ドルニエ

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 それは書けないよ――その人はたったひと言で終わらせた。そして、少しの間のあと気まずそうに続けた「君が僕の書くものに期待してくれてるのは知ってる。素人だけど物書きとしてこれほど嬉しいことはない。でも無理なんだ」
 だって今、恋、してないんだもの。それはホンモノを、現在進行形でしてなければ分らないよ。いや、そうじゃないかな――彼はそう言って少し考える素振りを見せた。彼にしては言葉数が多いから、これは気乗りがしないから、とか、恥ずかしいからなどではないのだろう。
「恋ができるほど僕はもう若くない。いや、うん、恋をするには――」
 彼が言いたいことはなんとなくだけど分かった気がした。彼は彼の半生で彼は恋をしすぎたのだ。察するにだけど、それは強烈な、勝手な言葉を作れば凶烈なものだったのだ、きっと。真面目なようで不誠実だし、諦めているようで捨てきれていない彼の面倒くさい性質を、僕は短いつきあいながらも少し知っていた。だから精一杯応えたいから書けないのだと、そう言いたいのだろう。是非もないか――そう言って引き下がろうとする僕を、しかし彼は引きとめる。
 ただね――そう言って言い淀むのは、彼が何かを望んでいるときの癖だ。
「あと半年待ってほしい。それなら書けるかもしれない」
 どういうことですか、と訊く僕に、彼は目を閉じ、じれったくなるほどの間を置いて続けた。
「今、もしかしたらある人に――」
 惚れているのかもしれない。そう彼は信じられないほどのろのろと言う。彼が拙く雑な、斜に構えた言葉を選ぶときは、大抵が本心だ。
「顔も知らない。本名も知らない。知ってるのはハンドルネームと、その人の作品だけだ。でも、馬鹿馬鹿しいと思うだろうが――その人のモノには惹かれるんだ。僕の境地では至れないモノをその人は手にしている。ソレがたまらなく僕を引きつけるんだ。作品に惚れているのか、その人に惚れているのかも分らない。だから確約はできない。できないが――」
 もしソレが本物だったなら書けるかもしれない。だから、僕がそれを見定めるまで待ってほしい――。そう、彼は子供が初恋について問われたようにためらい、声を死にかけのカラスのように低く絞って、すがるような目で僕を射抜くようにして訴えた。
「分かりました。半年だけ待ちます。あなたに幸運を」
 僕は笑いだしそうになるのを努めて冷静な態度で抑えると、なるべく事務的な態度で期限を切り、立ちあがった。
 ただ、これが本物だとして(そうに違いないが)、これが叶うことはないだろう、と判じた。彼は率直すぎる。あの態度では、その人の前で必要なことなにひとつできないだろう。それがもたらす歓喜でほとんど死んだようになっている彼のままでは。
 でも、それでも。
 僕は彼にもう一度幸運を祈って彼の手を握ると、ようやっと彼の部屋を辞した。

9/12/2023, 1:12:23 PM