もしも、水たまりの中に世界があったなら、
僕たちの生活はどのように映っているんだろう。
ぼやけた視界の中で、ネオンの色がギラギラと光っていて、明確な色の区分けなんてないのだろうか。信号の鳥の鳴く音がブクブクと聞こえるのだろうか。
眼鏡をかけた時みたいに、はっきりくっきり全てのものが綺麗で美しく見えるようになるのだろうか。小さな女の子が可愛らしい長靴で踏み込んできたときは、靴裏の溝が隅々まで見えているのだろうか。
雨が降っているときの水たまりは、構成要素となる水が上から降りてくる。もし彼らに感情があるのなら、「こっちだよ!待ってたよ!」なんて言っているのだろうか。そんなことがあるのなら、雨になってみてもいいな。蒸発しながら世界を見渡して、そしてまた降りてくる。きっと面白い。
空が晴れ渡り、道端に残った水たまりは、僕たちの住む世界が普段見ているものよりも一見美しく映し出しているように思う。雲ひとつない空と太陽の光を反射しているこの小さな鏡。
しゃがんで少しの間じっと眺めてみよう。
疲れ切って、余裕がない僕たちが見落としていた豆粒みたいなこの世界の素晴らしさに気づけるかもしれない。
ぽたぽたと頬を伝って紙に落ちていくものはなんだろう。じんわりと広がって、インクが滲む。
「あれ?」
なんでだろう。止まることなく紙に染み込んでいく。少しひんやりとした乾燥した右手を目尻に触れる。ああ、泣いてるんだ。もう何十年もご無沙汰だった。こんな感じだったか。
手紙なんて書くもんじゃないな。自分に正直になってしまう。自覚してなかった感情までもが赤裸々になっていく。明らかになった自分の気持ちに納得すると同時に、知らなければ良かった、と思ってしまう。
ああ、結婚おめでとうって書かないと。新しい紙に書き直さないと。
本当はずっと好きだったって、あの時の約束を私だけはずっと覚えてたって、迎えにきてくれるのを待ってたって、そんなことここに書いちゃいけない。
ただ、招待してくれてありがとう。結婚おめでとうって。
昔からそうだった。
私の話なんてちっとも聞いてない。話をして満足して、数日後に同じ話をしてくる。もう聞いたよって言ってもそうだっけ、って。なのに、頼るときは必ず私だけに聞いてきて、他の人の前で私たちはちょっと特別な関係だって匂わせて。他の人には伝わらない話を振ってきて。
幼稚園の時の約束は無効なんて言わないでほしい。大学まで私たちずっと一緒だったのに。合格発表の瞬間も一緒に過ごしたのに。
きっと一瞬たりとも、あの人の特別にはなれても一番ではなかったんだ。
ああ悔しい。誰かの一番になりたい。
夕焼けに照らされた海はほんの少しだけひんやりとしている。足首まで浸かったままバシャバシャと歩いてみた。水の中でジャリジャリと鳴る砂の音が心地よい。
膝まで捲し上げた淡い緑色のズボンのすれすれまで進む。つい先程まで見えていた自分の足の指が見えなくなった。濁りきっている。
「水は記憶を保持する」とどこかで聞いたことがあるけれど、本当にそうなのかな。今、わたしがたった一人で海にいることも覚えていてくれるのかな。そうだったらいいな。
「あ、今日満月か」
満月だからといって別に大したことはしないし、何も思いもしないけれど突然思い浮かんだ。月を目の前いっぱいにみてみたいな。宇宙服とかロケットとかそういったものに何も捉われないで、ただこの単身だけで宇宙旅行に行ってみたい。
空気もない、水もない空間から帰ってきて、この地面と海と太陽の下での日向ぼっこを満喫したい。
できっこないけど。
空の藍色と海の深い青色が同じになって
満月の光の道が海上に見えた頃に家に帰ろう。
それまではここでわたしの昔話でも聞いてくれないかな。ちょっと今寂しいの。
ぷつん、と音もなく舞い落ちる花びらを今年は何度見ただろう。満開に花ひらいて、多くの人に見られる場所に生えているものとは異なり、僕の前に佇む小さな木は、きっと通りすがりに一目。その一瞬、注目を浴びただけであっという間に忘れ去られてしまうだろう。
新学期。
新しい学年、学校、仕事場。
つんざくような冬の寒さとは一変、後味残る冷えとともにふわふわとした暖かさが身体を覆う。
挿し木されて数年のこれは、僕が生きている間にどれほど大きくなるんだろう。悩み、誰かとの幸せを見つけて、一人でもいい、ずっとじゃなくていい、笑えるその時が来るだろうか。それを僕の横でずっと見守ってくれるのだろうか。
ヘルメットを被ったまだ不恰好な制服をした中学生が、自転車で横を走り去った。
風が立つ。
目の前のひとひら
ぷつん
見上げた闇には、時空も時軸もない。
どれだけ手を伸ばそうと、握った掌には何も残らない。
分かっているけれど、何度も繰り返してしまっていた。
「はは、、、俺は何をしているんでしょうか」
分かりきった結果を受け入れられずに足掻いている自分を嗤った。
仲間はみんな闇の中に葬られた。
残されたのは自分一人だけ。
「誰か、残ってないんですか」
寂しいです、という微かな呟きもまた、闇の中に吸い込まれていった。
「今まで何億年も生きてきましたけど、こんなに辛いことなかった気がします」
脳裏にははっきりと思い出せる仲間の笑顔。
それが一番星だったのにな。