悪役令嬢

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『心の羅針盤』

ピーターは妖精と共に空を舞っていた。
雲を突き抜け、風とじゃれ合いながら、
果てしなく広がる大空を駆けていく。

ある日のこと、彼は浜辺に打ち上げられた
一人の少年を見つけた。

濡れた髪、砂にまみれた頬。
ピーターが肩を揺すると、
少年の小さな唇がかすかに開いた。

ジェームズ――どこからかこの島に
迷い込んできた子ども。
ほどなくして、二人は親友となった。

木の洞を抜けた先にある、地下の小さな家。
暖炉の前でピーターとジェームズは寝そべり、
羊皮紙の地図を広げて、
次の冒険先を話し合っている。

子どもの拙い文字で描かれた手作りの地図。
人魚の入り江、人喰いのほら穴、
インディアンの村……。

「ドクロ岩はどう?なんでも、海の底に恐ろしい
魔物がいるって噂が……ジェームズ?」

ジェームズは、どこか上の空だった。
最近の彼は、いつも心ここにあらずといった様子で、
ふとした瞬間に遠い場所を見つめている。

まるでここではない、
どこか別の世界に心を預けているかのように。

彼の手には、いつものように古びた
羅針盤が握られていた。

「それ、いつも持ってるけど」
「母さんがくれたんだ。父さんの形見だって」

ピーターが尋ねると、
ジェームズは微笑みながら答えた。

「……眠る前、母さんはいつも子守唄を歌ってくれたんだ。優しい声で頭を撫でて、額にキスしてくれた」

ジェームズの潤んだ瞳の中で、
暖炉のオレンジ色の炎が反射して揺らめく。

ピーターは胸の奥に焦燥を感じていた。
ざわめくような不安が、言葉にならない怒りとも
悲しみともつかぬ感情となって、彼の舌を震わせる。

「まさか、家に帰りたいなんて言わないよな? 
冒険に母親なんて必要ないさ」

「ピーターは母さんに会いたくないのか?」

「さあ。……覚えてないね」

それきり、ジェームズは何も言わなかった。

数日後の朝、彼は何の言葉も残さずに姿を消した。
残されたのは、二人で描いた未完成の地図と、
暖炉の前に漂う静寂だけ。

ピーターは高台から大海原を見下ろす。
視界の先に広がるのは、ジェームズが消えて
いったであろう、太陽の光を浴びてきらめく水面。
手にした地図が、悔しさで小刻みに震えていた。

どこまでも冒険して、
この地図を二人で埋め尽くそうと約束したのに。

ジェームズの心の羅針盤は――
母親の待つ、帰るべき場所を指していたのだ。

ティンクが、耳元でベルのように
清らかな音を鳴らす。
元気を出して、とでも言いたげに。

ピーターは青空を仰いだ。
彼の胸にぽっかりと空いた穴を、
潮風がすり抜けていく、そんな心地がした。

8/7/2025, 9:15:08 PM