『秘密の箱』
ひんやりとした空気。カビっぽい匂い。
薄暗い中には古い家具や箱がたくさん積まれ、
差し込む光の中で、埃が舞っている。
私はおばあちゃん家にある古い蔵で
不思議な箱を見つけた。
人が一人入れるくらいの大きさの箱。
木製で一面だけガラス張りになっている。
ガラスの向こうに、猫がいた。
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│     ねこ       │
│                    │
│ ꧦ𐅁𐀸𐋠𛰙᭜𖫴𖫰𖫱𖫳𖫲𖫲𖫳𖫴𖫰𖫱꛰ﯩᩝ︪᭜𖫴𖫰𖫱𖫳𖫲𖫲𖫳𖫴𖫰𖫱꛰ީᩝ𛰚     │
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猫は丸くなり、じーっとこちらを見つめている。
「見ぃた~にゃ~(ↂ⃙⃚ ω ↂ⃙⃚)」
猫がしゃべった!
私は恐怖のあまり「ぎゃっ!」と悲鳴を上げ、
一目散に逃げ出した。
それからまた懲りずに蔵を覗きにいった。
「ねえ、どうしてそんなところにいるの?
   窮屈じゃないの?外に出たくないの?」
「猫はこの箱の中でしか存在できにゃいにゃ」
「どういうこと?」
「猫はいるかもしれにゃいし、
    いにゃいかもしれにゃい」
何を言っているのか正直よくわからない。
でも、私は猫のことがもっと知りたくなった。
会いに行く度、私たちは仲良しになった。
私は猫に自分のことを何でも話した。
学校であった辛いことや悲しいこと。
猫は香箱座りしながら、
「んにゃんにゃ(― ω ―)」と相槌を打つだけ。
責めることも、可哀想がることもなく、
ただいつもそばにいてくれた。
「ねえ、箱を開けてもいい?」
ある日、私は猫に尋ねてみた。
「いいにゃよ。でも、開けたら……」
「開けたら?」
「猫は消えてしまうかもしれにゃいにゃ。
    でも開けにゃかったら……」
「開けなかったら?」
「ずっと一緒にいられるにゃ」
私は迷った。でも、猫をこんな狭いところに
閉じ込めておくのは可哀想だと思った。
それに、あのふわふわな毛に触れてみたい。
抱きしめてみたい。
「開けるね」
私は箱の留め金に手をかけた。
ガチャリ。
箱の扉が開く。
中は、空っぽだった。
「え……?」
慌ててガラスの面を見ると、
猫の姿はもうそこになかった。
「どこ?どこにいるの?」
私は箱の中を隅々まで探した。
でも、何度探しても見つからない。
だんだんと涙が溢れてきた。
開けなければよかった。
そうすれば、ずっと一緒にいられたのに。
――
蔵で泣いている私を見つけたのは、
おばあちゃんだった。
「どうしたの?」
私は祖母の腰にしがみついて全部話した。
箱のこと。猫のこと。開けてしまったこと。  
「あの箱ね。私も知っているわ」
おばあちゃんは私の隣に座って語り出した。
「あれは、その人が一番欲しいものを映し出すものなの。私も子どもの頃、病気で亡くなったお母さんを、あの箱の中で見つけた」
おばあちゃんの目が、遠くを見つめている。
「毎日、お母さんに話しかけたわ。寂しいって、
 会いたいって。お母さんはいつも優しく
 聞いてくれた。でもね……」
「開けちゃったの?」
「ええ。でも開けた瞬間、
 お母さんはいなくなってしまった」
ふぅとため息をこぼして、祖母は続けた。
「私の弟もね、あれを見つけたの。事故で亡くなった子どもの名前を、毎日毎日、箱の前で呼び続けてね。でも弟は、箱を開けなかった」
「どうして?」
「開けたら失うって、分かっていたから。でもね、それで弟は……箱から離れられなくなってしまった。現実の世界よりも、箱の中の世界を選んでしまったの」
おばあちゃんが私の手をギュッと包み込む。
「失うことは辛いね。でもね、あなたはこれから先、
 たくさんのものを手に入れるの。触れられるもの、
 本当に温かいものを」
――
それからしばらく経ったある日のこと。
下校途中、公園の茂みから鳴き声が聞こえた。
「にゃあ、にゃあ」
そこには小さな子猫がいた。捨て猫だろうか。
辺りを見回すが母猫や兄弟猫の姿が見当たらない。
もっとよく近づいて確認する。
そして――その姿に私は思わず息を呑んだ。
柄も顔立ちも、あの猫にそっくりだ。
子猫は私に気がつくと、ヨチヨチと歩み寄り、
足元によじ登ってきた。
私は子猫を抱き上げた。小さくて、温かい。
「また会えたね」
私は子猫をギュッと抱きしめると、
家に向かって歩き出した。
『今日だけ許して』
「……ただいまー。あー疲れた」
残業を終え、フラフラになって帰宅したサラリーマン・遥斗(はると)は、玄関の扉を開けた。すると、部屋の奥から「チャッ、チャッ」と床に爪が当たる音が聞こえてくる。
「おかえり。遅かったじゃないか」
「……おい、今、しゃべった?」
なんとそこには――人の言葉を喋る柴犬のコマが立っていた。いや、立っていたどころか、二足歩行で腕を組んでいる。
「え、夢……? 疲れて幻覚見てる……?」
「幻覚じゃない。お前がいない間に、おれはネットで
    人語を勉強した」
「ネットで!?」
「今の世の中、犬だって学ぶ時代だ」
「いや待て、操作できるのか?」
「肉球でスワイプしてる。努力の賜物だ」
遥斗は頭を抱えた。
だがそれよりも問題なのは、
コマの目が妙に冷ややかなことだった。
「それより遥斗。最近、朝の散歩、サボってるよな」
「えっ、いや、仕事が忙しくて……」
「ごはんも安物のドッグフードばっかり。
    愛が感じられない」
「愛」
そう言いながら、コマは小さな紙を突き出した。
そこにはミミズの這ったような文字で――
「今日だけ飼い主交代券」。
「……なにこれ」
「明日はおれが飼い主、お前がペットだ」
「はあ!?」
「おれが起きたらお前は手作りの朝ごはんを作る。
    散歩もおれのペース。いいな?」
「いやよくねぇよ」
⸻
翌朝。
「起きろ、遥斗。散歩の時間だ」
「ぐぅ……」
「こらっ、寝坊は罰だ」
コマはリードを片手に、
逆に遥斗の首に巻きつけた。
「ちょ、待て、何してんの」
「いいから歩け。リードに慣れておけ」
「おかしいだろこの関係!」
朝の住宅街を、犬が人間を引き連れて歩く光景。
近所の奥さんが二度見して、
「あらあら、新しいプレイ?」と呟いた。
「クソ!まるで俺が変態みたいじゃないか!」
「吠えるな。近所迷惑だろ」
⸻
その夜。
コマはソファにふんぞり返って、
ヤギミルクを飲んでいた。
「今日のおれ、立派な飼い主だっただろ?」
「うんうん、コマくんは初めての飼い主よく頑張ったね!ほんとスゴい!」
「ふふん。よし、特別に頭を撫でてもいいぞ」
褒められたのが嬉しくて満面の笑みを浮かべるコマ。
遥斗の目の前に座ると、耳をぺたんと畳んで
尻尾をふりふり振った。
撫でられスタンバイの体勢だ。
「どうした、遥斗。早く撫でろ」
(これじゃ普段と変わらないな)
飼い主とペット。支配する側とされる側。
しかし実際は、お互い相手に依存し合ってるのかもしれない。
⸻
翌日。
ベッド横のチェストに一枚のメモが
置かれていた。
『反省した。
   やっぱりおれは飼われる方が好きかも。
                                                                  コマ』
視界の端では、ベッドに丸まって眠るコマの姿。
ぷぅぷぅと小さく寝息を立てている。
遥斗は苦笑して、コマの体をそっと撫でた。
「まったく……世話が焼けるやつだな」
「……ん、靴下美味い……」
「どんな夢見てんだよ」
窓から朝日が差し込む。
今日は絶好の散歩日和だ。コマが起きたら
すぐ出かけられるよう支度しよう。
新しい散歩コースに挑戦するのも悪くない。
そんな考えを巡らせながら遥斗は体を起こした。
『誰か』
「これでとどめだ、ヴァラク」
激しい死闘の末、ライオカスは魔王ヴァラクを聖石の祠に封じ込めることに成功した。血と汗に塗れた英雄の顔に、安堵の光が宿る。だが散り際、魔王は黒い血を吐きながら憎々しげに囁いた。
『いずれ貴様の愛するものを全て奪い、地の底へと叩き落としてやる』
――
古都エルドラン。純白の建物が立ち並び、
清らかな水路が街を巡り、花々が咲き誇る光の街。
塔の最上階から街を見下ろしながら、ライオカスは
己の誓いを忘れぬよう胸に刻んでいた。
――この街を必ず守る。己の命に代えても。
「父上、ここにおられましたか」
背後からかかる声に振り返れば、
息子のエディウスが立っていた。
「何か用か」
「急ぎではありません。ただ……久しぶりに、
    二人で食事でもどうかと思いまして」
期待と緊張が入り混じる声で笑みを浮かべる息子。
だがライオカスは、わずかに目を伏せて首を振った。
「これから警備に向かう。ヴァラクの残滓は常に揺さぶりをかけてくる。休む暇はない」
「……ええ、けれど父上もお疲れでしょう。
    少しは――」
エディウスはそっと手を伸ばし、父の肩に触れようとした。しかしライオカスは、それを避けるかのように身を引いた。
「用が済んだのなら、もう下がれ」
冷たい言葉に、息子の笑顔は凍りつく。
宙をさまよう指先。喉まで出かかった言葉は、
声にならなかった。
――
その夜、ライオカスは悪夢にうなされた。
街を覆い尽くす黒い影、炎に呑まれる建物、魔物の群れ、人々の叫び声――ヴァラク襲撃の日と同じ終焉の光景。
飛び起きた彼は窓の外を見た。
空は赤く染まり、黒煙が立ち上っている。
「まさか……」
ライオカスは外套も羽織らず飛び出した。
神殿にたどり着くと、入口の扉は開け放たれ、
警備の守り人たちは血を流し倒れていた。
幾重にも張られたはずの結界は、何者かの手によって解除され機能していない。
ライオカスは封印の間へと急いだ。
部屋の中央には祠と巨大な魔法陣が刻まれ、周囲には七つの結界石が配置されていたはずだ。
だが今、祠は打ち倒され、聖石は全て砕け散り、
魔法陣は黒く煤けていた。
「なんということだ……」
誰かが封印を解いた。一体誰が、これほどの魔力を持ち、この厳重な警備を潜り抜けられたというのか。
この場に立ち入れる者は限られている。
胸の奥に冷たい予感が広がった。
――
塔の最上階。
「ようやく来てくれましたね、父上」
「お前が封印を解いたのか」
「ええ」
エディウスは振り返り、微笑んだ。その顔はかつて父に褒められた少年の笑顔と同じでありながら、今は狂気に満ちていた。
「愚かな……お前にはこの街を守る者の血が流れているだろう!」
「そんなものに何の意味があるんです?」
エディウスの瞳が爛々と燃える。
「僕はただ、父上に見てほしかった。けれどあなたは、――誰か、名もない者のように僕を扱った」
ライオカスの胸に鈍痛が走る。思い出す。小さな手を取り、剣を教えた日々。母を亡くした子を支えると誓ったあの頃。だが、使命を理由に、いつしか彼を遠ざけていた。
「ある時、祠から声が聞こえました。ヴァラクは僕を理解してくれた。……あなたには決してできなかったことだ」
黒い霧が溢れ出し、エディウスの身体を包む。
「お前はヴァラクに唆されているんだ。正気に戻れ、エディウス!」 
ライオカスは剣を抜くが、その手は震えていた。
目の前の存在は、魔王か。それとも息子か。
「あなたは何も知らない。誰のことも愛していないから」
――
やがて、ライオカスは血を流し、膝をついた。
エディウスは父の身体を抱き起こすと、崩壊する街を見せつけるように手すりへと連れて行く。
「ご覧ください、父上。かつてあなたが守り抜いた街の末路を」
空が裂け、川が血のように赤く染まり、純白の建物が炎に呑まれていく。平和の都は、一瞬にして混沌の牢獄へと変貌した。
『これから貴様の愛したものが失われていく様を、
    我が隣で眺めるがいい』
永遠に――。
ヴァラクとエディウスの声が、重なり合う。
ライオカスはなおも剣を握ろうとしたが、もう腕に力は残っていない。ただ、血に濡れた唇から、ひとつの名だけがこぼれ落ちた。
「……エディウス……」
その声に、魔王の瞳がかすかに揺らめいた。
『パラレルワールド』
私の名前は畑飛夏子(ばたぴぃなつこ)。
現在友達とカフェでお茶の最中だ。
「夏子またスマホ見てる」
友人がふてくされた顔で苦言を申す。
「あっ、ごめんごめん!」
最近は誰かとの会話の途中でもスマホを度々確認するようになった。理由は、SNSで通知が来てないか
チェック。しかし思うような成果が得られず、
はぁと小さくため息を零した。
バズりたい。人気者になりたい。チヤホヤされたい。
今の私の心にはその野心だけが燃えていた。
だけど私の特技と言ったら
「鼻でピーナッツを吹き飛ばす」くらいしかない。
早速、動画を撮ってSNSに挙げてみたところ、
RT:0 ふぁぼ:2
「くっ、全然増えてない……!」
なけなしのふぁぼは相互フォロワーさんの
同情いいね。私はスマホを片手に頭を抱えた。
世の中には可愛かったり絵や歌が上手かったり
お金持ちだったり、自分の上位互換が星の数ほど
存在する。私なんてそもそも見向きもされないのだ。
「世の中って上手くいかないことばかりだな~」
鏡台の前でぼやいていると、
鏡に映る自分が突然話しかけてきた。
『有名になりたいか?』
「えっ?」
そして手を引っ張られ、鏡の中に引きずり込まれた。
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どうやら気を失って倒れていたらしい。
しかし、寝ている間に大きく変わったことがあった。
私が挙げた「鼻でピーナッツを吹き飛ばす」動画が
大バズりし、トレンド入り、
フォロワーが1億2000万人にまで増えていたのだ!
「うっそでしょ〜!?」
テレビでも紹介され社会現象となるほどに広まり、
街中ピーナッツだらけとなった。コンビニに売られていたバタピーは売り切れ続出で品薄状態、子どもたちは鼻でピーナッツ投げ合う「ナッツ飛ばしごっこ」に夢中になっている。
街では「鼻でピーナッツ吹き飛ばして〜!」と
声をかけられ、今や立派な有名人となった私。
「あ〜、チヤホヤされるって最高〜♪」
しかし人気にはアンチもつきもの。「つまらない」「汚い」「下品」「はやく流行終わって欲しい」などと否定的なコメントがつくようになった。
「どうせリアルが上手くいっていない奴らが
    嫉妬してるんだろうな。みじめみじめ〜w」
そんなある日のこと、ライバル的存在が生まれた。
なんでも耳でバナナを剥くことができるとか。
早速、動画を確認してみたところ、そいつはまるで
手のように器用に耳を動かしてバナナの皮を
スルスル〜っと剥いていたではあるまいか。
世間のトレンドは鼻バタピーから一気に
耳バナナへと変わった。
くやしい!くやしい!くやしいっ!
そんな時、テレビに出てみないかと出演オファーが
DMに届いた。内容は、
『鼻でピーナッツを吹き飛ばす女子高生VS耳でバナナを剥くYouTuber〜頂上決戦〜』
「よしゃ!絶対勝ってぎゃふんと言わせてやる!」
テレビ局のスタジオは熱気でムンムン。
観客席からは「鼻ピー女王〜!」「がんばれ!」と
声援が飛び交う。
「それでは、始めましょう〜!」
司会者の合図と共に、私は渾身の力を込めて
鼻からピーナッツを……
プシュッ
「あれ?」
ピーナッツが鼻の奥に詰まって出てこない。
「え、えーっと……」
焦った私は必死に鼻をかむが、ピーナッツは頑として
動かない。一方、ライバルの耳バナナ女王は
華麗にバナナを剥き続ける。
「ちょ、ちょっと待って!」
パニックになった私は、床に散らばったバナナの皮で
ツルッと足を滑らせて……
「うわあああああ〜!」
ドッシャーン!
-----
気がつけば自分のベッドの上にいた。
どうやら元の世界に戻っていたらしい。
街中にピーナッツは散らばってもないし、以前の
なんてことないどこにでもいる一般人に元通り。
「はぁ〜、夢だったのか……」
ホッとしてスマホを確認すると、例の鼻ピーナッツ
動画はやっぱりRT:0 ふぁぼ:2のまま。
「まあ、こんなもんよね」
小さくため息をつきながらも、
心のどこかで安堵していた。
後日、私は友人とまたカフェでお茶していた。
以前のように、会話の途中でスマホを
その都度確認することはなくなった。
「SNSでバズりたいってのはどうなったの?」
「もういいや。なんか疲れちゃって」
大いなる人気には、大いなるプレッシャーが伴う。
そうパラレルワールドで学んだのであった。
『僕と一緒に』
やらかした。
まさか自分がこんな醜態をさらすとは。
腹の傷を押さえながら、重たい身体を引きずる。
運悪くヴァンパイアハンターに遭遇し、
あろうことか深手を負ってしまった。
いつもなら返り討ちにできたはずだ。
だが――今宵は新月。
吸血鬼の力が最も弱まる夜。まったくついていない。
そうして辿り着いたのは、森の奥にひっそりと佇む
古びた教会。ひび割れた石畳、崩れかけた祭壇。
ただ一枚、色褪せぬステンドグラスだけが
月光を受けて、堂内を幻想的に照らしていた。
指先から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
忌まわしい神の御許に膝をつくとは
――なんとも皮肉だ。
ふと、視界の端に影が差す。
ぴんと立つ耳、揺れる尻尾、
チャリ、と床を打つ爪の音。犬ではない。狼だ。
ああ、獣に喰われるか。それもまた一興。
だが次の瞬間、狼は揺らめく影と共に
青年の姿へ変わった。金色の瞳が闇に光る。
「おまえ、怪我してる」
耳元で低い声が響く。
「死にたいのか?」
掠れた声で、かろうじて答えた。
「……生き、たい」
その言葉はあまりにも弱々しく、
我ながら自分らしくない。
青年――人狼は一瞬だけ躊躇したように眉を寄せ、
それから首筋を差し出した。
獣の匂いに混じる、どこか澄んだ芳香。
抗いがたい渇望が込み上げる。
ごくりと喉が鳴った。
あの夜、口にした人狼の血は酩酊するほど甘美で、
これまでのどんな人間の血よりも格別だった。
⸻
それからだ。この寂れた教会に、
しばしば足を運ぶようになったのは。
目的は言うまでもない。あの黒狼だ。
「また来たのか」
マントを翻して降り立つと、
彼は決まって呆れ声を洩らす。
その素っ気ない反応さえ、妙に気に入っていた。
「なあ、どうしてあの夜、僕を助けた?」
気になっていたことを尋ねると、
人狼は視線を逸らした。
ステンドグラスを透かした光が、
精悍な横顔を青や赤に染める。
「……ご主人が、困っている人がいたら
    助けてあげなさいと言っていたから」
ご主人――かつてこの教会に仕えていた
人間のことだという。
人狼は居場所を与えてくれた主に敬意を抱き、
その帰りを今も待っているのだとか。
「あの人は話してくれた。教会に来る者は皆、
    神の子だと」
神の子、ね。
思わず笑みが零れた。
まったく反吐が出る。
人狼という吸血鬼にとって宿敵とも言える相手が、
人間の言葉に縛られ続けているとは。
気づけば口をついていた。
「僕と一緒に来ないか?」
天気の話でもするように軽く言ったつもりだった。
だが、声の端に熱が滲んでしまったかもしれない。
人間の娘を誘う時なら、もっと余裕を持って微笑めるのに――この狼の前では、どうにも上手くいかない。
金色の瞳がわずかに揺れ、彼は唇を噛んだ。
一瞬、答えを迷うように拳を握る。
だがやがて、静かに首を横に振った。
「……おまえとは一緒に行けない」
拒絶の言葉に胸が刺される。
だが、視線の奥に確かな動揺を読み取った僕は、
口角を上げた。
「いいさ。答えは急がなくていい」
強がりを隠すように肩をすくめる。
「どうせ僕らは長生きだからね」
風が吹き抜け、ステンドグラスがわずかに震えた。
色とりどりの光が、二人の影を重ねる。
時間がかかってもいい。
いつか必ず、振り向かせてみせる。
永い永い夜は、まだ始まったばかりなのだから。