『ススキ』
紅や黄色に衣替えをした葉っぱ、
澄み切った空に点々と浮かぶ渡り鳥たちの姿。
もうすっかり秋です。
青空の下で執事のセバスチャンは恩師である
クロードと言葉を交わしておりました。
「先日の茶葉、誠にありがとうございました」
「たまたま手に入ったものだよ。
喜んでもらえたなら何より」
クロードは悪役令嬢の父に仕える老執事であり、
身寄りのないセバスチャンを一人前の執事へ
と育て上げた師でございます。
「仕事は順調ですか?」
疲れの色を隠せないセバスチャンを気遣うよう
に、モノクルの奥から見つめるクロード。
セバスチャンは近頃の主の様子について
打ち明けました。
彼女は部屋に籠城しており、
食事や紅茶を持ってきても、
『うるせえですわ!勝手に入ってくんなですわ!
部屋の前に置いとけですわ!』
と拒み、わがまま暴君と化していたのです。
理由は明白。セバスチャンが彼女の告白を
受け入れなかったからです。
「俺はあの方に出会うまでずっと一人でした。
己の出自すらわからない人狼が、あの方の
お傍にずっといていい筈がない」
その言葉を口にするセバスチャンは、まるで
不安に震える子どものようでした。
クロードは静かに諭すように答えます。
「君が何者であろうと、お嬢様に対する真実の
愛は変わらない。お嬢様も君が何者であろう
と受け入れてくれるだろう」
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
師と別れたセバスチャンは、
あぜ道を歩きながらさらさらと風に揺れる
ススキの穂を眺めていました。
遠くには羊飼いの少年が、
草を食む羊の群れを導く姿も見えます。
屋敷へ戻ると、何やら香ばしい匂いが漂い、
髪を二つ結びにしたメイドの少女ベッキーが
セバスチャンの元へ駆け寄ってきました。
「あ!おかえりなさい、セバスチャンさん!
お嬢様を見かけませんでしたか?」
「いや……主に何かあったのか?」
「ウッドチャックを追いかけて
どこかへ行ってしまったんです」
何でも、悪役令嬢を元気づけようとベッキー
が焼き芋を作っていると、近所に棲むウッド
チャックがひょいと現れ、冷ました焼き芋を
持ち去ってしまったのです。
犯行の一部始終をとらえた悪役令嬢はウッド
チャックを追いかけて姿を消したと──。
セバスチャンはススキの群生をかき分けて、
彼女の匂いを頼りに跡を追います。
やがて開けた場所に出ると、見知った後ろ姿
を発見。ドレスの裾を束ねて屈み込む悪役令嬢
が何かを観察しておりました。
「主、ここにおられましたか」
「!セバスチャン……」
悪役令嬢は一瞬驚いたものの、
すぐに背を向けました。
セバスチャンが彼女の見つめる先に視線を
走らせますと、そこにはなんと小さな巣穴が。
巣穴からはぶくぶくに太った親ウッドチャッ
クと、小さなウッドチャックたちが顔を覗か
せてこちらを興味深そうに見つめております。
「子どもですか……」
「ええ、子のために盗みを働いた輩に鉄槌を
くだすなど、悪役令嬢の道に反することですわ」
悪役令嬢は振り向き、期待を含んだ声で
尋ねます。
「私を探しに来てくれたのですか?」
「はい」
スーツに秋草の穂を纏わせた執事の姿に、
悪役令嬢は思わず微笑みを零します。
「戻りましょう。ベッキーが心配しています」
恥ずかしそうに穂を払いながら言うセバス
チャンに、悪役令嬢は渋々立ち上がります。
「主、お話があります。後ほどお時間を」
真摯な眼差しに射抜かれ、
ドキリと胸を高鳴らせる悪役令嬢。
「え、ええ……よろしくてよ」
ススキの茂みから出てきた二人をベッキーは
笑顔で迎え入れ、それから三人で焼き芋を
食べました。
ホクホクとした焼き芋を頬張りながら、悪役
令嬢はセバスチャンを見上げます。優しい甘さ
の焼き芋は、どこかしょっぱい味がしました。
『哀愁を誘う』
「お父様、ご要件とは一体何でございますの?」
書斎の扉を開いた悪役令嬢は、
窓辺に佇む父の背中に声をかけた。
振り返った父の顔には、どこか晴れやかな
表情が浮かんでいる。
「メア、お前の婚約が決まったぞ」
その言葉に、悪役令嬢の瞳が大きく見開かれた。
相手は幼なじみ、リルガミン侯爵家の嫡男
オズワルド。古くから両家は親交が深く、
彼とは腐れ縁とも言える関係だったが、
まさか婚約など──。
「お父様、私とオズはそのような関係では
ございませんわ。彼とは友人です」
「お前がそう思っていても、向こうは違うかも
しれんぞ。実際、彼はお前との結婚に前向きな
姿勢だったそうだ」
「……」
「メア、どうか我が一族のためにもこの婚約を
受け入れてくれないか?」
真摯な眼差しで見つめる父に、
悪役令嬢は何も言い返せなかった。
---
翌日、悪役令嬢は急いで
魔術師の研究室を訪れた。
中へ進むと、ぐつぐつと煮立つ大鍋から
立ち上る蒸気と、棚に並ぶ色とりどりの
薬瓶、乾燥ハーブの香りが漂ってきた。
「魔術師、お話がありますわ!」
魔術師は相変わらずの落ち着いた様子で
振り返り、メアを迎え入れた。
「おや、どうしましたか?そんなに慌てて」
「一大事ですのよ。あなたと私が婚約させられ
そうになっていますの!」
「ええ、存じておりますよ。お爺様と伯爵が
宴の席で話しているのを耳にしましたから。
どうやら昔から決まっていたことらしいですね」
「あなたはそれでいいのですか?」
悪役令嬢の問いかけに、魔術師は少し
考え込んだ後、静かに答えた。
「僕もこの年齢になって、周りから結婚について
の助言をたくさんいただくようになりましたし、
早く身を固めて研究に没頭できるのは理想的です」
紫色の瞳が悪役令嬢を真っ直ぐに見つめる。
「メア。あなたが嫌でなければ、この話を受けて
くださいませんか?僕たちが婚約を結べば、
世間からの心配も少しは減らせるでしょう」
「私は……」
魔術師の言葉には確かに一理あった。
貴族の立場では、ある年齢になれば家のため
に結婚し、子孫を残すことが期待される。
だが、悪役令嬢の心の奥底では、ある人の
存在がわだかまりとして残っていた。
---
夕暮れに染まる庭園で、悪役令嬢は一人、
秋薔薇を見つめながら沈んだ気持ちに
浸っていた。
「何かお悩みですか?」
そこに現れたのは、彼女の忠実な執事、
セバスチャンだった。
「セバスチャン。私、婚約が決まったのです」
彼の表情が一瞬固まったが、
すぐに穏やかな笑顔を浮かべる。
「そうですか……。おめでとうございます」
「……他に何か言うことはありませんの?あなた
は、私が他の誰かと結婚してもいいというの?
私があなたのことを好きだとしても?」
勢いに任せて詰め寄る悪役令嬢。
セバスチャンの顔には驚きが浮かび、
そして苦しそうに目を伏せた。
「主、いけません。
あなたと俺では、 身分が違います」
「そんなことはわかっていますわ。
けれど私は、あなたと一緒にいたいのです」
セバスチャンはしばらくの沈黙の後、
再び悪役令嬢を見つめ、悲しげに微笑んだ。
「それは一時の迷いです。きっといつか、
あなたも真実に気づく日が来るでしょう」
彼の言葉は優しく、しかし冷静で距離を
感じさせるものだった。
それが、悪役令嬢の心をさらに痛ませた。
「もういいですわ!ふんっ!」
涙を浮かべながら悪役令嬢は踵を返し、庭園
を立ち去った。その背中を見つめながら、
セバスチャンはぎゅっと拳を握りしめ、
ただ静かに彼女の後ろ姿を見送った。
二人の間に降り注ぐ夕陽が、まるで運命の
分かれ道を照らすかのように赤く染まっていた。
『すれ違い』
「ふっふーん♪」
秋の穏やかな午後、柔らかな光が降り注ぐ中、
女優帽を被った美しい娘が鼻歌を口ずさみ
ながら優雅に箱馬車から降り立った。
両手には、シルクのリボンで飾られた紙袋が
幾つもぶら下がっている。
「お帰りなさいませ、主」
屋敷の扉が開かれ、彼女の忠実なる執事
セバスチャンが恭しく頭を下げた。
「ただいま戻りましたわ。セバスチャン、この
荷物を私の部屋まで運んでくれるかしら?」
「かしこまりました」
悪役令嬢はお気に入りのブティックで
おにゅーの洋服を買い求めていたのである。
ソファに身を沈め、セバスチャンが淹れた
紅茶の香りに包まれながら、戦利品の整理に
没頭する悪役令嬢。
「こちらはベッキーへのカシミアコート。
そして、これはあなたへ」
小さな紙袋を差し出されたセバスチャンの瞳
に一瞬、驚きが浮かぶ。
「俺にですか?ご厚意、痛み入ります」
「ふふん。私の執事たる者、身なりには
気を遣っていただかねばなりませんもの。
さあさあ、開けてみてくださいまし」
セバスチャンが礼を言いながら袋を開けると、
中にはレースの縁取りが施された女性用の
下着が入っていた。
「え……」
思わず二度見するセバスチャン。
「あなたに似合うと思って選びましたの」
「……」
「セバスチャン?気に入りませんでしたか?」
「いえ、決してそのようなことでは……」
悪役令嬢は気づいてなかった。
自分用に買った下着と、セバスチャン用に
買ったネクタイの紙袋を取り違えていたことに。
彼女から期待に満ちた眼差しを向けられ、
セバスチャンは何とか動揺を隠そうと
必死だった。
「お父様とお兄様も愛用している
ブランドですのよ」
「左様でございますか……」
(貴族の世界では男性も女物の下着を
身に付ける慣わしがあるのか?)
青ざめるセバスチャンをよそに、
悪役令嬢は無邪気に続ける。
「では早速、ここでつけてみてくださいまし」
「は?」
「あなたが身に着けた姿が見たいのですわ。
ね、いいでしょう?」
「…………」
(ここで?今すぐに?)
セバスチャンは険しい表情でしばし硬直して
いたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「ご命令とあらば──」
自らの衣服に手をかけ始めたセバスチャンに
悪役令嬢は驚いて顔を真っ赤に染める。
「セバスチャン!?
なぜ服を脱ごうとしているのですか!」
「主のためならば、この身の恥じらいなど
捨て去ります」
「どういうことですの!?」
その後、二人の誤解は無事解けたのであった。
『踊りませんか?』
今宵は仮面舞踏会。
色とりどりの衣装と仮面を身に纏った人々が、
パンテオンを模した豪奢な舞踏室で
軽やかに舞い踊る。
金の羽根飾りが施された仮面を被る
悪役令嬢はいつも通り可憐な淑女を
演じながらも、内心はソワソワしていた。
理由はただ一つ。彼女は執事のセバスチャン
に無理やり約束させたのだ。
「後ほど、私とワルツを踊ってくださいまし」
セバスチャンは優しく微笑み、
かすかに頭を下げて了承してくれた。
期待と緊張を胸に秘めて彼を待つ悪役令嬢。
その時、背後から柔らかな声がかかった。
「踊りませんか?」
漆黒のロングコートに身を包んだ紳士が、
優雅に手を差し出す。
その佇まいに一瞬戸惑いながらも、
悪役令嬢は誘いに応じた。
「待ちくたびれましたわ、セバスチャン」
ワルツの旋律に乗せて踊り始める二人。
彼のリードは完璧で、まるで空中を
漂うような心地よさに包まれる。
「この時間が永遠に続けばいいのに」
仮面の下で、悪役令嬢が小さく呟くと、
紳士は何も言わず彼女を強く引き寄せた。
その行為に違和感を覚える悪役令嬢。
音楽が止まり、紳士が耳元で囁く。
「少し休憩しましょうか」
導かれるまま個室へと向かおうとした瞬間、
冷たい声が背後から響いた。
「お待ちください」
振り返ると、銀色の仮面をつけた執事が
絶対零度の視線を向けて立っていた。
「セバスチャン!?」
驚きに息を呑む悪役令嬢。
踊っていた相手がセバスチャンではないと、
今になって漸く気がついたのだ。
紳士は帽子を脱ぎ、仮面をゆっくりと外した。
現れたのは、艶やかな黒髪と長い睫に縁取ら
れた紫の瞳、すっきりとした鼻筋の美青年。
「セバスチャンだと思いましたか?」
くすくすと笑いながら目を細める魔術師。
「あなた、私をからかっていたのですね」
彼女は頬を膨らませ、顔を背けた。二人の
様子に、セバスチャンが深いため息をつく。
「主、安易について行ってはいけません。
仮面舞踏会では、誰が相手か分からないの
ですから」
幼子に言い聞かせるような口調に、
目を伏せる悪役令嬢。
「ごめんなさいですわ……」
セバスチャンは困ったように微笑み、
魔術師は腕を組んだまま軽く肩をすくめた。
「まあまあ、機嫌を直してください」
魔術師がぱちんと指を鳴らすと、場所は
カウチが置かれた小サロンに移り替わり、
テーブルにはコーヒーとアイスクリーム、
ボンボンが用意された。
アイスを口に運びながら、
悪役令嬢はセバスチャンを見上げる。
「約束しましたもの。これを頂いたら、
絶対にあなたと踊りますから」
その言葉にセバスチャンは苦笑しつつも、
静かに頷くのであった。
『静寂に包まれた部屋』
煌びやかなシャンデリアの下、
長大なテーブルに並ぶ豪華な料理。
悪役令嬢は久方ぶりに父ドレイクからの
誘いに応じ、実家に戻っていた。
上座には当主であるドレイク、その隣に兄で
あるヘザー子爵ことウィルム。さらに継母サラ
伯爵夫人。そして、身分に応じて厳かに席に
着く悪役令嬢。家族団欒と呼ぶにはあまりに
冷たく、張り詰めた空気が漂っていた。
重々しいドレイクの声が静寂を破る。
「サンガルシュからの輸入品の状況は?」
「はい、父上。香辛料や綿製品は順調ですが、
月涙花は収穫が不調で……」
「お二人とも、食事の席での商談はお控え
ください」と、サラが静かに咎める。
「確かに、相応しくない話題だったな」
ドレイクは軽く咳払いし、次に悪役令嬢へと
視線を向ける。普段とは異なる柔らかな
眼差しがそこにあった。
「メア、最近はどうだ?」
「私は元気に過ごしておりますわ。先日は
セバスチャンと魔術師オズワルドと共に、
カミキリムシの幼虫祭りに参加して参りましたの」
「幼虫?それは食べられるのか?」
と、驚くウィルム。
「ええ、これが意外にも美味でしたの」
「ほう、それは興味深いな。オズワルドとも
良好な関係を保っているようで安心だ。リルガ
ミン侯爵家は我が家にとって重要な同盟相手だ」
満足げなドレイクをよそに、
サラが冷たく言い放つ。
「セバスチャンとやらは、
どこの家の御曹司なの?」
「セバスチャンは……私の執事ですわ」
「まあ、使用人と親しくするなんて、
はしたないわね」
サラはさらに続けた。
「いい加減、遊び暮らすのはおやめなさい。
あなたにも責務というものがあるのよ。
家のために結婚し、子を成す。
それこそが貴族の娘としての務めです」
「わかっていますわ……」
悪役令嬢はいつも、継母相手には
萎縮して逆らえなくなる。
「まあよい、サラ。メアもいずれは──」
ドレイクが宥めようとする中、ウィルムは
気まずそうに二人の顔を見遣る。
静寂に包まれた広間には、
ナイフが肉を切る音だけが響き渡った。
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「お食事はいかがでしたか?」
屋敷へ戻る馬車の中で、
セバスチャンが尋ねる。
「まあまあでしたわ」
疲れた表情の悪役令嬢を、
静かに見守るセバスチャン。
「お帰りになりましたら紅茶をお淹れします。
先生からマルコポーロという珍しい茶葉を
いただいたので」
「ありがとうございます、セバスチャン」
悪役令嬢はセバスチャンを見つめ返す。
その瞳には深い信頼の光が宿っていた。
"家族"よりも、"使用人"である彼との時間の
方が、彼女に安らぎをもたらしていたのだ。