町の明かりがよく見える。
海と山に囲まれた町の、山の中腹に隔離されたサナトリウム。それは、小さな町全体を見下ろすようにして建っている。
記憶が正しければ、あの辺には従兄弟の家があるし、あそこには滑り台とブランコしかない小さな公園があるはず。それから、ひときわ明るいあれは、きっと町役場。遅くまでお勤めご苦労様です、と心の中でひとりごちる。
いつもと同じ夜景。代わり映えのない景色。
それが退屈だなあなんて思えるくらいに、いつの間にか自分は成長していた。そのことに、喜びと、少しの寂しさをおぼえる夜だった。
「どこか、痛みますか?」
俺を見た彼女はキュッと猫のように瞳孔を細くして、パタパタと駆け寄ってきた。
「なんで?」
「涙が、」
「……泣いてるのか、俺」
「そうみたい、です」
——たまにあるんだ。気にしないで。
そう何でもないことのように言って涙を拭う。でも、あれ、おかしいな。……止まらないな。
「困ったな」
はは、どうしよ。
何がおかしいのかなんて分からないのに、自然に笑い声が喉の奥から漏れ出した。感情が闇鍋みたいになってる。どうしようもないな、ホント。
目元を拭いながら、止まらない涙に笑っていると、腰のあたりに彼女が抱きついてきた。
お腹すいた? と聞くと、首を横に振った。疲れた? と聞くと、「んん」と否定らしい声を漏らした。
「泣かないで」
彼女は今にも泣きそうな声で、そう言った。
「泣いてもいいけど、泣かないで」
「ひとりで、泣かないで」
ぐず、と鼻を啜って、抱きつく力を強くして、弱々しい声でそう言った。
「……ごめんね」
頭を優しく撫でると、「ん」と頷いた。
「あと、ありがとう」
撫でる手を何度か往復させているうちに、自分の涙が止まっていることに気が付いた。
気が付いて、そして、今度は俺が彼女に先程の言葉をかける番になったことにも気が付いて、思わず声を出して笑ってしまった。
ぐらぐらとして、ふわふわとして。
それでも寝込むほどではなくて、足取りもわりとしっかりしていて、微熱みたいな。
目の前のそれ/もの/彼/彼女に手を伸ばしたら、触れた瞬間にぱしゃんと弾けて消えた。これは私の夢。
白昼夢よりは朧気で、記憶よりは明確な、ある意味一種の走馬灯。
まるで、誰よりも、何よりも、長い時間を過ごしてきた私に、「どうか忘れてくれるな」と縋っているような。
私の夢とは、そういうものなのだ。私がそれらを忘れないように、それらが私に忘れられてしまわないように。微熱として、私の身体を巡るのだ。