Cはそのとき、ようやくこれがただの逢瀬でないことを悟った。
目の前には不審感、いや、はっきりとした敵意を放つ傭兵が。後ろは小路のどんづまり。
「答えろ。ここで何をやっているんだ」
三度目、いや四度目の同じ問いかけに、傭兵ははっきりともう我慢できないという色を見せていた。たとえCがどこから見ても、ただの酔っぱらいなのだとして、それでも彼は彼の職分を果たさねばならない。そのくらいはCにもようやっとだが理解できた。むしろ、問答無用で殴られていても文句の言えない状況下で、要領を得ない答えを繰り返した自分をこれだけまともに扱おうとしてくれていた彼は、この商売よりももっと公的な、城勤めのガードマンとか、そういうものに就いてほしいとすら思う。
「この街はまだ不案内で。貴族街をふらふらしていたのはよくなかったと思います。連れと喧嘩してしまって、宿に帰る道を誰かに訊きたくて。教えてくれそうな人をあちこち探してたんです。本当です」
不審者扱いされているこの状況でA****や団長の名を出すのは拙いかもしれない。Cにはそう思えた。
「......」
聞いてやれるなら聞いてやりたいし、それで手打ちにできるだろうか――そう考えているのだと、Cは傭兵の表情から読み取った。と――
「おい、そこで何をやっている」
「?!」
「え――」
傭兵の肩越しに、今一番待ち望んでいた声が飛んでくる。
「衛兵、だな?こいつが何かしたか?」
「あんたは?」
傭兵はCに向けた以上に冷静に、腰の剣に手を回し、油断なく訊く。これがこの男の本来の態度か。Cに向けていた態度がいかに抑制的で冷静だったかがCには分かった。
「少し前にこいつと喧嘩してな。つい放りだしてしまった。帰りが分からないはずだから迎えに行けと団長に叱られて、随分探したんだが。ああ、こいつの身分は保証する。A****の名で納得できるだろうか」
「あ――」
「――」
その名を聞いて傭兵は剣から手を離し、姿勢を正して踵をかちりとつけた。
「かしこまらなくていい。私たちはただの団員だ。そんなに偉くないからそういうのは慣れない」
「...はい」
Vがそう言うと、傭兵は一転して表情を崩し、Vに、そして振り向いてCに握手を求めた。
「ふふ。そうされると悪い気はしないな。行っていいか?」
「もちろんです。A****に雷剣将ブランドの加護を」
表情を緩めるVに、傭兵は最上級の敬意を示すポーズをとり、Cの後ろ、道の奥に回ってふたりを見送る姿勢を見せる。
「行くぞ」
少しぽかんとしているCに一瞥を投げ、Vは小路を出た。
「さっきは悪かったな。代わりに今夜も可愛がってやろう」
「あ、はい」
あまり人前では言わないでくださいよ、という言葉を飲み込んでCが傭兵を振り返ると、わずかにもじもじした様子の傭兵と目が合う。慌てて目をそらしたCだったが、比較的夜目の利くCには、傭兵は腰元で中指を立て、続けて親指を立てた。Cは振り向いて歯を見せて笑うと、拳を突き出し、ぐっと親指を立てて返した。
空が泣く、って言うけどさ――と苦い顔でその人は言った。
「本当に泣くんだったら、どこもかしこも沈んじゃって、陸地なんかなくなって、人間も他の陸の生き物も絶滅しちゃってなきゃおかしいと思うんだけど。というか私が空だったら雷と嵐で人間だけ滅ぼす」
途中までロマンチストっぽいことを言ってるな、と思っていたら、最後に物騒なことをつけ足す。
「だから空に感情なんてないし、神サマもいない。そうじゃないとやってられないよ」
うん、今ので言いたいことは分かったよ――と僕は応えた。
言いかたはきついし、顔も怖いから共感は得られないだろうけど、実際神も仏もないし、正義も不実も人間がその場その場で勝手に考えて喚いているだけなのだ。大真面目にそれにつき合って、生きかたを縛ったり、善悪を語ったり、ましてや断罪するなんて行き過ぎ、傲慢だ。ある意味、メメント・モリ的な享楽的な態度でいないと、やってられない。
「でも、そういうモノを作らないとまとまらなかったのかもしれないね。当時としては」
だから今は、というかこれからどうするかは――うん。迷信っていう言いかたでは彼らは納得してくれないよ。彼らがどう考えてるか、どう振る舞うつもりなのか分からないけど。
「うん。で、ええと――」
何を言おうしたんだったか――とその人は眉間に指を当てた。その指の曲げかたが妙にきれいというか、さまになっている。
「駄目、思い出せない」
この話、一旦終わり。そう言ってその人が椅子を引いて背と脚を伸ばすと、僕の脛が蹴られた。
「ちょっと」
「ごめん」
その人は謝って機敏に立ちあがると、コーヒーと紅茶どっちがいい?と訊いた。
深く美しい宵闇から、月のない晩を経て、また空に光が差しこみ始める前、夜の最後の抗いのあたりで、僕はようやく眠ることを許される。
それまでのつまらない思索の小路はいつだって、何についてだって、胸が潰されそうになる。心臓を掴まれるように。胸部を帯でゆるゆると、しかし冷酷に締めつけを増してゆくように。大昔の失敗や敗北、不見識。そしてもう避けられない未来の困窮と、手を変え品を変え、僕の心をを捕らえる。自身を罰するために、この世に出てきたのではないかと思わせるほどに。
そのくせ僕はそこから離れることはできそうになかった。薬のように、酒のように、毒親のように、僕はそれを捨てられずにいたのだ。この果てしない自罰的な時間から、僕は離れられそうにない。青年時代からの癖になってしまっている。だから昼間に集中力など残っていない。発揮できる機知もない。仕事でもプライベートでもへまってばかりだ。
自己愛と自己否定の間をさまよいながら、僕はまた宵を迎える。僕の上に覆いかぶさり、それは僕の心を掴み、この世のものとは思えぬぞわぞわした声で、深い深い小路へと僕を連れ去るのだ。
僕はもう自力ではこの沼から這いあがれそうにない。だから、誰か。僕を、僕を、こいつを裏切らせてくれ。縛って、殴って、首を絞めて、切り刻んで、燃やして、僕をあちらへ引きずりこんでくれ。頼む。頼む。頼む。
もう、僕は――ソレなしには。
「――ってあらすじなんだけど、どう?」
「うん、没。よっぽどうまく書かないといけないし、書けても売れないよ。君、そこまでの技量ないし」
「そっかぁ。そうだなぁ」
「ま、また面白い話を考えついたら呼んでよ。そしたら一緒に考えよう。コーヒー代くらいならなんとかなるから」
それは書けないよ――その人はたったひと言で終わらせた。そして、少しの間のあと気まずそうに続けた「君が僕の書くものに期待してくれてるのは知ってる。素人だけど物書きとしてこれほど嬉しいことはない。でも無理なんだ」
だって今、恋、してないんだもの。それはホンモノを、現在進行形でしてなければ分らないよ。いや、そうじゃないかな――彼はそう言って少し考える素振りを見せた。彼にしては言葉数が多いから、これは気乗りがしないから、とか、恥ずかしいからなどではないのだろう。
「恋ができるほど僕はもう若くない。いや、うん、恋をするには――」
彼が言いたいことはなんとなくだけど分かった気がした。彼は彼の半生で彼は恋をしすぎたのだ。察するにだけど、それは強烈な、勝手な言葉を作れば凶烈なものだったのだ、きっと。真面目なようで不誠実だし、諦めているようで捨てきれていない彼の面倒くさい性質を、僕は短いつきあいながらも少し知っていた。だから精一杯応えたいから書けないのだと、そう言いたいのだろう。是非もないか――そう言って引き下がろうとする僕を、しかし彼は引きとめる。
ただね――そう言って言い淀むのは、彼が何かを望んでいるときの癖だ。
「あと半年待ってほしい。それなら書けるかもしれない」
どういうことですか、と訊く僕に、彼は目を閉じ、じれったくなるほどの間を置いて続けた。
「今、もしかしたらある人に――」
惚れているのかもしれない。そう彼は信じられないほどのろのろと言う。彼が拙く雑な、斜に構えた言葉を選ぶときは、大抵が本心だ。
「顔も知らない。本名も知らない。知ってるのはハンドルネームと、その人の作品だけだ。でも、馬鹿馬鹿しいと思うだろうが――その人のモノには惹かれるんだ。僕の境地では至れないモノをその人は手にしている。ソレがたまらなく僕を引きつけるんだ。作品に惚れているのか、その人に惚れているのかも分らない。だから確約はできない。できないが――」
もしソレが本物だったなら書けるかもしれない。だから、僕がそれを見定めるまで待ってほしい――。そう、彼は子供が初恋について問われたようにためらい、声を死にかけのカラスのように低く絞って、すがるような目で僕を射抜くようにして訴えた。
「分かりました。半年だけ待ちます。あなたに幸運を」
僕は笑いだしそうになるのを努めて冷静な態度で抑えると、なるべく事務的な態度で期限を切り、立ちあがった。
ただ、これが本物だとして(そうに違いないが)、これが叶うことはないだろう、と判じた。彼は率直すぎる。あの態度では、その人の前で必要なことなにひとつできないだろう。それがもたらす歓喜でほとんど死んだようになっている彼のままでは。
でも、それでも。
僕は彼にもう一度幸運を祈って彼の手を握ると、ようやっと彼の部屋を辞した。
ヒトは多くのものを失いながら生きるモノだ。だからといって失っていいものと嫌なものはある。昨日の夕飯がカレーだったか干し肉だったかなんてどうだっていいし、最後に夕立に降られたのが2週間前だろうが半年前だろうが違いはない。
逆に、娘時代からのこだわりとか、気に入っている人間の、気に入っている所以だとか、何を生きる理由にするかとか、そういうものを失うのは、ひじょうに大きい。身体のどこかを失うことと同列だ。それらは自分というモノを成り立たせることなのだから、決してオーバーなたとえではない。
だから、奴が死んだことに触れるたびに、どう始末をつけたものか、それは困惑させられるのだ。そういう気配は出していないつもりだったが、実際はどうなのだろう。奴を愛玩動物のように見ていたことは否定しない。呼べば向こうから寄ってきたし、身体を求めれば喜んで差し出してきた。私なりに可愛がってやったつもりだったが、奴にはそれでよかったのだろうか。そう、思わないこともない。最初に見せていたちりちりとした雰囲気が奴の本来の性質だったのなら、それをねじ曲げずに引き受けてやっていたらどうだったのだろう、とも思う。だが、どれだけ遡ろうと思索を重ねようと、そんなものは掴みようがないし、掴んだところで納得を伴わなければ意味がない。
どうかされましたか、という馴染みのバーテンダーの言葉に適当に応え、すっとグラスに残った酒を呷ると私は彼に世辞を言い、代金を支払って立ちあがる。言われたこともないことを言われた彼はちょっと意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻っていつもの挨拶をする。私は軽く手を振って酒場の扉を押した。
昼の強烈な日差しを顔に受け、私は顔をしかめた。
そうだな、顔見知りに会おう。私にはまだ、気に入っている奴がいるのだ。この街に。
そう決めると、私はぐっと拳を握りこんだ。