ドルニエ

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9/29/2025, 8:06:40 AM

 ひとつの王家の治世が、ひとつの国の繁栄が、ひとつの町の活気が、ひとつの家庭のぬくもりが、ふたりの間の愛情が、ずっと、ずっと、ずっと続きますように。人々はそう願う。それはなにひとつ滑稽ではない。俺だって、俺のいまの気持ちがずっと続いて、あのひとのそばにいられたら。そう願う。ただ、それが誰にとっても素晴らしい、美しい、祝福されるべきものでないことも往々にしてある。もし、俺のこの気持ちが、その対象、あのひとにとって迷惑なものであったなら、端から見ればその気持ちなどとっとと潰えたほうがそのひとのためということになるだろう。だから、いまここで安穏と寝そべって、甘い思いでいられるのは、俺にとって最上の幸せなのだと思う。
 お互いに湯を浴びて、きちんと服を着て、背を向けあって寝ている、この状況。消えかけた噛み跡、薄紅色の跡、胸のなかにだけある口づけのあと。そして身体の内側で燃えつづけている酒の火照りと、鈍い股ぐらの痛み。それは数日もすれば消えてなかったことになっている彼女と俺の肉欲の証。この苦痛が消えることなく累積され続けるのであれば、さすがに俺も彼女のもとから逃げだしていただろう。耐えられるものと耐えられないものは間違いなくある。その範囲で享受する苦痛を選り好んで、選りわけて、俺は引き受けている。なんとも都合のいい話だと思わないこともない。それでも。
 あなたが許して、俺の耐えられる限りで、ここにいたいです。
 わがままだ。そんな言葉が俺のうちで鳴る。堅く、厳然として、そのくせ内側でもろもろに腐った理、老人たちと俺たちが脈々と引き継いできたものが笑う。
「っふふ、」
 だったら何なのだ。その反対側にある俺の欲望が幼い牙をむいてせせら笑う。それに殉ずることを俺に放棄させたのはお前たちではないか。その堅牢さが俺を――
 暗く、拙く、狂暴な俺の感性を、酒臭い息と、それをこぼしている唇が散らした。
「ヴィオラさん」
「うるさい。寝ろ」
「――」
 言葉も、身じろぎもなにひとつしていなかったと思うのだが、いつの間にかすぐ後ろに来ていたあのひとのごくごく短い言葉が俺を射すくめる。
「お前が何で、どこから来たかなど知らん。でもな」
 お前は私のものだったのだろう?
 ちろ、と裂けた耳に舌が這う。
「はい。僕は、」
 身体を反転させてあのひとに向きなおると、俺は唇同士を合わせて、それから深く開いた胸板に顔を寄せる。
「ここにいられるのなら」
「ああ」
 その言葉とともに頭が抱えられ、引き寄せられる。
「寝ろ」
「――はい」
 この堕落の先に、俺は本当に俺にとって意味のある場所に至れるのだろうか。
 いや、意味など。
「――、――――」
 久しぶりに口にする故郷の言葉で、これまでとこれからの俺の気持ちを形にして、俺はそこに深く顔を埋め、目を閉じた。

9/27/2025, 9:42:38 AM

 入りますよ――と扉を叩くと、中から意味の読み取れないものすごく短い返事が返ってくる。経験からそれが肯定を意味することが分かっているので、肘でノブを動かして体で押し開ける。そして体のむきを変えて、俺は返事が曖昧だった理由を知った。
 腰のあたりに放置された端末、こちらに背をむけて横たわったあのひとの小さく見える背中。そして今日の日づけ。それらの集積が、目の前の光景が何を意味しているのかを示していた。
「コーヒー、持ってきました。飲めますか?」
「ん――」
 ごろりとあのひとがうつぶせになって、首だけでこちらを見る。
「甘いのがいい」
 これもまた少しは予想できていたことなので、すぐに戻る旨のことを告げてから部屋を出て、同じ階の細々としたものを置いている部屋から、あのひとのお気に入りの砂糖のスティックをわし掴みにして部屋に戻ると、あのひとは起きあがってカップを手に、息を吹きかけながら待っていた。俺はベッドの縁に腰かけると、持ってきたスティックを彼女の前に置き、頬に唇をつけると黙って部屋を辞した。
 こういうときのこのひとへの妥当な対応は、黙ってそばにいるか、黙って立ち去るかのどちらかであることが多い。今回は後者だろうという判断によるものだった。
「ご苦労」
 戸の前で声をかけられ、俺はほんの少し頷いた。
「ヴィオラさん。夕飯、ごちそうにしますね」
 ノブを掴んで押しこむ。
「余計なことはしなくていいが。美味いものは食べたいな」
 その言葉を背中で聞いて、後ろ手に扉を閉める。
「ふふ、」
 笑みが浮かぶ。
 ゴーサインが出た。だから。
 ――覚悟してくださいね、僕の本気。
 俺は冷静さを自分の顔に貼りつけると、空いた盆を手に事務所へと降りていった。

「――」
 ちょっと拙い方向に誘導してしまったかな、と砂糖を入れ終えた私は扉のむこうから伝わってくる気配に身震をする。こういうときのカルはとどまるところを知らない。
 まあ、ああいう暴走を受け止めてやるのも、あれを煽りつづけてきた私の役割かもしれない。それにしたって。
「あれをああいう風に育てたやつの家族。一体どういう教育をしてきたんだか」
 そうつぶやくと、私は冷めつつあった甘すぎるコーヒーをすすった。

6/30/2025, 9:54:54 AM

 ある日、ある町に訪れたときのこと。ヴィオラさんは着くなり「仕事」がある、と言ってどこかへ行ってしまった。ので、俺は久しぶりにギルデロイさんとふたりで酒場にやってきていた。
 彼からは商売の技術としてではない、人の内面、心の動きやかけひき、そういったものを教えてもらうことがある。商人というものは普通、自身の商売を他人に教えるということをしない。彼に言わせれば旅団にやってきたときの俺が、あまりに世間知らずでかけひきの”か”の字も知らない、危なっかしくて放っておけない子供だった、のが理由らしい。そのあたりについて否定するつもりはない。世渡りや落としどころ、そういうものに縁のなかった俺が、そんなものを身につけている道理がなかったからだ。いまだってそういう部分にかけてはようやっと人並みに追いつきつつある、といった水準だろうし、当たり前の話、ギルデロイさんなどには遠く及ばない。
 もっともギルデロイさんは言葉で語ることはほとんどない。言葉では伝えきった気になってしまう、理解しきった気になってしまう。それで終わらせるには俺は少々惜しい人間――なのだそうだ。買いかぶりの気もするが、真剣に教えてくれるつもりなのが分かると、こちらも真面目に学ぶ気になる。
 そういうわけで、基本的には市を歩きながら、酒場で酌み交わしながら、というのがお決まりのスタイルになっている。今日は後者で、大体の酒場と同じく騒がしいなかで特に何を話すでもなく飲み食いしていた、そんな状況だった。
「こいつをどう思う?」
 そう言ってギルデロイさんがポーチの奥から出してきたのはひとつの青い、楕円形に磨かれた深い青の石だった。俺は何気なく受け取ろうとしたのだが、触れる瞬間に流れ込んできたもののおぞましさに反射的に指を引っ込めてしまった。
「どうしたよ?」
 そう問うてくるギルデロイさんに俺は頭を振って、ごまかすように酒を多めに流し込むと、石を目の前に置くように頼んだ。
「海の近く、あまりいい商売をしていない商人のものだったようです」
 石の青を見据えてゆっくり言葉を吐きだす。ギルデロイさんはサンシェイドの宝石商から仕入れた旨のことを口にしたが、そういうこともあるよな、と声のトーンを落とした。
「その商人が、娘に贈ったもの、みたいです。娘は体が弱かった、ようで、それでもよく身につけていた。それが狙われて、強盗に...父親、商人は不在だった。母親が娘の前で暴行されて、娘は喉を、穿たれて亡くなりました。母親もすぐに殺されて、石は別の土地に運ばれていった、ようです」
 石に残った恨みの残り香のようなものが、触れようとしたわずかな時間で、こびりついた潮ごしに伝わってきていたのだ。そういうことを、俺は拙い言葉でギルデロイさんに伝えると、ギルデロイさんは難しい顔をして椅子にもたれかかった。
「なんだってそんなことが思いつ――いや、分かるんだい」
「分かるというか、勝手に伝わってくるというか。ギルデロイさんだって相手の気持ちを読むのは得意でしょう」
 そうとしか言いようがなかったので、ごまかすように少し生意気な調子で言うと、ギルデロイさんはいよいよ不味い酒に当たった美食家のような顔をして、じゃあ占いの類かい、と毒づくように言った。
「あとは、そうですね。宝石の価値をはかるとき、言葉や数字であらわせないものってある――んですよね。相場や流行だけでもつけられない値打ちといいますか。そういうものなんですけど」
 まあな、とギルデロイさんは腕を組む。俺は毛色的にはそんなもんです、と言うが、ギルデロイさんはやはり納得できない、というような顔をしていた。
「――まあ、もしそうなら、お前はグランポートの船には乗らないほうがいいかもな」
 少しの空白ののちにぽつりとギルデロイさんが言った。俺は少し考えたのち、ガ・ロハの名前を出した。
「ああ。あのときは本当に酷かった。団から死人が出なかったのは奇跡みたいなもんだったよ」
「俺は伝え聞いただけですけど」
 様子を気にしていた老人たちが数日寝込んだというから、よほどの地獄だったのだろう。指輪の影響もあったのかもしれないが、人間の欲の深さ、という表面的な言葉だけでは片づけられない重々しさがふたりの間に淀んだ。
「まあ、たしかに俺たち宝石商は因果なものを扱ってるのかもな。ただきれいなだけのものでよければガラス玉でも売ってたほうがよほど気楽だ」
「......」
「それでも俺たちは惹かれるのさ。大地の底で誰のためでもなく生まれて、その美しさで俺たちを魅了する、意味の分からない巡りあわせにさ」
 そうかもしれない。石の価値など、人間が寄ってたかって掘らせて選んで磨かせて、精緻な細工ものと合わせて、そんな迂遠な無駄の果てに抱かせる思いがせいぜいがところきれい、だの神秘的、だの、その程度のものなのだ。
 そんなもののために生活をかけ、人生をかけ、命も捨てさせる――その上澄みのようなものを扱うのが宝石商なのだ。愚かで滑稽な商売、なのだろう。
「そのために、こんなに長い間旅を続けてるんですね、ギルデロイさんは」
「おうよ。底なしの間抜けさ」
「そして俺は、ひとりの女性を追いかけて、そのそばにいるためだけに大陸を駆けずり回るど阿呆なわけですね」
 俺がゴブレットをギルデロイさんに向けると、彼もからからと笑って彼の器のふちを合わせた。
「ま、そういうわけだ。お前さんとの旅がいつまで続くか分からんが、それまでよろしくな、馬鹿弟子」
「ええ、よろしくお願いしますよ。アホ師匠」
 できれば――とギルデロイさんが丁寧に布で包んでしまい込んだ石にまとわりついた潮の名残りに意識を向ける。
 あんたを持ち主のもとに返してやりたいけど、その前に売られてしまうんだろうな。
 まあもしどうしても、であれば――
 名うての盗賊に依頼するのも手かもしれないな。
 そんなことを考えながら、俺は次の一杯に何を頼もうか、と、カウンターに並べられてぎらついた輝きを放つ瓶たちに、最高に俗悪な視線を投げるのだった。

6/1/2025, 2:19:16 PM

 リバーランドのとある町。川沿いの宿の一室。屋根を打つ雨粒と、この町に着く前から続く長雨で増水した川の音が閉じた窓ごしに聞こえ続けている。俺は海沿いの村で暮らしていたから水の音には安らぎを感じるほうだ。夕方からあのひとと飲みに出る約束をしているから、言い換えればそれまでは暇だ。ベッドに横たわって天井の木目を眺めていると、徐々にそれが波の描く模様に見えてきて、懐かしいような、虚しいような、そんな気持ちになってくる。
 母も父も子供のころから村で冷遇されていたと聞いていた。どちらも体が小さく、村に貢献することはできずにいた。いまにして思うに、一族として出来が良くない者同士をくっつけることであわよくば消えてなくなってほしい。俺が生まれたときも、すぐに死んでしまうに決まっているのだから好きにさせておけ――そういう老人たちの思惑があったのだろう。その結果がいまを招いているのかもしれないと思うと、数奇とか、運命のきまぐれとか、そういう言葉では片づけられないものを感じることもある。ただ、何にせよ俺はあのひとのもとで、俺にとって最良の未来を引き寄せなくてはならないことに変わりはない。
 故郷にいたころが「降り続ける冷たい雨」なのだとすると、いまは「遠くに見えてきた晴れの兆し」なのだろう。
 ただ、最上の結末を迎えるには、俺ひとりの手ではどうしようもない。何人もの手と、いくつもの偶然を呼び込む必要がある。
 だから――
 コンコン、と部屋の戸が叩かれる。
 ベッドから半身を起こして扉を見る。短く返事をすると、あのひとの声が扉ごしに聞こえてきた。
「私だ。少し早いが迎えに来た。開けてくれ」
「はい、すぐに」
 急いで靴を履き、戸口に向かう。
 戸を開くと、あのひとは断ることなく俺の脇をすり抜けて入ってきて、部屋の真ん中あたりでこちらを振り向いた。
「どうせぼんやりとしていたんだろう?ほら」
 あのひとはとん、とテーブルに酒瓶を置き、反対の手に提げていたグラスを俺に示す。
「私も暇でな。少しつき合え」
 がたりと椅子に腰を落とすと、俺にベッドに座るように促して懐から取り出した栓抜きであっという間に抜栓し、とくとくと音を立ててふたつのグラスを満たしてそのひとつを俺に向けて差しだした。
「飲め」
「――はい」
 俺はそれを受け取ると、ほんの少しその香りを嗅いでひと口だけ口にする。あのひとはそれを見てす、と自分のグラスを一気に空けた。
「悪くないだろう?」
 あのひとの目に灯る光が凶暴さを増す。俺はそれを見ながらさらにグラスに口をつける。
「ええ。あなたらしいお酒ですよ」
 繊細なのとは明らかに違う。重厚さとも少し違う。攻撃的で情熱的な、そんなタイプの赤だ。
「はは、分かるようになってきたな」
 うれしいぞ、とあのひとは破顔すると、立ちあがって俺の胸倉を掴んで引き寄せる。
 もちろん俺は抵抗しない。
「カル」
「ん、」
 このひとの求めているのは問うまでもない。考える必要すらない。俺はあのひとが酒を口にするのを待って唇を重ねた。
「ん、ぐ」
「――」
 温まる前のスパイシーで奥行きのある味が俺の口に注がれる。二度、三度と。
「ちゅ、は――」
「ん、んふ、」
 気がつくと俺の頭の後ろには枕があって、逃げられない状況になっている。そのうえ頭の後ろには腕が回されていて、いよいよ逃げられない状況になっている。
 ん、あ。ヴィオラさん。
 暗い欲望の灯った目をしているのはおそらく俺も同じ。
 それでも、俺にとってはこのひとのこの目こそが、このひとが追い込んでゆく堕落が。
 暗く深い、星ひとつない俺の「空」なんだ。

5/25/2025, 11:24:04 AM

 このひとといてこれだけ穏やかな時間を過ごすことは極めて稀なのではないか――ベッドの上で俺は考えていた。
 貴重な休暇の昼下がり。2日目の今日が終わり、順調に補給が終われば明後日にはまた旅が始まるだろう。昨日の夕方、珍しく大人数で酒場へ行き、途中で抜け出してお決まりの宿に。その後は、まあ、言うまでもないことを。
 窓の外ではぱらぱらと雨が屋根を打つ音がずっと続いている。灰色の単調な空が俺たちの気だるいいまの気分を形づくっているのかもしれない。
「ヴィオラさん」
「ん?」
 背中越しにあのひとが動く気配がする。おそらく彼女もむこうを向いてぼんやりしていたのだろう。俺も彼女に向きなおり、目を見る。眠そうにしているくせに、それでもそこには尽きない火が宿っているように見える。触れるだけの口づけをすると、ヴィオラさんは片肘をついてこちらを見おろす。その歪んだ口もとにとくりとするものを感じるが、さすがに昨日の今日でまたそういうことをする気にはならない。俺にそこまでの体力はないし、彼女にその気がないのは見ていれば分かる。
「僕、ここにいられるよう頑張ります。あなたに飽きられないように」
 好き、愛しいという気持ちがそんな言葉を吐かせる。
「カル、お前。ここにいるのに頑張る必要なんてあったのか?」
「――」
 指が伸びてきて、眉間をなぞられる。
「お前はお前の好きなように振舞っていただけだろう。私も私のしたいようにしてきた。それだけではなかったのか?」
 鼻のてっぺんを通って、口もとに指が下りてくる。2、3度唇をつつかれる。
「だったら少し、残念だな」
 つぷ、とそのまま指が侵入してくる。舌先がもてあそばれる。
「私はお前に努力させていたのか?」
「フィオラさん」
 指が抜かれ、指は再び下がりはじめる。顎を伝い、首筋をなぞり、胸もとに滑り込んでゆく。くすぐったさに息がもれた。
「僕――また欲しくなっちゃいます。ん、」
「その言葉も、狙ったものなのか?」
 胸骨に貼りついた薄い皮膚がかり、と刺激される。
「あ、ふ。そんなわけ――ないです。すき、です。ヴィオラさん」
「吐けよ。お前の欲望。お前のその苦しみ。お前の負っているもの。全部吐いちまえ」
 爪が立てられ、皮膚が薄く傷つけられた。
「あ、痛――」
 俺からも指をのばして彼女の首に触れ、続けるように体を寄せてケープに顔を埋める。
「甘えたやつ」
「はい。ここにいたいです」
 彼女の両腕が頭を包んできて、引き寄せられる。
「好きです。これからも、たくさん、ヴィオラさんのものにしてください」
「――好きにするさ」
「はい」
 ここには俺と、ヴィオラさんしかいない。
 いまこのとき、A****も、俺の旅も、なにもかもがなくなって、ただこのひとだけがいる。
 そんな至福の時間。
 そんな昼下がり。静かな雨音が閉じ込めた宿の一室のこと。

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