「私がもし、カエルでも愛してくれる?」
底に溜まったジュースと溶けかけの氷をくるくるとストローでかき混ぜながら、僕の彼女は言った。
「無理だね」
なんの躊躇もなしに言う。
カエルは僕が一番大嫌いな生き物。
それが大好きな彼女の本当の姿なら、悲しいが別れを決意する。だって、彼女は本来の姿を愛してほしいと当然思うだろう。でも、僕はできない。どうしても。
それに、カエルになってしまったら、彼女は彼女でなくなると思うのだ。
僕の愛するのは彼女は、人間で、かつ愛らしくて、気遣いができて、会話をすることができる、というのが大前提。もちろん他に好きなところはたくさんある。
どんな私でも愛してくれる、って言って欲しかったと、これで言ってくるなら、僕は彼女に言いたい。
嘘をついてまで君をそばに置いておきたく無いんだ、と。
「まあ、そりゃそーだよね。私もあなたが大嫌いな蛇だったら、愛せないもん」
へらぁと彼女は笑った。
僕の彼女は、よくこんな、「もしも」の話をしてくる。その都度僕は真剣に考えているのだが、彼女の知ったことでは無いのだろう。
どんな姿でも愛する、と誓える人がいるなら大した執着だどんな僕は思う。
むしろ、それを言われた方はどんな気持ちになるのか。
歳をとっていくことを考えれば、皺が増え、皮がたるみ、目が窪んでいく姿さえ愛してくれると言うのなら、安心ではあるかも知れない、とは思った。
目を覚ますと、彼女が隣にいない。
彼女の温もりはベッドに残っていない。随分と早く起きたんだな。
目をこすりながらリビングへ行く。
だが、「おはよう」の言葉に返事をくれる彼女はいなかった。
おかしい。
彼女には今日は何も予定がなかったはず。
玄関の靴をみても彼女がいつも履く靴はある。
じゃあ、どこへ行ったんだ?
隠れているのかと少ない部屋を探し回る。いないいないいない。
ふと、昨日の会話を思い出す。
なんだったか、彼女がカエルだったら、といった話だった。
音を立てながらベッドへ向かう。
うすい掛け布団をめくると、いた。カエル。
これは僕の彼女なのか……?
人間に化けるカエルなんて聞いたことがない。
まず、僕はこのカエルと寝ていたということに気持ち悪さを覚える。人間の彼女ならいいがカエルの彼女はやだ。
お願いだから、人間に戻ってくれ。
お願い。これじゃあ君を愛してやれない。
ごめん。本当の姿を好きになれなくて。
ごめん。昨日は無理って即答して。
「お願いします」
ベッドの上で土下座をして、泣きながらカエルの彼女に請う。大好きなのに嫌いという矛盾が辛い。どうしたら戻ってくれるんだ。どうしたら、なにをしたら。
「何してるの?」
彼女の声がした。カエル姿でも話せるのか。
「土下座です。ごめん、カエル姿の君を愛せないんだ。だから人間に戻ってくれ。お願い」
これ以上ないほど頭を擦り付ける。
「いや、私カエルになってないし。後ろ後ろ、見てよ」
「へ?」
言われるがまま振り返る。
「すごっ、めっちゃ勢いよく振り返ったね。ほら、私人間。なに?昨日の本気にした?」
ニヤニヤ聞いてくるがそんなもの気にしない。
「うっっうぅ、ぐすぐす」
「え、なんで泣いてんの?どした?え?おっと?」
我慢ができずに彼女を抱きしめる。
戸惑っていたけれど、背中をトントンしてくれてなんとか僕は落ち着くことができた。
「で、どうしたの?」
「目が覚めたら、靴はあるのに君がいなくて。そしたら、ベッドにこいつがいるから、君なのかと思ったんだ」
カエルを指差すと、彼女は無言で捕まえて外に逃した。
「カエルがいたら、外に逃してほしい。流石にベッドの上は汚い。このベッド洗うから」
君だと思ったから、出さなかったのに。
僕が悪いのは重々承知しているので、素直に頷くけど。
好きだなぁ、彼女のこと。
「ねぇ、結婚しよ……ごめん、やっぱ今のなし」
「え、うん。私も聞かなかったことにするね。もっとそういう雰囲気の時に言って欲しいな」
「うん。そうする」
そして、彼女を抱き抱えて彼女の匂いを嗅ぎながら、
彼女の尊さを今日も実感するのだった。
ピピピピピピ
ガタン、バサハザハザ、ゴン
「うっ、いったぁ」
床にたたきつけた頭を撫でまわしながら、身体を起こす。はぁ、今日も朝が来てしまった。
仕事だー。準備しますか。
洗濯の山から今日来ていく服を引っ張り出して、自然と着いてしまった服の皺を手で伸ばす。意味のないことだと分かっていても、人様の前に出るので気にしなければならない。
ボサボサの髪をブラシで大雑把にといて、今日はポニーテールにしてみる。コンセント差しっぱなしのヘアアイロンで軽く巻く。
いつもと同じメイクをしっかりして、鏡で確認したらよし!完璧!
酒類とほんの少しの食材しか入っていない冷蔵庫から、賞味期限が少しで切れる納豆とハムを取り出して、口に突っ込む。
時計を確認したら、やばい、もう出なきゃ!
玄関先に置いている仕事鞄をパッと取って、仕事先へ急ぐ。
「おはようございます」
「お!カナちゃんおはよ」上司が言った。
「今日締め切りのやつ順調かな?よろしくね」
「はい。なんとかできそうです。頑張ります」
私の上司は歳が近くて、優しい人なのでとても仕事がしやすい。同じ女性というのもあって、困ったことも相談しやすい。
今日は絶対に残業できない理由があったから、頑張って終わらすことができた。
何があったかというと、私の幼なじみが来る日なのだ。
昔から家族間で仲の良かった幼なじみは、一人暮らしをするようになった今でも交流が続いている。
「ただいまぁ」ドアをガチャリと開ける。
「おかえり〜!」
うわあ、私の家にもう入り込んでいた。
「鍵、持ってたっけ?」恐る恐る聞いてみた。
「いや、おばさんが使っていいよって言ってくれたの」
おかあさん、何してんだ。
それにしても、私の家が私の家じゃなくなっている。
溜まりに溜まった洗濯の山も、洗いそびれたお皿も、長い間掃除をしないために溜まった埃も全部がなくなっていた。
「また掃除してくれたの?ありがと」
「だってぇ、汚いじゃん?勝手に家に入るんだし、これぐらいはしとこうかなってね」
パチン、とウインクをしてきた。よくそんな余裕があるもんだ。
「ていうか、つい二か月前にも掃除したのになんでこんなことになるの?気をつけないと、カナが埋もれちゃうよー?」
はい、すみません。どうも片付けが苦手なようで……。
「気をつけます、いつもありがとうございます」
「はい、頑張って!話変わるけど、今夜のおつまみを作ってみました!さあさあ、酒の肴にして、飲みましょうや」
「いぇーい!飲も飲も!私はなんとワインを買ってきましたー!二人で一本飲もうぜい」
やったやったと二人で騒ぎながら、日々の疲れを発散する。これが私の当たり前の生活。
「お父さま!帰ってこられたのですね!エミリー、ずっと待ってたよ!お帰りなさい!」
真夜中に玄関の開く音がして思わず、部屋から飛び出した迎えに行ってしまった。
久しぶりに会えたのが嬉しくて、ニコニコしてお父さまの返事を待っていたけれど、それはなかった。
私の横を通り過ぎる一瞬、目の端で私を一瞥して使用人に向かって、「部屋に連れて行け」といって行ってしまった。
ああ、やっぱりお父さまは私のことが嫌いなのね。
今までお父さまは私が話しかけても、返事をしてくださったことがない。私がどれだけ頑張っても褒めてくれたことはない。
銀髪で目のシュッとしたお父さまは、他の貴族のかたと話すときはよく笑っている。でも、私の前で笑ってくれたことは一度もない。
お父さまは私がいらなかったんじゃないかって思ってしまう。私はお父さまが大好きだけど、お父さまは私のことが好きじゃないみたい。
使用人の中で一番仲のよい、ルシーに部屋へ連れて行かれる。
「やっぱり、あなたからの目で見てもお父さまは私を嫌っているわよね?」
「旦那さまは、お嬢様のことは嫌っていないと思います。ただ、態度がちょっとアレなだけで』
「いや、目もまともに合わせてくれないのよ?話すのを諦めようかしら」
「何事も挑戦です。明日の朝食でこの三ヶ月会ったことを話してみるのはどうでしょう」
「そうね、そうするわ。おやすみなさい」
翌朝、いつもより少しだけ早起きをして、いつもより可愛い新しいドレスを着て、朝食の場へ向かう。
「お父さま、お母さま、おはようございます」
「おはよう、エミリー」
「……」
やっぱりね、お父さまは挨拶さえ返してくれない。
娘からの挨拶を返さない人なんて、人じゃないわ。
やっぱり、私はお父さまと話すことは一生無理なのかも。いやいや、取り敢えず言ってみよう。挑戦大事。
「お父さま?この三か月であったことをお伝えしますね」
庭の花が綺麗に咲いて綺麗であること。新しいドレスを買って、今それを着ていること、家庭教師の先生に勉強を褒められたこと。初めて食べた料理が美味しくて、お父さまにも食べてもらいたいこと。
色々話したけれど、反応なし。
よし、これだけ言ったらお父さまと話すことをもうやめよう。
「お父さま?私、公爵家のフェンデル様と仲良くなったの。今度町にお忍びでお出かけすることになったわ。
それじゃ、お先に失礼します」
お母さまとは、話すのになんで私とは話してくれないのかしら?もう、いいけれど。
私には密かな趣味がある。
私の部屋の大きな窓を開け放ち、その先のギリギリ立つことのできるところへ立って、街の夜景を見ること。
小さな手すりに寄りかかって、真っ暗な闇の中に浮かぶ家の灯を眺める。この夜景を見ることで私の心は安らぐ。気持ちよくなって瞼がだんだん重くなってきた。
今夜は、満月なのもあっていつもよりも良く街を照らしている。眠いのも我慢してもっと見たい、と身を乗り出した。
その時、「エミリー!危ない!」
「え?なに?」
気づいたら誰かの腕の中にいた。後ろのベッドに倒れ込んでだれか確認すると、お父さまだった。え?なんで?
「お父さま?なぜ、ここにいらっしゃるのです?」
「なんでって、エミリーが話しかけてくれなかったからだよ。なんでだ?なにか悩みでもあるのか?」
何を言っているんだろう。
「なぜ話しかけられるのが当たり前なのですか?それに話しかけてもお返事をいただいたことが私にはありません。話しかけたくなくなるのも、当たり前でしょう?」
衝撃を受けたような顔をしたお父さま、バカなのかしら。
「……、え、あ、う、その。エミリーが可愛くて見てられないくらい可愛くて、声がうわずってしまいそうで。すまなかった」
今度は私が目を丸くする番だった。
だって、こんなに長く会話したの初めてだし、しかも可愛いって!二回も!二回もよ?!
「お父さま、私、記憶の限り今初めてお話ししました。これがどういうことか分かりますか?私の気持ちを考えてくださったことはないのですか?私は話しても話しても相槌のない会話は、悲しくて寂しかったです。もう、そんなのしたくないのです」
「すまなかった。気をつけることにする。これからも話してくれるだろうか?」
「ん〜、そうですわね。仕方がないので許して差し上げますわよ?」
パァっと明るくなったお父さまの笑顔。
私が本当に見たかったのはこの光だったの。
この日以来、一緒に街の灯りを見るようになった。
忙しい日もここでなら、ゆっくり話せるもの。
「ところで、エミリー。フェンデル君とは、どれだけ仲良くしているんだ?」
「ふふふ、お父さま気になるの?」
あの日、私が飛び降りるつもりだったと勘違いしていたお父さま。その誤解を解けたは良いけど、また別に問題ができちゃった。
私の答えを待って少し不安げにしているけれど、もう少しいじめてあげたくなっちゃった。いいわよね?ちょっとだもの。
「将来を誓い合ってキスまでする仲よ!」
お父さまがどんな反応を示したか、貴方たちなら想像つくわよね?
ボクの知る限りじゃあ、七夕は天候の悪い日でしかない。天の川が本当に架かって、ほうっと息をつくような美しさを見たこのなんか一度もない。どっかの写真集で見るようなあの感じ。あれは、本物の空なのだろうか。ボクが日本にいるからそう感じるだけなのか。一歩外の世界に出てみたら、何か違うのか。
そう思いながら、風の強い、雲行きの怪しい日に歩いていた。
どこから飛んできたのか、ビニール袋が目の前を通り過ぎていく。似たように持ち場を離れた迷いものたちが、吹かれては視界の端に消えて行った。
ちょうど駐輪場の横を通り過ぎようとした時だった。『元カノが幸せになりますように』
と書かれた紙がタイヤの部分に引っかかっているのを見つけた。黄色い短冊にちょっと不格好な文字。
「ほえー、今ドキこんなの書く純情なやつがいるんだな」
気になったから、手に取ってみた。よくよく見てみたら名前がしっかりフルネームで書いてある。
すごい、願いの真剣さが違う……。
当たり前だが、全く知らない人だった。これで知っている人だったら、恋愛漫画みたいな流れだったけど現実はそうもいかない。
そもそもその展開を望んでないけど。
一度拾った物をまた宙に離すのは忍びないので、結局持ち歩くことになった。ついでに短冊を飾る場所探しをすることにした。
そういえば、ボクはまだ願い事を書いてないな。
何にしよう。世界平和とかかな。
まず、書く場所ってあるのかな。中学校卒業以来、あんまり七夕を意識してこなかった。いつの間にか終わってしまって、ああ、そういえばそうだった、で完結する。なぜ七夕は、クリスマスほど盛り上がらないのか。
プレゼント渡しとかが無いからかな〜、と思ったけど実際どうだろ。
本来の目的地、商店街に着いた。
ここに来ると意外にも七夕で盛り上がっていることがわかる。小さな子供たちがわわわっと駆けてくる。
その子たちが元居たところには、たくさんの笹の葉が並んでいた。色とりどりの短冊と網目模様の折り紙、微かな太陽の光を捉えて輝く缶はその場を明るくしている。
あ、ここに飾らせてもらおう。
いろんな願いが密集している中、少しだけ空いている場所を見つけた。きっと背が届かなくてしょうがなく残ってしまったのだろう。
空がたとえ曇っていても、上の方ならきっと願いを天は叶えてくれる。
だから、拾った『元カノが幸せになりますように』という短冊をきゅっと結んだ。
それから、ボクの願い。
『ここに願われた思いが、天まで届きますように』
いい子ぶっていると昔のボクなら思う。
でも、今なら、ボクはこれをボクの願いとしたい。
「すみませーん!ごめん下さーい!」
パタパタパタパタ、スリッパで駆けてくる音がする。
「はぁーい、ちょっとお待ちくださいね」
がらがら、と建て付けの悪い引き戸をひいておばさまが出てきた。私の姿を見て大きな目をぱちくりとする。
「はじめまして。私、前日連絡させていただきました、阿久津と申します」
にっこりと笑って、自己紹介をした。
いかにも日本というような和式造りの家。
ちゃぶ台のある部屋へ通されて緑茶を一口いただく。
おばさまは、私のようなものが来ると思っていなかったのだろう。私のような、幼い子どもがくるなんて。
身長が一五ニセンチの子どもが全く知らない他人の家を訪ねてくるのは、想像できなかったのだろう。
先ほどからちらちら私の顔を窺っている。そろそろ本題に入った方が良いだろう。
「こちらに窺ったのは、私の祖母についてお話ししようと思ったからなんです。実は認知症になってしまいまして、最近は昔のことをよく話すようになったんです。まるで子どもの頃に戻ったみたいに。よっちゃんがよっちゃんがって、ずっと言ってて……それだけなら知らなかった事を知れて良かった、で終わるんけど、最近は何か物を探し求めるような感じで」
「あ、言い忘れていたんですけど、祖母の名前はセツ子です」
「ああ!セッちゃん!懐かしいわぁ。私のセッちゃんはね、ほんとに仲良くて、双子みたいに息も合ってね。二人でいろんなところへ行って、ちょっとした悪戯もしちゃって、そうそう、秘密基地も作ったのよ」
手を合わせて、ふふっと笑って楽しそうに話してくれる。二人の仲が良かったのが伝わってきた。
「はい、祖母から佳子さんのことを聞いてここまでやってきました。なんとか、調べ上げて。すみません、勝手に」
「いいのよいいのよ、私のこの家の住所は変わってないからね、住所碌を見たら分かっちゃうもの。昔は個人情報なんてガバガバだったの。気にしないで。ところで、セッちゃんが何を探しているのかしら?」
軽く身を乗り出して聞いてくる。目をキラキラさせて。
「あの、ポポットって言ってるんです。私には全く分からないのですが。ご存知ですか?」
「ポポット……!合ったわねぇ、そんなの」
私持ってるかしら…、と立ち上がって家の奥へ入って行った。ポポットってなんだろう。聞いたことがないし、物なのか合言葉なのか、ずっと考えてきたけど、こんなに簡単にわかる人がいるなんて!
少しの間待っていると、おばさまは何かを持ってやってきた。木製の人形がピアノ三体ついた作りのもの。なんだろう。
「あったあった。これはね、オルゴールなの。秘密基地を作ったっていっていたでしょう?その時に秘密基地に置いていた私たちの宝物なの。私の親戚が買ってくれてね、仲良く二人で曲を流して聞いていたの。それで、この子がポポット」
人形のうち一体を指す。
「この子たちの名前だったのよ、実はね」
ウインクをして自慢げにおばさまは言う。
「あなたがきてくれて本当によかった。じゃないとこのオルゴールのことも、この子たちのことも忘れてしまっていたんですもの。セッちゃんは覚えていたのね」
しんみりとオルゴールのからだを撫でている。
「ねぇ、セッちゃんに会わせてくれないかしら?もうずっと会っていないから。ほら、互いが生きてるうちに会っていたいじゃない?」
「もちろん!会いにきてください!」
「ふふっ、じゃあ今度お邪魔するわね」
「セッちゃん!久しぶり!佳子だよ?よっちゃんだよ!わかる?」
「よっちゃん……?」
日をおかずにやってきた佳子さんにおばあちゃんは最初分からない反応を示した。
でも、
「よっちゃん!久しぶりだねぇ!元気してた?」
すぐに思い出したようだ。ポポットも持ってきてもらって、探してたのを目にして安心したみたい。
おばあちゃん、よかったね。