夜の蛍光灯の光が雨が斜めに降る様子を照らしていた。傘をさす必要がないほどだと思っているけれど、こうやってみるとかなり降っていたのだなあ、と気がついた。
時計の針が十二時を回っても人通りは決して減ることがない。道端でスマホを触って誰かを待っている女性たち、急ぎ足でどこかへ向かっている男性を尻目に、私はちょっと高いヒールを履いて空港への道のりをカツンカツンと音を立てながら歩いている。
実は仕事を辞めた。本当にしたかったことが分からなくなったから。
大学を卒業して何も考えずに流れるように就職して、自分の時間よりも仕事を優先してきた。何も文句はなかった。やりたいことが特になかったから。
部下を持つようになって、管理職になって責任が重くなることが増えた。嫌ではなかった。
女がここまで昇進できるのは、今の世の中では珍しかったかもしれない。男女平等に見てくれていた上司には感謝の心でいっぱいだ。
ところが、なんだか最近迷うようになった。何に迷っているのかさえ、分からないけれど。
私のいいところなのかどうなのか決断は早かった。仕事を辞めて、海外に行くことにした。借りていたマンションを解約して、水道も電力も解約した。心優しいホストファミリーに今後はお世話になるつもりだ。
英語は得意ではないけれど、どうにかなるとおもってる。少し楽観しすぎかもしれない。まあ、後悔する時は後悔すればいいと思う。そんなスタンスが私らしい。
食生活も日本の中での当たり前が当たり前ではなくなるだろう。そんなカルチャーショックさえも、楽しみに変えていくことができれば、上出来だろう。
それじゃ、ちょっとこれからアメリカ行ってくる
私が生きている世界には無数の選択肢がある。
意識的、もしくは無意識のうちにその中の一つを選んで私たちは生活を送っている。
何も考えずに好きなことだけを選んできても、その裏には真反対の世界があるのかもしれない。
それか、もっと自分にとって最高ない出来事が起こる世界があったのかもしれない。
並行世界があるのなら、そこの世界では私はどう過ごしているのかな。
経験することが違いすぎて、私ではなくなっていて、案外全然違う人になっていたりして……。
いま紡いでいるこの人生の物語の主人公は、この世界での私。
ならば、もう一つの世界の物語の主人公は、私であり私でない人。
実際はどうなんだろうね。あなたならどう考える?
「たとえ君が僕のことを嫌いになっても、僕は君を愛しているよ」
と言っていたのは、どこの誰でしょうか。
いまや、あなたは、毎日言っていた愛の言葉を囁くことがなくなり、私との会話も避け、朝帰りをすることが日課になっていますね。しかも、他の女の香水の香りを吸い込んだ衣服で帰ってきますね。
その衣服を洗っているのは、私です。
どの年代の人にどの香りが流行っていて、あなたの好みそうな女の人が、あなたがよく行く場所にいることも知っています。
謝ってくれなくても良いんです。
もう諦めましたから。
私をきっと家政婦くらいに思っているのでしょう。
都合のいい、何も文句を言わない人だと認識しているのでしょう。
私は不思議に思います。あなたがどんな気持ちで私と結婚したのか。あなたは、私を愛し続けることができませんでした。私はあなたを嫌いになっていないのに。愛しているのに。時々、虚しくなります。大丈夫だと、言い聞かせているけれど、あなたを愛し続けてしまう私は愚かだと分かっているけれど、辛いです。
私の目をきちんと見てくれたのはいつでしょう。
見なりをほめて頂いたのはいつでしょう。
愛していると言ってくれたのはいつだったでしょう。
どうして、と叫び出してしまいたくなります。
生家から、あなたのもとに嫁に入り、この日まで身を尽くしてきました。
ごめんなさい。
あなたは、もう私に会っていないので分からないかもしれませんが、私の体はもう長くありません。気力だけでなんとか家のことをしているつもりです。肉がなくなりだんだんと皮だけになって、頬がこけてきました。
力も入らず、起き上がることも難しくなってきました。
ご飯も用意できないので、もう食べていません。
あなたが帰ってきた時に死体があったならすみません。この家からもっと早く出ていけば、手を煩わせなくて済んだのに。
あなたと過ごした日々を味わっていたくて、あと少し、と思っているうちにいつのまにか、長く居座ってしまいました。
あなたは、この手紙を見て、何を思うでしょうか。
後悔してくださるのでしょうか。罵詈雑言を並べるかもしれませんね。なんせ、私のことがもう好きではないのに、家に住まわせてくれていたのですから。
寝転がりながら、震える手でこの手紙を書いています。
私、あなたがつけて帰ってくる香水が大っ嫌い。
私が好きなのは白檀の香りなの、覚えてる?
ずっと前に言ったこと。
ねえ、きっとあなたが帰ってくる頃には死んでるわ。
ちゃんと葬って、毎日線香をあげて私の好きな匂いのあなたになってよ。
わたしはあなたのことを、一生愛したわ。
あなたの誓いの言葉とは違ってね。
「愛しているとか、尊敬しているとか、嫌いとかそんな言葉はいらないの。表面上の言葉なんて誰でもいえるから。私、言葉を信じてないの。ただ、行動で示してくれない?それが一番手っ取り早いでしょ」
あなたの心を行動で表して。よろしく。と言って去っていった、彼女はいままでで一番、俺に影響を与えた人かもしれない。
今まで付き合ってきた彼女たちは、言葉で何度も好意を確認してきた。だから、声かけを怠らなかったのに、彼女は必要としていなかったみたいだ。
家の都合といえば、良いかもれしないけれど、俺と彼女との間には恋愛感情はない。家の繋がりを得るために互いの利益を追求するために、結婚したのだった。仕事をバリバリやってきた彼女は、物事をきっちりとこなして、真っ直ぐな感情を俺に向けてきた。
でも、何を考えているのかは、よく分からないけど。ひとつだけ言えるのは、彼女は俺を愛していないってことだけ。でも、義務感とかでは絶対になく、俺は彼女を大切に思っているし、きっと彼女も俺を大切なパートナーくらいには思っているだろう。
ちなみに男女の営みなんて、やっていない。最初の方こそやるのかなー、と思っていたけれど、結婚初日から彼女は規則正しい生活で、寝室に俺がいった頃には熟睡しているから、ここ二年間やっていない。
客の対応もとても丁寧で、こなれている。女主人としての役割も十分果たしている。俺が望むことは、他にはない。
俺は、商人気質なところがあって、金のニオイがすると、すぐに飛びついては、良い商談をしてくる。失敗はない。そのおかげで、かつては、貧困を極めていた俺の家は名を世に轟かせるようになっていた。
俺の中の一番は、金だ。金があって困ることはない。金があって初めてこの世界は回っていくのだから。そしてもう半年ほど、家を空けて、家の切り盛りは彼女に任せて、遠いところを飛び回っていた。
いつくかを拠点にして動いていた俺の元には、毎日何かしらの連絡が入ってくる。忙しくて、でも忙しいのが好きな俺は、彼女のことなんて忘れて仕事に耽っていた。
ある時、こんな電報がきた。
「あなたの大事なものをいただきに参ります。時間は十日後の十二時に」
気にすることもない、ただの連絡だと思った。自分を好まない人が勝手にやっているだけだと。無視していたのだが、数時間ごとにその連絡が入ってくる。一体誰が出しているのか分からない。しょうもないと分かっていたが、念のため、俺は今まで稼いできた金が盗まれないように、信頼できる警備員を用意して、その時を待った。
結果は、特に何もなかった。
「そうかそうか、こちらの構えにびびって計画を中止したんだ」と手を叩いて笑った。
そして今日、約八か月ぶりに家に帰ってきた。
ただ、いつも出迎えてくれる彼女がいない。家の中ががらんとしていて、埃の溜まった家具たちだけが、物寂しく目に映った。
え、彼女はどこにいるんだ。
家のなかを探しても、どこにもいない。連絡を取る手段もない。彼女との再会を期待するのは望み薄だった。
彼女がおかえり、と言ってくれるのを心のどこかで待っていたんだと、気がついた。いつもは、ああ、とかで終わらしていた気がする。
彼女がいなくなって、改めて彼女の存在が必要だったかを知った。何をするにも彼女を探してしまっている自分がいる。
彼女の部屋に勝手に入ってみると、置かれているものがほとんどなかった。帰ってくる気がさらさらないのだと思い知らされた。元からあった楠木でできた机の上には、綺麗におりたたまれた彼女らしい几帳面な字で書かれた手紙があった。
「お帰りなさい。突然ですが、私は盗人さんに盗まれてしまおうかと思います。もともと昔馴染みなので、何も問題はありません。離縁届けは書いて提出しました。あなたの字を真似て。勝手にするのはいけませんよね。でも、これが良いと思ったのです。あなたがいつ帰ってくるかも分からないし、近況報告もなく、私を気遣った行動がないので、きっとあなたは私のことが嫌いなのだろうと判断いたしました。愛し愛される関係を望んだのではありません。しかし、尊敬し思い合える関係にはなりたかったです。仕事柄仕方がないことですが、あなたはほぼいらっしゃらないし、なんでしょうね、上っ面でなければ会話もしたかったのです。最初のあなたの愛しているので言葉は、感情がこもっていませんでしたから、それがなければ、したかったのです。きっと私の努力も足りなかったのでしょう。
他人が羨ましくて仕方がなくなりました。一応、盗人さんに連絡をあなたに入れてもらったと思います。内容は全て任せてしまいましたが。あなたと別れると決めた十日後の十二時までは、ダメとその人に言われたので待っていましたが、どうやら時が来たようです。
さよなら。お世話になりました。 」
良い関係を築けていると思っていたのは、俺だけか。
大事なものって、お前のことだったか。確かに大事だ。
今なら、本当にわかる。無くしてから後悔するなんて、馬鹿だな俺。ごめん。ごめん。何度言っても蔑ろにしてしまっていた事実は覆らない。
ごめんな。本当に。
きっと君は俺の元に戻ってくる気持ちはもっぱらないだろう。
ならば、また彼女に許してもらえなくとも、彼女が幸せになれることをひっそりと願っていたい。
拍手の音は雨が傘に当たる音と似ている。
ピアノの発表会で、緊張でなる胸のドキドキを抑えて、過去で一番良いと思える演奏ができた。五分半の小学生にしては長いような短いような曲を弾き、満足していたことを何気なく思い出す。
あれが最後の発表会だった。
その頃までだ。自分に自信が持てたのは。
いつからか、自分を受け入れてくれる先を探すようになった。なんの条件もなく、いいよって言ってくれる人を。得意だった友達づくりも楽しかったクラスまとめも俺なんかが言ったところで、他の中心にいる子が言った方が影響力がある。と言い訳をして、自ら動くことがなくなった。
小学校から同じやつらには、「お前、変わったな」と何度も言われた。
その度に「そうか?」と言って、自身を持つことのできない自分を認めたくなくて、はぐらかした。
自分に自信がないと、選択をするのに優柔不断になる。
チャンスが一回しかないと悲観するから。
これを逃したら、周りの人はみんな俺から離れていく。ベストな行動をしないと、周りが期待していることを言わないと。
阿呆なことを言いながら、心の裏でずっとそんなことを考えている。
人からの言葉をそのままにして受け取れない。
謝罪の言葉も、自分は悪くないと分かっているのに、反射的に「こちらこそごめん」と言ってしまう。そうして、気まずい空気が生まれてしまう。
自分を卑下して良いことがないのは、分かっている。
でも、やめられないのはなぜだろう。
どっかの本で、「人は大人になると勇気をなくす」という言葉を知った。
本当にその通りだと思う。
もう失ってしまった人は、一体どうすればいいんだろう。
信号待ちをしながら、雨が傘に当たる音を聞きながら今日も、そんなことを考えている。