彩士

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6/3/2025, 11:21:22 AM

ぽたぽたと頬を伝って紙に落ちていくものはなんだろう。じんわりと広がって、インクが滲む。

「あれ?」

なんでだろう。止まることなく紙に染み込んでいく。少しひんやりとした乾燥した右手を目尻に触れる。ああ、泣いてるんだ。もう何十年もご無沙汰だった。こんな感じだったか。

手紙なんて書くもんじゃないな。自分に正直になってしまう。自覚してなかった感情までもが赤裸々になっていく。明らかになった自分の気持ちに納得すると同時に、知らなければ良かった、と思ってしまう。

ああ、結婚おめでとうって書かないと。新しい紙に書き直さないと。

本当はずっと好きだったって、あの時の約束を私だけはずっと覚えてたって、迎えにきてくれるのを待ってたって、そんなことここに書いちゃいけない。

ただ、招待してくれてありがとう。結婚おめでとうって。

昔からそうだった。
私の話なんてちっとも聞いてない。話をして満足して、数日後に同じ話をしてくる。もう聞いたよって言ってもそうだっけ、って。なのに、頼るときは必ず私だけに聞いてきて、他の人の前で私たちはちょっと特別な関係だって匂わせて。他の人には伝わらない話を振ってきて。

幼稚園の時の約束は無効なんて言わないでほしい。大学まで私たちずっと一緒だったのに。合格発表の瞬間も一緒に過ごしたのに。

きっと一瞬たりとも、あの人の特別にはなれても一番ではなかったんだ。

ああ悔しい。誰かの一番になりたい。

5/13/2025, 11:38:57 AM

夕焼けに照らされた海はほんの少しだけひんやりとしている。足首まで浸かったままバシャバシャと歩いてみた。水の中でジャリジャリと鳴る砂の音が心地よい。
膝まで捲し上げた淡い緑色のズボンのすれすれまで進む。つい先程まで見えていた自分の足の指が見えなくなった。濁りきっている。

「水は記憶を保持する」とどこかで聞いたことがあるけれど、本当にそうなのかな。今、わたしがたった一人で海にいることも覚えていてくれるのかな。そうだったらいいな。

「あ、今日満月か」

満月だからといって別に大したことはしないし、何も思いもしないけれど突然思い浮かんだ。月を目の前いっぱいにみてみたいな。宇宙服とかロケットとかそういったものに何も捉われないで、ただこの単身だけで宇宙旅行に行ってみたい。
空気もない、水もない空間から帰ってきて、この地面と海と太陽の下での日向ぼっこを満喫したい。
できっこないけど。

空の藍色と海の深い青色が同じになって
満月の光の道が海上に見えた頃に家に帰ろう。

それまではここでわたしの昔話でも聞いてくれないかな。ちょっと今寂しいの。

4/13/2025, 11:34:15 AM

ぷつん、と音もなく舞い落ちる花びらを今年は何度見ただろう。満開に花ひらいて、多くの人に見られる場所に生えているものとは異なり、僕の前に佇む小さな木は、きっと通りすがりに一目。その一瞬、注目を浴びただけであっという間に忘れ去られてしまうだろう。

新学期。
新しい学年、学校、仕事場。
つんざくような冬の寒さとは一変、後味残る冷えとともにふわふわとした暖かさが身体を覆う。

挿し木されて数年のこれは、僕が生きている間にどれほど大きくなるんだろう。悩み、誰かとの幸せを見つけて、一人でもいい、ずっとじゃなくていい、笑えるその時が来るだろうか。それを僕の横でずっと見守ってくれるのだろうか。

ヘルメットを被ったまだ不恰好な制服をした中学生が、自転車で横を走り去った。

風が立つ。

目の前のひとひら

ぷつん

3/11/2025, 10:57:48 AM

見上げた闇には、時空も時軸もない。
どれだけ手を伸ばそうと、握った掌には何も残らない。
分かっているけれど、何度も繰り返してしまっていた。
「はは、、、俺は何をしているんでしょうか」
分かりきった結果を受け入れられずに足掻いている自分を嗤った。

仲間はみんな闇の中に葬られた。
残されたのは自分一人だけ。
「誰か、残ってないんですか」
寂しいです、という微かな呟きもまた、闇の中に吸い込まれていった。

「今まで何億年も生きてきましたけど、こんなに辛いことなかった気がします」

脳裏にははっきりと思い出せる仲間の笑顔。
それが一番星だったのにな。

2/12/2025, 1:47:47 PM

「ワタシは過去の記憶を持っていまセン」
「でも、未来のことなら分かるヨ」

「君もそうでショ?」



つまらないテレビ番組を大音量で流しながら、煙草をふかしていた。
つまみには柿ピーとピクルス。
カシュ。
ビール缶を開けては、冷えたもう一本を取りに冷蔵庫へ行く。
カーテンの隙間から見える景色は真っ暗で、電柱の灯りに虫がたかっている。
よく分からないところで爆笑しているタレントを、何の感慨もなく見つめる。
こいつは何がおもしろくて芸能界に入ったんだろうか。
ブチっ。
見るのをやめてしまった。
明日も仕事だ。
つまんねぇ、やりがいのねぇ仕事。
なんで俺はこんな人生送ってんだ。


寝てたらなんやら物音がした。眠い目を擦りながら、ベットサイドに立てかけてあったゴルフのクラブを握って、その方向へ向かう。
だんだんと目が覚めてくると、ゴソゴソとしている変な奴がいた。
電気をつけて見ると、ピエロがいた。
そう、ピエロ。あの、ピエロ。
突然ついた光に驚いて、俺の方を見ていた。
気持ち悪い。
「だれだよ」
そいつは何か音を発した。
だがよく分からない言葉だ。
そしてよく分からない言葉を何度か繰り返して、やっと答えを見つけたかのように言った。
「これ、聞こえてるネ?」
気持ち悪い。
「ワタシあなたと同志ダヨー」
「ワタシは過去の記憶を持っていまセン」
「でも、未来のことなら分かるヨ」
「君もそうでショ?」


俺は数ヶ月前に起こした事故で記憶が飛んだ。
基本的な言葉覚えてるけど、確かに思い出は吹き飛んだ。
体が吹き飛んで修復不可能になるよりかは良かった。


「ワタシは、いろんな時間を旅シテル」
「未来にだけは行けル」
「だから未来のことなら覚えテル」
「未来ってなんだと思ってル?」
「ワタシには分からないネ」
「だからあなたと旅をシテ、分かるようにナルネ」


その家には、
飲みかけのビールが、あと一口だけ残されて、
あとは全部消えてしまった。

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