『踊りませんか?』
今宵は仮面舞踏会。
色とりどりの衣装と仮面を身に纏った人々が、
パンテオンを模した豪奢な舞踏室で
軽やかに舞い踊る。
金の羽根飾りが施された仮面を被る
悪役令嬢はいつも通り可憐な淑女を
演じながらも、内心はソワソワしていた。
理由はただ一つ。彼女は執事のセバスチャン
に無理やり約束させたのだ。
「後ほど、私とワルツを踊ってくださいまし」
セバスチャンは優しく微笑み、
かすかに頭を下げて了承してくれた。
期待と緊張を胸に秘めて彼を待つ悪役令嬢。
その時、背後から柔らかな声がかかった。
「踊りませんか?」
漆黒のロングコートに身を包んだ紳士が、
優雅に手を差し出す。
その佇まいに一瞬戸惑いながらも、
悪役令嬢は誘いに応じた。
「待ちくたびれましたわ、セバスチャン」
ワルツの旋律に乗せて踊り始める二人。
彼のリードは完璧で、まるで空中を
漂うような心地よさに包まれる。
「この時間が永遠に続けばいいのに」
仮面の下で、悪役令嬢が小さく呟くと、
紳士は何も言わず彼女を強く引き寄せた。
その行為に違和感を覚える悪役令嬢。
音楽が止まり、紳士が耳元で囁く。
「少し休憩しましょうか」
導かれるまま個室へと向かおうとした瞬間、
冷たい声が背後から響いた。
「お待ちください」
振り返ると、銀色の仮面をつけた執事が
絶対零度の視線を向けて立っていた。
「セバスチャン!?」
驚きに息を呑む悪役令嬢。
踊っていた相手がセバスチャンではないと、
今になって漸く気がついたのだ。
紳士は帽子を脱ぎ、仮面をゆっくりと外した。
現れたのは、艶やかな黒髪と長い睫に縁取ら
れた紫の瞳、すっきりとした鼻筋の美青年。
「セバスチャンだと思いましたか?」
くすくすと笑いながら目を細める魔術師。
「あなた、私をからかっていたのですね」
彼女は頬を膨らませ、顔を背けた。二人の
様子に、セバスチャンが深いため息をつく。
「主、安易について行ってはいけません。
仮面舞踏会では、誰が相手か分からないの
ですから」
幼子に言い聞かせるような口調に、
目を伏せる悪役令嬢。
「ごめんなさいですわ……」
セバスチャンは困ったように微笑み、
魔術師は腕を組んだまま軽く肩をすくめた。
「まあまあ、機嫌を直してください」
魔術師がぱちんと指を鳴らすと、場所は
カウチが置かれた小サロンに移り替わり、
テーブルにはコーヒーとアイスクリーム、
ボンボンが用意された。
アイスを口に運びながら、
悪役令嬢はセバスチャンを見上げる。
「約束しましたもの。これを頂いたら、
絶対にあなたと踊りますから」
彼女の言葉にセバスチャンは苦笑しつつも、
静かに頷くのであった。
『静寂に包まれた部屋』
煌びやかなシャンデリアの下、
長大なテーブルに並ぶ豪華な料理。
悪役令嬢は久方ぶりに父ドレイクからの
誘いに応じ、実家に戻っていた。
上座には当主であるドレイク、その隣に兄で
あるヘザー子爵ことウィルム。さらに継母サラ
伯爵夫人。そして、身分に応じて厳かに席に
着く悪役令嬢。家族団欒と呼ぶにはあまりに
冷たく、張り詰めた空気が漂っていた。
重々しいドレイクの声が静寂を破る。
「サンガルシュからの輸入品の状況は?」
「はい、父上。香辛料や綿製品は順調ですが、
月涙花は収穫が不調で……」
「お二人とも、食事の席での商談はお控え
ください」と、サラが静かに咎める。
「確かに、相応しくない話題だったな」
ドレイクは軽く咳払いし、次に悪役令嬢へと
視線を向ける。普段とは異なる柔らかな
眼差しがそこにあった。
「メア、最近はどうだ?」
「私は元気に過ごしておりますわ。先日は
セバスチャンと魔術師オズワルドと共に、
カミキリムシの幼虫祭りに参加して参りましたの」
「幼虫?それは食べられるのか?」
と、驚くウィルム。
「ええ、これが意外にも美味でしたの」
「ほう、それは興味深いな。オズワルドとも
良好な関係を保っているようで安心だ。リルガ
ミン侯爵家は我が家にとって重要な同盟相手だ」
満足げなドレイクをよそに、
サラが冷たく言い放つ。
「セバスチャンとやらは、
どこの家の御曹司なの?」
「セバスチャンは……私の執事ですわ」
「まあ、使用人と親しくするなんて、
はしたないわね」
サラはさらに続けた。
「いい加減、遊び暮らすのはおやめなさい。
あなたにも責務というものがあるのよ。
家のために結婚し、子を成す。
それこそが貴族の娘としての務めです」
「わかっていますわ……」
悪役令嬢はいつも、継母相手には
萎縮して逆らえなくなる。
「まあよい、サラ。メアもいずれは──」
ドレイクが宥めようとする中、ウィルムは
気まずそうに二人の顔を見遣る。
静寂に包まれた広間には、
ナイフが肉を切る音だけが響き渡った。
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「お食事はいかがでしたか?」
屋敷へ戻る馬車の中で、
セバスチャンが尋ねる。
「まあまあでしたわ」
疲れた表情の悪役令嬢を、
静かに見守るセバスチャン。
「お帰りになりましたら紅茶をお淹れします。
先生からマルコポーロという珍しい茶葉を
いただいたので」
「ありがとうございます、セバスチャン」
悪役令嬢はセバスチャンを見つめ返す。
その瞳には深い信頼の光が宿っていた。
"家族"よりも、"使用人"である彼との時間の
方が、彼女に安らぎをもたらしていたのだ。
『秋🍁』
「秋の味覚を楽しむ祭りに行きませんか?」
魔術師から《カミキリムシの幼虫祭り》に
誘われた悪役令嬢と執事のセバスチャン。
この祭りは毎年9月に開催され、
その名の通り、幼虫を取って食べる催し物で
まず最初に幼虫探し競走から入ります。
大人や子どもに混じって、斧を手に
木の幹をかち割っていく悪役令嬢たち。
「主、見つけました」
「まあ、なんてご立派な……」
「これは食べ応えがありそうですね」
執事から手のひらサイズの幼虫を差し出され、
ゴクリと喉を鳴らす悪役令嬢。
ここまで成長するのに、
一体どれだけの年月を費やしたのでしょう。
捕まえた幼虫たちは籠に入れられ、
屋台で料理として振る舞われます。
パセリとレモン汁をかけた幼虫のバター焼き、
リキュールでフランベした幼虫の串焼き、
シャリと共に楽しむ幼虫寿司、
幼虫のココナッツ和えに幼虫のクリーム煮。
「はうん、なんて絶品なのかしら」
「流石は昆虫界のトロと呼ばれる食材です」
外はカリッ、中はクリーミー。
ヘーゼルナッツのような香ばしさと
チーズのようなとろっとした濃厚さが
口いっぱいに広がり悪役令嬢は目を潤ませます。
二人が舌鼓を打っていると、魔術師が
手を振りながら彼らの元へやって来ました。
「今から広場で幼虫の早食い競走が
始まるそうですよ」
ルールはいたってシンプル。
皿に盛られた10匹の幼虫を、一番早く
平らげた者が優勝との事らしいです。
「あ、ちなみにお嬢様とセバスチャンも
エントリーしておきました」
「ちょっと!参加するなんて一言も
言ってませんわよ!」
会場では挑戦者と観客で賑わい、
悪役令嬢はお皿の上で蠢く幼虫を見つめながら
冷や汗を流していました。
(味は確かに美味ですが、
踊り食いだなんて聞いてませんわ!)
周りを見回すと、両手で幼虫を掴んで
次々と食べる者や、10匹丸ごと
口に押し込む猛者もいます。
モソモソと食べ進める悪役令嬢の横で、
セバスチャンは目にも留まらぬ早さで
幼虫を咀嚼し、あっという間に次の幼虫に
手を伸ばしているではありませんか。
「ごちそうさまでした」
丁寧にナプキンで口元を拭くセバスチャン。
ものの数秒で完食した挑戦者を前に、
会場は大盛り上がり。
「流石は私の執事ですわ、セバスチャン!」
「二人とも、見事な食べっぷりでしたね」
ゲームマスターの如く拍手を送る魔術師。
「あなたは見てただけですものね」
うぷっと口元を押さえる顔色の悪い悪役令嬢を
セバスチャンは心配そうに覗き込みます。
「主、食べ過ぎましたか?」
「ええ……もう幼虫はしばらく結構ですわ」
かくして三人は、世にも奇妙な幼虫祭を
楽しんだのでありましたとさ。
『本気の恋』
「本日の紅茶は、サンガルシュ産の
アッサムティーでごいます」
「ありがとうございますですわ、
セバスチャン」
お気に入りのテラスの定位置で、濃厚な味わい
と深い赤が特徴のアッサムティーに
癒される悪役令嬢。
馨しい香りを堪能していると、どこからか
可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえてきました。
庭に立つニレの木からです。
「ここからではよく見えませんわ」
「こちらをどうぞ」
セバスチャンが咄嗟に双眼鏡を取り出し、
悪役令嬢に手渡します。
彼女はその中を覗き込み、鳴き声のする方を
探っていると、橙色の胸を持つ小鳥が
枝にとまり、小さなくちばしをせいいっぱい
開いて喉を震わせ歌う姿を発見しました。
「む、あれはもしやピー助ではありませんか」
ピー助とは、庭に植えられたベリーや、
掘り起こされた土から現れる虫を
目当てにやって来るコマドリです。
人懐こく好奇心旺盛な性格で、庭仕事をして
いると、すぐに近寄ってきて、周りをちょろ
ちょろと歩き回ったり、木の上から
興味深そうにこちらを観察したりします。
ピー助の近くには、もう一羽のコマドリが
寄り添っていました。
「おそらく、メスに求愛しているのでしょう」
「まあ、あのピー助が……」
セバスチャンの言葉に、悪役令嬢は驚きつつ
も納得しました。以前は、彼女の手からパン
くずをついばんでいたピー助が、最近では
それをしなくなっていたのです。
きっと、繁殖期で気が立っていたのでしょう。
彼らは、誰に教えられたわけでもなく、
求愛して、巣を作り、雛が成長するまで
育てるのですから誠に立派なものです。
「上手くいくといいですわね」
「はい。そうですね」
悪役令嬢の言葉に、
穏やかに微笑み返すセバスチャン。
コマドリの美しい歌声が庭園に響き渡る中、
二人は静かに小鳥たちの本気の恋を
見守るのでありました。
『きらめき』
「素敵な夜でしたわ」
父の友人であるストリゴイ伯爵の誘いを受け、
リストランテで優雅なディナーを楽しんでいた
悪役令嬢。
舌先にソーテルヌの甘美な味が広がる中、
伯爵は上等な白いテーブルクロスの上に
小さな箱をそっと置いた。
「あら、これは何かしら?」
「魔法のかかった液体。
女性を一層美しくする秘薬ですよ」
その液体は、貴族の女性やオペラ座の歌手
たちの間で最近流行している希少な薬だという。
何でも一滴目に垂らせば、
瞳にきらめきを与える代物だとか。
「ありがとうございます、伯爵」
悪役令嬢が微笑むと、ストリゴイ伯爵もまた
鋭い牙をちらりと見せながら微笑み返した。
リストランテを出ると、
夜風が火照った体を冷やし、
悪役令嬢はくるくると踊るように舞った。
そんな彼女に、ストリゴイ伯爵が
優雅に声をかける。
「この後、もしよければ我が屋敷で
一杯いかがかな?」
その時、屋敷から迎えの箱馬車が現れ、中
から燕尾服を纏った銀髪の執事が降り立った。
「お迎えにあがりました、主」
「まあ、セバスチャン。それでは伯爵、
お先に失礼いたしますわ」
「ふむ、残念だ」
伯爵は肩をすくめ、
彼女の両頬に軽くキスをして別れを告げた。
屋敷に戻った悪役令嬢は、湯上がりに化粧着
を纏い、ストリゴイ伯爵から贈られた小箱の
包みを丁寧に剥がしてみせた。そこには、紫を
基調とした美しいガラス製の小瓶が現れた。
「それは一体……?」
カモミールティーを持ってきた
セバスチャンの視線が、小瓶に注がれる。
「伯爵からいただいた点眼薬ですの。
目に垂らすと、瞳にきらめきを与えるとか」
悪役令嬢が小瓶の蓋を開けると、
セバスチャンが静かに声をかけた。
「主、お使いにならないほうがよろしいかと」
「あら、もしかして私が殿方から贈り物を
されて、嫉妬していますの?」
「違います」
期待を込めた冗談にも、セバスチャンは
きっぱりとした口調で否定する。
落胆した様子で肩を落とす悪役令嬢だったが、
彼に頼まれて小瓶を差し出すと、
セバスチャンはそれをくんくんと嗅いだ。
「これはベラドンナです」
ベラドンナ──光沢のある黒い実をつける
毒性の強い植物。アトロピンの作用で瞳孔が
開き、瞳にきらめくような美しさを演出する。
しかし、開いた瞳孔が元に戻らなくなったり、
錯乱状態になったり、最悪の場合は
失明するという恐ろしい副作用を持つ。
「こんなものが流行っているとは……」
かつては、ヒ素で作られたエメラルドグリーン
のドレスが流行した時代もあった。
「女性はいつの時代も、美しさを求めて、
あらゆる危険に手を伸ばすものですわ」
悪役令嬢はその言葉を噛みしめるように、
そっとベラドンナの小瓶を閉じた。