こちらで出題されるお題は、どうも一年サイクルで繰り返されているように思う。たまたま、昨年の8月28日も私はこのアプリを利用していた。そして数える程の作品しか書いていなかったので、過去の投稿を遡ることは簡単であった。
一年前に書いた「突然の君の訪問」を読む。
頭の中に、爽やかな記憶の風が吹き抜けた。
私の目は文字を追っているに過ぎない。けれど五感は活発に働きだしている。
あの頃暮らしていた部屋の情景がよみがえる。八畳間を占領する洒落たベッドと40インチのテレビ。正直言って、どちらも買ったことを後悔していた。夏の暑さは依然として厳しいが、窓付きエアコンに助けられている。
私はいまいち効果を実感できないでいる冷感シーツを敷いたマットレスに腹ばいで寝転んでいた。スマホからは下品な歌詞の洋楽が流れ、顎を小さく上下させて、ずれては修正しを繰返しながらリズムに乗っている。
空腹になるとギチギチに詰まった冷蔵庫から添加物まみれの惣菜を引っ張り出して、パックのままレンジでチン。餃子だ。無いに等しい肉汁にはハナから期待せず、ポン酢をびったりと付けてパサついた肉を舌に置く。おいしい。それをスーパーで一番安く売っているペットボトルの緑茶で流し込むまでがワンセット。
満足するとまたベッドに転がり込んで、どんな内容を書こうかスマホに向き合う。
取り留めもない事が、画面に羅列された字を目にしただけで鮮明に思い起こされるのだ。感動さえ覚える。
文字だけでは無い。
匂いもそう、味もそう、風景もそう、音楽もそう。
記憶は思いもよらないものを頼りにして、驚くようなタイミングで私に会いに来てくれる。
それはいつでも颯爽と鮮やかに、優しく寄り添ってくれる。
▼突然の君の訪問
「勘弁してくれよ……」
傘を持っていない時の雨の鬱陶しさといったらない。それが豪雨で、しかも移動手段が徒歩しかないとなればなおさらだった。
駅を出て、菜緒の待つアパートまで歩いて十五分と言ったところ。一時の避難場所として他人の住居の車庫に駆け込んだ僕は途方に暮れていた。
頭を悩ませているのは菜緒の存在だった。付き合いたての頃はおっとりしていて、二人の最善を考えて行動してくれる女の子だったのに。同棲を始めて結婚を意識するにつれ、彼女の嫉妬深さとヒステリックな部分が徐々に顔を出すようになった。
(早く帰らないと)
昔の彼女に戻ってくれることを期待しながら、実はこれが本性ではないかと気づきつつ目を背けて機嫌をとる日々。僕は疲弊していた。
(菜緒にうるさく言われる)
尻ポケットに入った携帯は既にひっきりなしに震えており、彼女の精神が危うい方に傾きだしていることを告げていた。
(……もううんざりなんだよ!)
もちろん本人には言えない。一を言えば百が返ってくるからだ。
「雨宿りですか?」
その落ち着いた声は、乾いた大地に染み込む水のように僕の耳を抜けて全身に広がり、馴染み、吸収されていった。こんな感覚は初めてだった。
「あっ、すみません、貴女はこの家の方……?」
僕は驚きながらも、隣に立つ女性をまじまじと見つめてしまう。自分よりも年上に見えた。派手さとは無縁そうな、淑女と言うのが似合う品のある顔立ち。胸のあたりまで伸ばされた真っ直ぐな髪が、濡れて艶々している。
「いいえ、通りすがりです。要は私に話しかけられてビクビクしている貴方と一緒、なのかしら」
そう言って歯を見せて笑う大人の女性は、子供のような無邪気さに溢れていた。僕はどきまぎして返事が出来なかった。彼女の白いシャツが透けて、すみれ色の下着の輪郭が浮かび上がっていたのがいけなかったのかもしれない。
「通り雨だといいんだけど」
僕の様子に構うこと無く、彼女は呟いた。
そうだ、その通り。こんな雨はさっさと止んでもらわなければ困る。
早く帰って、ただいまと言って、わめく菜緒に遅い帰宅の弁明をして、着替えたらすぐに夕飯を食べて、奈緒の愚痴っぽい話を聞いてあげて──。
僕はポケットに手を突っ込み携帯の電源を切った。微弱な振動を受け続けた尻が痺れている。菜緒との連絡手段は失われた。何故こんなことをしたのか。つまり。そうだ。僕は疲弊している。雨宿りの偶然がそれを決定的なものにした。
「あの、雨、止むまで、ここにいますか?」
「え? うん、そうね、そうするしかなさそう。貴方は?」
ざあっと雨音が強まった。叩かれた地面が水煙をあげている。
「僕も、止むまでここにいます」
「そう」
穏やかに微笑む彼女の身体から、滴るような甘い香りが漂った。やはり鼻を抜けて全身に広がり、馴染み、吸収されていく。
あるいはそれは、今の僕にしか分からない匂いなのかもしれない。
▼雨に佇む
──『私の日記帳』。
あまりにも分かりやすい題名が記載された帳面を見つけたのは、母の葬式が終わって、遺品整理に取り掛かった数日後のことだった。(ただし題はあらかじめ印字されたもので、母がそう記したのではない)
私は気恥ずかしさや罪悪感や好奇心と言ったものをさして感じることなく、無遠慮にその表紙をめくった。
(まあ、こんなことだと思った)
綴られていたのは、母が再婚した夫以外に愛していた男との恋愛記録であった。「こんなに好きになった人はいない」「私も彼も、どうしてもっと早く出会えなかったんだろう」「あの人の家庭のことを考えると胸が引き裂かれる」。そんな小娘じみた事ばかりが書かれていたが、私に嫌悪の類いの感情は一切沸き起こらなかった。むしろ生前の母の私への関心の無さを思い返せば、当然と言える内容だった。
「何か気になる物でもあったかい?」
振り向くと、母の再婚相手、つまり私の継父が立っていた。どっこいしょと言いながら私の後ろへ座り込む。
「ううん、みんな捨てちゃっていいと思う」
私は手にしていた帳面を放り投げるようにして、継父、永四郎に向き直った。
彼は四十五という歳を知ってもなお、それよりずっと若く見える外見をしていた。けれど私と二十も違うから、醸す雰囲気はやはり経験を重ねた男性の堂々たる貫禄がある。
「本当にいいのか?」継父は畳に転がっている母の衣類を興味無さそうにいじくりながら言った。
「いいの」私は母が亡くなった事にかこつけて甘えた声をだす。「いいのよ、母の物は、もうこの家にはいらない」
「……そうか、わかった」継父は遊ばせていた指の動きを止めた。
ああ、お母さん、やっぱり私たちって母娘なんだわ。
人のモノが欲しくて堪らなくなってしまう、この悪癖。
背中に回された男の腕の熱が、衣服を越して肌を焼く。
「永四郎さん、好き」
私はかつての継父であり愛人であり、今は恋人となったひとの名前を心の底から愛おしげに呼んだ。
「僕もだよ」
それは同時に、彼が私のモノになってしまったことを現す。
私もいつか、母のように日記をつける日がくるのだろうか。
▼私の日記帳
柳の木が生い茂る、一見して幽霊屋敷のような佇まいをした木造の料理屋が、昨年からの私の気に入りだった。
「お待ちしておりました」
禿げ上がった頭のてっぺんをこちらに向けて、店の主人がうやうやしく出迎える。建物と同様に彼もそうとう年季が入っているが、その外見はみすぼらしさや汚ならしさとは対極にあった。
「で、どうだい?」
奥座敷に通されたと同時に注がれた日本酒を舐めながら私は訊ねる。
「今の時季はフグでございます、産卵期前ですから、味も濃く歯応えがあります。あとで刺身にして持って来させましょう」
それと、と、主人がもったいぶるようにして付け加えた。
「御用命の火薬類、弾薬十万発と火砲五十門、全ての仕度が整っております」
たるんだ瞼に隠された細い目に鋭利な光が宿っている。そこには微かな喜色さえ浮かんでいた。彼の本業がこちらなのは明らかだった。まったく憂うべきことに、近ごろ我が国の内乱は熾烈さを極めている。
「ふ、ふ。毎度ながら貴殿の仕事の早さと扮装には驚かされる。見事を通り越して恐ろしいよ」
私は癖で、将兵の軍功を称賛するような口調で言った。
「中佐殿からの御言葉、身に余る光栄でございます」
「食えない男だ」
「なにせこの世は裏と表を使いこなさなければ到底生きて行けませぬから」
さてお食事にいたしますか、そう言う主人の顔は、すでに品の良い庶民風のものに変わっていた。
▼裏返し
「鳥のように翔んでみたい?」
彼は僕の口ずさんでいた歌の一節を聞き咎めた。
「何かおかしいかい?」
「あれは生きるために“飛んで”るのさ。僕らが勉学のために筆を取り、金のためにあくせく働いているのと何ら変わりない。それを自由を謳歌しているかのように捉えるなんてどうかしているよ」
「君には──」僕は肩をすくめて言った。「情緒ってものがないのかい」
「人びとがなりたいと思っている鳥だって、そんなもの感じないだろう」彼は嘲るように言う。
僕はまた口を開いた。
「人間だからこそ翼のある鳥に憧れるんだろう」
「憧れ?」
「そうだよ。私生活が煩わしくなったとき、空を無責任に舞うことを魅力に感じない人間はいないんじゃないかな」
僕の言葉に「そう、人間だ」と彼はつぶやいた。
「僕らはどこまで行っても人間なんだ。決して鳥にはなれない」
「だからこれは願望で、」
「皆、そんなに地上が嫌いなら、人間らしく機械を使って重力への反発に挑戦すべきなんだよ」
彼の態度は頑なだった。僕はあきれたように笑う。
「君の現実主義には負けるね。しかし僕は議論ではなくて、ささやかな雑談を楽しみたかっただけなんだ」
彼は呆気にとられたような顔をした。
「すまない」
しおらしい声でぽつりと謝罪するなり、表情がみるみる陰っていく。「病は、豊潤な想像力をも蝕むらしい」
僕は枯枝のような彼の腕と、食物を直接胃に運ぶための細いチューブを見た。これが彼を生かす生命線なのだ。
人間らしさとは、今となっては彼がもっとも渇望するものだった。
「いや、いいんだ」僕はそれ以上の言葉が出なかった。
彼は病室のベッドに背中を預けたまま、窓の向こうを見つめている。一羽の鳥が羽ばたき、天高く翔びあがったところだった。
▼鳥のように