◎空に溶ける
#71
その日、空には雲ひとつなかった。
真夏日のなか、見知らぬあぜ道で男はどこかに陰がないかとさまよっていた。
だくだくと流れる汗が、
体が溶けているような錯覚を起こす。
体が水気と清涼を求めている。
このまま消えてなくなることの方が楽に
思えてくるほど限界だった。
蛇も猫も見かけない。
皆、暑さにくたびれているのだろう。
蝉のやかましい声と男が土を踏みしめる音だけが聞こえている。
憎々しいほどに照りつける太陽を睨み、
その眩しさに視界が白く染まる。
目を細めて道に目を向けると、陽炎の奥からゆらりと家屋が現れた。
「……お、おぉ……」
足をもつれさせながら、なんとかその前に辿り着く。
「あら、こんな暑い中を珍しい。いらっしゃいませ」
出てきた女主人は、冷気を纏っていた。
「み、水をくれないか……」
絞り出した声は掠れていたが、女は頷いて店の奥へと入っていった。
店の中はひんやりとしていて、外とはかけ離れて過ごしやすい。
人間の生存圏内に入れたことに安堵して、近くにあった座敷にあがって座り込んだ。
深呼吸していると女は水と大きなかき氷を盆に乗せて戻ってきた。
「外は猛暑だったでしょう。さぁ、どうぞお召し上がれ」
「ありがたい、生き返る心地だ」
水を飲み干し、かき氷に手をつける。
ふわふわとした氷が積み重なって、
山をかたちどっていて、触れてみると
あまりにキンと冷たかった。
その冷涼さに指を引っ込め、添えてあった箸を握る。
ひと口含むとぱっと溶けて、かかった蜜の甘さが残った。
「あぁ……こんなところでかき氷にありつけるとは思わなんだ……」
男は涙を浮かべてしゃくしゃくと頬張る。
頭の痛みに悶えながらも箸を進める。
器の半分ほどまで食べ終えたところで正気に戻り、着物を整えて女に頭を下げた。
「私は有原近衛門と申す。長い間歩き続け、疲れ果てていた。貴重な氷をわけていただき感謝する」
男は熱をもった懐から銭袋を出そうとした。しかし、その手は着物の布地を掴むだけ。
そこで男は、はたと気付いた。
自分はいつから歩いていたのだろう。
何処を目指して歩いていたのだろう。
全て霞みがかってはっきりとしない。
女はただただ微笑んでいる。
冷たいものが背筋を伝う。
身体中を探してやっと見つけたのは
紙に包まれた六文銭だった。
かき氷の端は溶け始め、
青い空に還っていった。
◎夜が明けた。
#70
ひとには役割がある。
賢者、愚者、英雄、悪人、善人、簒奪者、天才、凡人、奇才、支配者、従僕etc
世界が役割を与え、それに従って生きる。
役割を全うすればそれを受け継ぐものが
現れ、同じ道を辿る。
そんな概念を絶対的なルールとする
この世では居場所を追われる役割もある。
彼らは世界に抗うだろう。
友と同じ朝を迎えるために。
信念を貫き通すために。
自分と同じ役割に生まれたものに
道を示すために。
もしも彼らの祈りが実を結んだならば、
それは新たな世界の誕生となり、
古い世界の機構の追放といえるだろう。
さあ、今日も夜が明けた。
役割を押し付けるための革命の炎は
今も”追われるべきもの”の心に
燻っている。
◎星明かり
#69
月が慌てて、走って行ってしまった。
こんな時には私たちの出番。
月のようには輝けないけれど、
人々に方角を教えることはできましょう。
生き物たちの導となって、
人間たちに時を教えて、
夜の世界を回しましょう。
”────”
……大丈夫、月には黙っておきましょう。
数多の罪とあなたの涙。
秘密も悔いも哀しみも全て。
私たちは太陽系に属さぬ中立の傍観者。
善悪、生死、真実と理想。
陰も陽も見届けましょう。
◎影絵
#68
闇溜まりと闇溜まりを繋いで重ねて
依代をかたどる。
高く掲げて地に落とせば、
影の中から、貴方によく似た"魔"が
姿を現すだろう。
硯から汲み取り、
和紙に零した墨のように現世を侵し
果ては貴方へ牙を剥く者を受け入れて
進みなさい。
誰よりも真を理解する従者は
愛をもって貴方の時を止めるのだから。
◎遠くの声
#67
民衆が喝采する。
旅人がその熱気に呑まれる。
勇者は音と熱の渦中に静かに佇んでいる。
全てが瞬きの間に移り変わるだろう。
喝采は怒声にすり変わる。
善政は圧政になり、熱気は冷める。
勇者を振り向く者はいない。
行く末はわかっている。
平和は続かず、再び魔は蘇る。
次も、次も、その次も──────
勇者は立ち上がり、消費され、
忘れ去られる。
いつしか民も王も無くなる。
残るのはそこにあった記憶だけ。
廻って廻って 夢の跡。
勇者と呼ばれた者は、皆、悟るのだ。
全ては無に還るのだと。
故に喜びの宴も儚く、
人々の声も遠くに感じて、
ただ無情に眺め、次第にまぶたを閉じる。
勇者の継承者を憐れみながら
その意識は微睡みに沈んでいく。