◎記憶の地図
#75
かつては多くの人で賑わっていた王国。
現在では忘れ去られ、地図から消え失せ、存在を知るものは比較的長命な種族の長たちのみだという。
青々とした草を掻き分け、粘土質の土を踏みしめながら、族長候補に選ばれた青年は現族長に連れられて原生林の奥へと入っていく。
「……あの、族長」
「………………」
黙々と先へ進む族長の後を追って、巨木の枝をしならせて飛び移る。
里を出てから、族長は一言も口を開いてはいなかった。
「今まで、何人もの若者が族長候補に選ばれました」
「………………」
族長は歳に似合わぬ軽快な動きで跳躍し、ツタを掴んで移動していく。
記憶の地図を辿るように、道なき道を進んでいく。
必死に追いかけながら、族長候補──ナタは言葉を紡いだ。
「俺の従兄弟も選ばれました」
「…………あぁ。覚えておるよ。誠実な男だった」
族長の声からは感情が読み取れない。
ナタは不安げに眉を下げて次の言葉を待った。
「我ら森の民は人間よりも長い生を受けて森の頂点に君臨し続けている。それが何故か、ナタ、お主にはわかるか」
「森の均衡を保つため、ですよね」
族長の口から続いたのは、里で何度も聞いた昔話の一端だった。
族長の口の端が少し緩み、いつもの優しげな表情になる。
「そうだ。我らは森を守るもの。その長を務める者は儀式をもって選別される」
徐々に速度が遅くなっていき、ついには族長は枝の上に立ち止まった。
鬱蒼と茂っていた木々がひらけて、目の前には今まで足場にしていた巨木よりも更に大きな巨大樹がそびえ立っていた。
その枝葉が日に輝き、金の粉を纏っているような錯覚を覚える。
「ここは族長と、その候補のみが入ることを許された聖域。ここで候補たちは選別を受けるのだ。私も、何十年も前に、先代に連れてこられた」
一瞬、懐かしそうな遠い目をして、族長は巨大樹の根元へと降りていく。
ナタもそれに倣って地面へと降りた。
族長は苔むした、自然物というには綺麗に切削加工された石に腰掛けていた。
そして巨大樹を指さして項垂れた。
「ここら一帯は王国だった。その歴史を知り、受け入れられた者だけが族長となれる。さぁ、行きなさい、ナタ」
一歩一歩近づくごとに頭の中に、声が木霊した。
ガンガンと内と外から金槌で殴られているような頭痛がナタを襲った。
「……っ……ぅ、ぐっ」
それでもゆっくりと時間をかけながら距離を詰めていく。
進まねばならないという使命感でいっぱいになる。
早く幹に触れようと手を伸ばす。
痛みと同時に喜びと哀しみと怒りの奔流が暴れた。
(これは、歴史、というよりも……)
ついにその手が巨大樹に触れた。
ナタの意識が塗りつぶされていく。
(誰かの、記憶──)
崩れ落ちるナタを誰かの腕が抱きとめた。
「よく、頑張った。今だけはおやすみ、
新たな森の長よ」
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる
ぐるぐるぐるぐる──
国が興った。
立派な王は周辺の森とその民に敬意の限りを尽くした。当時の族長は快く受け入れ、協定を結んだ。
それは、互いに支え合うという誓い。
長命な森の民と短命な人間の
友情の始まり。
国は栄えた。
森の恵みが国全体に行き渡っていた。
それをよく思わない周辺国は森を手に入れんとして、旅人を雇い、川に毒を流した。
人間にだけ害のある毒だった。
毒は豊かな国を蝕んだ。
疫病が流行り、国民が血を吐いて倒れた。
王は悲しんだ。
森の民にはどうすることも出来なかった。
森の民は怒った。
けれど、王との協定
──人間と森の民は傷つけあわない──
それを守るために怒りを呑んだ。
王も床に伏せるようになった。
森の民にはどうすることも出来なかった。
王の傍らで最期を看取った。
友王の墓標として木を植えた。
墓標に触れて族長は誓った。
人間は傷つけぬ。
だが、お主以外の人間を受け入れることもしない。
我ら森の民は今でも待っている。
かつて友と呼んでくれた
ひとりの人間を。
◎雨上がり
#74
弾丸のような雨粒が全身に降りかかる。
こうやって打たれているのはどれほどの
期間だろうか。
日数経過の感覚はわからない。
目は塞がれて見えないし、この体の肌は
温かさも感じないからだ。
それでも体を激しく揺さぶる感覚には
そろそろ飽きてきたし、これでは更に
仕事に遅れてしまうだろう。
早く遂行しなければ……。
今更ながら、
彼奴らの罠にかかった自分に腹が立つ。
いや、最早その腹すらない体なのだが。
微かに動く口で歯噛みしていると、
ふと体の揺れがおさまった。
どうやら、雨が上がったらしい。
自由を取り戻した両の手で目元の布を
剥ぎ取る。
この地の作物を枯らす雨がおさまった。
それはこの体の元の持ち主には喜ばしいことだろう。
村が助かる。
自分の犠牲には意義があったと、
無邪気に喜ぶのだろう。
この雨が"滅ぼす者"を封じるために
降っていたこと知らないのだから。
あぁ、
ひとつの淡い光が天にのぼっていく。
……お前は、最期まで純粋だった。
雨を止めるため、村を救うため──
何の疑いもなく、己を差し出した。
その在り方を、俺は"哀れ"だと思う。
断じて、否定の意味ではない。
お前の選択が、
あまりに真っ直ぐだったのだ。
だからこそ願う。
振り返らずに逝け。
極楽の門の向こうから、決してこちらを
覗くな。
今から始まる、俺の所業を知らないまま、
無事に極楽へと辿り着いてくれ。
どうか安らかに。
罪なき、清き心の若人よ。
俺の器に選ばれし者たちよ。
どうか、俺を赦さないでくれ。
───天は俺を遣わした。
かの国が滅亡の運命から外れぬように。
俺は"滅ぼす者"。
その役割を果たすときがきた。
仕事を、始めよう。
滅びるべき国は、まだ生きている。
◎さらさら
#73
両手からこぼれ落ちていく。
砂みたいだ。
ずっと手元に置いておきたい、
手離したくない。
そんなものが沢山増える。
まるで砂時計だ。
ある人は言った。
「そこをどいてください」
またある人は言った。
「ここは任せて、先に行って」
別のある人は言った。
「また会おう」
いつかの人は言った。
「忘れないで」
皆、皆、みんな、みんな……
零れていった。
全部欲しがって、全部失った。
ニンゲンはその儚い時間を生き急ぐのが
好きらしい。
置いていかれる側のことなんて、
気にしちゃくれない。
わからないよ。
君たちは馬鹿だ。
そうやっていつも居なくなる。
僕を独りにする。
僕はもう疲れたんだ。
だから、勇者。
君を倒して終わりにするよ。
誰も居なくならない、誰も生まれない。
そんな世界なら、
この希望を捨てられるでしょう?
◎Sunrise
#72
地下牢に囚われてどれだけの時が経っただろう。
毎日行われる身体検査で朝がきたことを知るばかりで、それが幾度繰り返されたのかなど、最早知ろうとするる気力も興味もない。
「立て1109」
「はいよぉ……」
くぐもった声が徐々に近づいてくる。
隣の房までやってきたのは代わり映えのない地味な顔つきの看守。
淡々とこなされる作業は機械的で面白味がない。
「次、8073」
「はい」
ここでは誰もが番号で呼ばれる。
隣人の男は長い間ここに居るらしく、自身の名前はとうに忘れてしまったと語っていた。
看守は服を剥ぎ取ると触診して次の房へと進む。容赦も遠慮もないので、人間ではないのではと疑っている。
投げ捨てられた囚人服を着て床に寝転がる。
囚人は穀潰しだ。
ただ、食って寝るだけの日々。
刺激も何も無い。
耐え難い苦痛だ。
屈辱だ。
人生は驚きとスリルで構成されて然るべきだというのに。
こんなにつまらない場所で我が人生はすり減らされていくのか。
たったひとつの爆弾を持って街に繰り出し、極限のスリルを堪能していただけなのに。
テロを企てた?
ご冗談!
スリルを求めていただけだ。
あの警官はテロ犯に果敢に立ち向かった英雄として称えられたのだろう。
腹立たしい限りだ。
私から娯楽を奪った罪は重い。
……ふむ。
良いことを思いついた。
起き上がり、爪を噛む。
脳内には完璧で素晴らしい計画が描き出されていく。
───数日後
監獄とその周囲一帯を巻き込んだ大爆発が新聞の一面を飾った。
監獄内部から大規模な爆発をしたことから、生存者はゼロ。
遺体も跡形もなく吹き飛んでいることが
報道された。
ガス漏れの事故として処理された後日、
新聞の隅に小さな事件が載った。
『英雄警官、自殺試みる』
かの英雄が某日未明、自宅でひどく心を乱した状態で発見された。薬によって鎮静させるも、再び自殺を試みた。
その後心的外傷後ストレス障害・PTSDと診断され、特別精神病棟に隔離されたという。
「彼は支離滅裂に叫んでいた。"やつが来る"と。誰のことかは分からない」関係者はそう語り、それ以降口を閉ざしたままである。
◎空に溶ける
#71
その日、空には雲ひとつなかった。
真夏日のなか、見知らぬあぜ道で男はどこかに陰がないかとさまよっていた。
だくだくと流れる汗が、
体が溶けているような錯覚を起こす。
体が水気と清涼を求めている。
このまま消えてなくなることの方が楽に
思えてくるほど限界だった。
蛇も猫も見かけない。
皆、暑さにくたびれているのだろう。
蝉のやかましい声と男が土を踏みしめる音だけが聞こえている。
憎々しいほどに照りつける太陽を睨み、
その眩しさに視界が白く染まる。
目を細めて道に目を向けると、陽炎の奥からゆらりと家屋が現れた。
「……お、おぉ……」
足をもつれさせながら、なんとかその前に辿り着く。
「あら、こんな暑い中を珍しい。いらっしゃいませ」
出てきた女主人は、冷気を纏っていた。
「み、水をくれないか……」
絞り出した声は掠れていたが、女は頷いて店の奥へと入っていった。
店の中はひんやりとしていて、外とはかけ離れて過ごしやすい。
人間の生存圏内に入れたことに安堵して、近くにあった座敷にあがって座り込んだ。
深呼吸していると女は水と大きなかき氷を盆に乗せて戻ってきた。
「外は猛暑だったでしょう。さぁ、どうぞお召し上がれ」
「ありがたい、生き返る心地だ」
水を飲み干し、かき氷に手をつける。
ふわふわとした氷が積み重なって、
山をかたちどっていて、触れてみると
あまりにキンと冷たかった。
その冷涼さに指を引っ込め、添えてあった箸を握る。
ひと口含むとぱっと溶けて、かかった蜜の甘さが残った。
「あぁ……こんなところでかき氷にありつけるとは思わなんだ……」
男は涙を浮かべてしゃくしゃくと頬張る。
頭の痛みに悶えながらも箸を進める。
器の半分ほどまで食べ終えたところで正気に戻り、着物を整えて女に頭を下げた。
「私は有原近衛門と申す。長い間歩き続け、疲れ果てていた。貴重な氷をわけていただき感謝する」
男は熱をもった懐から銭袋を出そうとした。しかし、その手は着物の布地を掴むだけ。
そこで男は、はたと気付いた。
自分はいつから歩いていたのだろう。
何処を目指して歩いていたのだろう。
全て霞みがかってはっきりとしない。
女はただただ微笑んでいる。
冷たいものが背筋を伝う。
身体中を探してやっと見つけたのは
紙に包まれた六文銭だった。
かき氷の端は溶け始め、
青い空に還っていった。