自分からにじみ出ているものの雰囲気で、それは自分が恋ではなくなっていたことに気づいた。それが恋でいることで心は甘く苦しみ、思考に命令をして考えさせ、思考は渋々それに従う。
「いくら時間をかけて考えてもよ、心のやつのひと言で全部ご破算になるんだからやってられないよ。裁判所に話をもっていってやりたいくらいさ」
思考がこっそりこぼしていく愚痴は、それにはよく分からない。気持ちである恋、だったものには複雑だったり抽象的な言葉はないからだ。思考はそれを承知でしばしば愚痴をこぼし、そして心から大目玉を食らう。よせばいいのに、と気持ちは思うのだが、それでも何度も来るということは、思考も吐き出さないとやっていられないのだろう。
恋だった気持ちは、では今の自分は何なのだろう、と思う。喜び?悲しみ?失望?憤怒?他の気持ちたちもどんどん変わり続けるから、すれ違う相手がなんなのか、気にしないようになっていた。ただ、この宿主の気持ちはずいぶん減っているように思う。以前――どのくらい前かは分からないが、気持ちはもっと多かった。今はもう、半分くらいの気持ちはどこかで休んでいるようだ。人間であれば羨ましいとか、妬ましいとか考えるのだろうが、元恋のそれには休むという発想はない。ただただ自分であり、その時々の気持ちの役割を果たすだけなのだ。
心のなかをふわふわ漂っていると、心が虚しさを訴えはじめるので、自分の今の姿は虚しさなのではないかと思った。気がつけば、まわりの気持ちたちも自分と同じようなものをにじませている。
そうか、虚しいのか。気持ちはまた思考が愚痴を言いにくる気配を感じ、ほんの少し眠たさを覚えた。
ハンドガンを一丁、それが撃てる弾を一発。それがやくざが要求された礼の品だった。青年の拙い手出しで迫ってきていた刑事たちから逃れられた彼にとって、それはあまりに簡単で、少し面倒なしろものだった。決して犯罪に利用するつもりはない。指定した場所、指定した時間以降に来てくれれば、銃は回収できる――そんな冗談のようなことを青年は言っていた。チェーンのカフェで脅すような、すがるような目でそれを口にしたその理由を、やくざは即座に理解した。理解できてしまった。
だったら俺が「それ」をしてやってもいいんだぞ――そう凄んでみせるも、余計な罪状を背負わせるのも嫌だ、と青年は固辞した。やくざにとってみればどっちでもいいことではあったが、ことをスムースに済ませるには自分が出を下したほうがずっといい。このひょろひょろした青年が土壇場で逃げ出すことだって充分ありうる話だ。だから、やくざはそう提案したにすぎなかった。が、青年は自分で始末をつける、そう言って譲らなかった。彼が何を思ってそれらを要求したのか、そんなことにやくざは興味を惹かれなかった。どこにでもある現実逃避だ。おおかた、働くのが嫌だの、親兄弟とのいさかいが面倒だだの、女といい関係になれなかっただの、そんなところだろう。くだらない。やくざは深煎りのブレンドの、わずかに残っていたのをあおり、分かった分かった、分かったからさっさと帰れ。モノは明日お前の家のポストに入れておいてやるから住所を教えろ、と紙ナプキンを青年の前に滑らせた。青年は胸ポケットに収めていたメモ帳からペンを抜き、几帳面そうな手つきで下手な字を書いて返してよこす。やくざは眉間にしわを寄せてそれを読み、立ちあがった。
やくざは別のカフェで、青年の要求どおりのものを青年のアパートに届けるよう要請する内容のメモを書いて封筒におさめ、郵便局で手続きを踏んだ。この時間であれば今日中に支部に話が届き、明日午前には青年の要求したものが届けられるはずだ。郵便局から出たやくざは、信号を待ちながら何をやっているんだろうと自分に問うた。青年の要求など放っておけばよいのだ。彼にやくざを追いかける力などない。当然、組織の名も自身の本当の名前も教えていない。彼のことなどさっさと忘れ、ほとぼりが冷めるまで適当な支部で大人しくしていればいいのだ。警察など「上」に金と利権さえ与えておけばどうにでもなる。むしろ青年の要求を素直に聞くほうがリスキーなのだ。
とはいえ、すでにメモは預けてしまっている。下手にキャンセルして印象に残られるほうが面倒、ともいえる。だから――
なりゆきに任せる、か。
やくざは人の流れに乗り、そして街に消えた。
当初の予定通り、やくざはいくつかの県境を越え、とある地方都市のとあるアパートでつまらない日々を送っていた。警察の追及などもちろんない。最低賃金のつまらない仕事をちまちまとこなし、しみったれた給料と組織からの送金で、倹しくしていれば特段不自由のない日々を送っていた。青年の指定した場所から銃も回収できたと聞いている。
報告の翌々日、やくざのもとに大きめの封筒に入った青年からの手紙が届けられた。銃を回収した際、そのそばに置かれていた――落ちていたのとは違うらしい。なんとかというゲームのロゴの彫りこまれた、使われた形跡のないジッポーの下に置かれていたという話だ――封筒が、ご丁寧にもやくざのもとに回って来た、というだけのことだ。
封筒の中にはさらに封筒が入っており、ひとつはやくざに向けられたもの、そしてもうひとつは青年の知人に宛てられたものだった。やくざへの手紙にはそれがどんな相手なのかは書かれていなかった。ただ、どんな内容が記されていたのかは想像がつく。だからやくざは黙ってそれをポストに投函してやった。それでこの問題は時間がすべてを覆い隠すだろう。やくざが法廷に立つこともない。青年の――が見つかるかどうかは分からない。青年の知人はしばらくは重いものを抱えるだろうが、それこそ時間の問題だ。いずれ、その知人も元の生活に戻るだろう。だから、何も気にすることはない。
それだけのことを思い、やくざは帰宅後のシャワーを浴び、夕食にと買ってきた弁当のふたを外し、冷蔵庫で充分に冷やされたチューハイのプルトップを引いた。なんでもない、ごく普通の日のごく普通の夕焼けが鮮やかな夕のひと幕のことだった。
「おい」
窓辺から身を引き、ギターをケースにしまい、休もうかとベッドに身を横たえてしばらくして、そんな声が聞こえた気がして、俺は身を起こした。
「――」
それは夢か、幻覚か。そう思った。癖の強い髪が月の光に透けているように見えていたから、あるいは、シルエットが光を帯びているように見えたから。もしくは、あまりに甘い気持ちでいたから、それが目の前の影を呼びさました――とすら感じていた。いささか文学的すぎるが、それにしても都合がよすぎるというものだ。たとえ彼女が一流の盗賊なのだとしても。
「何を呆けている?それとも私の姿など憶えるほどのものではなかったか?」
「あの。本当に、」
あなたなんですか?
ベッドからすとんと降り、肩を掴むと、それが実体のあるもの、つまり本物のあのひとであることが分かる。
「どうして」
二歩ほど下がってあのひとの目を見あげる。裸足でいるためか、いつもよりわずかに高い位置にあるブラウンの目が静かにこちらを見据えている。
「呼んだのはお前だろう」
そう、一歩そのひとは踏み出す。俺はそれに合わせて下がろうとして、ベッドに突き当たって体勢を崩すと、目の前の影がしなやかな動きでそれを踏みとどまらせた。そのままいつもよりはソフトに抱かれる。
「危ういやつ」
その振動を感じて、俺はようやく相手の背中に腕を回した。ふたり分の力で引きあっているのに、今日はそれほど苦しくない。ほんの少し月明かりが眩しい。
「聴いていたんですか?あの歌を」
「意味は分からなかったがな。前よりはうまくなったんじゃないか?ああいう歌も」
――前聴いたときは甘ったるくてとても聴いちゃいられなかったぞ。
宿の人に怒られないようにずいぶん音を絞ったつもりだったんですが。そう言うと、私を何だと思っている、とあのひとは返してくれた。
普段とは違う種類の抱擁。あのひとも、俺も、相手の身体を求める気持ちはたぶんない。しばらくそのままでいると、あのひとは来い、と言って窓枠に足をかけ、すぐそばに張り出している屋根に飛び移った。
「ちょっと」
俺は及び腰になりながらもそれに続く、当然、あのひとのように静かに飛ぶことはできなかった。
「まあ、落ちなかっただけでもいいか」
そう言って屋根のてっぺん、棟と呼ばれる場所に腰を下ろし、手で隣に座るようにあのひとは促した。
「今日は飲んでないんですか?」
俺はそう言いながら少し間をとって座る。あのひとはそんなわけないだろう、そういってどこからともなくスキットルを出すと、蓋に酒を注いでこちらに渡し、自身は直接注ぎ口を舐めた。彼女のいつも飲んでいる蒸留酒の匂いが鼻をつく。
「カージェスとポーラを酔いつぶしてやった」
「またそんな――」
ちゃんと部屋まで送ってあげたんですか?と問うと、それは居合わせたやつに押しつけてやった、と応えてあのひとは声を出さずに笑う。そうして、俺はようやくあのひとの息から酒気を感じるようになる。
「ほら、お前も飲めよ」
さらにスキットルをひと舐め。それを見て俺はようやく蓋に口をつけた。
「ん、――ふぅ」
やはり蒸留酒をストレートで口にするのはきつい。こんなところに割るものなどない。そんな風に飲んでいると私に襲われるぞ?そう、あのひとは俺の空いた手に自身の手を重ねる。
「でも、そんな気分じゃないのでしょう?今日は」
分かってますよ。そう言って俺は蓋のふちを舐めた。
深い緑の空を貫く月の光と、遠くを流れる雲。遠くからはまだまだ酒場の喧騒が聞こえてくる。
「お前はまだA****に、私についてくるつもりなのか?」
「はい」
こちらを見ることなく問うあのひとに、俺は短く応える。
「あなたこそ、僕に飽きてしまいましたか?」
「――」
あのひとはこちらの問いには応えず、言葉を重ねた。
「ウッドランドのさる領主とその妻はな、それぞれ夢を追って強欲の魔女に取って食われたそうだ。お前もそうなりたいか?」
「それは、」
どういう意味ですか、と問おうとして留まる。そして考える。
「それは僕にも、そしてあなたにも分からないことなのではないですか?もしそうなら、僕はとっくに『食われて』いるんじゃ?」
そう言うと、あのひとは罠というものは十重二十重に仕込むものだ。自分で手を下したくないなら、仕掛けは大きくなる。逃げ道を少しずつ狭めてゆき、いつの間か逃げられないようになっている。それが罠だ。そう言いながら、俺の手の甲の骨の出ている部分を指先でなぞる。
「それに、あなたはそんなことはしない」
きっと、僕相手なら自分で始末するでしょう。俺は俺の手をなぞるあのひとの手に、空いた手を重ねる。
「そうかな」
「はい」
蓋を慎重に平らな部分に置いて体を少し離すように座りなおすと、俺は両手であのひとの手をとった。こちらを向いたあの人の顔は半分陰になっている。俺はその中に光るあのひとの目を見る。削ぎ落ちかけた耳がじんじんする。
「僕は弱い人間です。よほど頑張らないとあなたに対抗すらできません。でも、あなたのそばにいたい。これからも、今も、きっと当分それは変わらないでしょう」
俺は弱い。だから、でも、あなたのそばにいたいんです。
「あなたさえよければ」
こんな不安定な場所でなければいつものようにすがりついただろうか。
あのひとは俺の後ろからスキットルの蓋を取ると、中身をひと息に飲み干した。
「先々のことは何も約束しないぞ?」
「はい」
距離を保ったまま、あのひとも俺の目を見る。柔らかいが強い眼差し。
「――、―――― ――」
故郷の言葉にふしをつけ、流れと抑揚をもたせる。低く低く、このひと以外に聴かれないように。
「――――、―――― ――」
あのひとは意外そうな顔をしたが、黙ってそれを聴いてくれている。
「――、―――― ―― ――」
それは先ほど歌ったものとは部分的に同じだが、流れも並びも異なるものだ。俺自身覚える気もない、その場限りのもの。
「―― ――、――――」
「――」
「ありがとうございます」
歌い終わると、俺は握ったままでいたあのひとの手に唇を寄せた。
「戻りましょうか。少し冷えますし」
「そう、か?」
「ええ」
俺は腰をあげると慎重に棟を伝い、少し不格好に部屋に戻った。
あのひとは窓辺までついてくると、ではな、とだけ言って音もなくどこかへ消えていった。
またとないほどの月夜はすぐに終わる。陽が多くのものを照らし、暴き、晒す。人々が行き交い、話し、争い、別れる。そんな日がまた訪れる。だから僕らもあんなことをして、あんなことを口にした。それだけの夜だった。
あの人は今どこを旅しているんだろう。俺の*を*****たあの人は。
毎日がオルステラの言葉、オルステラの風習、オルステラ人の振る舞い、そんなものの勉強だ。老人たちを言いくるめての、「復讐」の旅の準備だ。老人たちが用意したそのスペースにむかって、毎日熱心に異国の言葉をつぶやき、見たことのない身振りをしている俺が、他の村人たちにどう映っているのかはなんとなく分かる。
謎、酔狂、無駄、気がふれた――そんなところだろうか。
とはいえ、普段から大して役に立たない俺が毎日こうしていても誰も困らない。せいぜいいてもいなくても困らないやつが、仕事をさぼって訳の分からないことをしている、困った話だ――という程度だ。
そう思われていても、もう悔しくもなんともない。もともとこの村における俺の評価は低い。力もない、無駄な技術だけはもっている、見張りだけなら人並み。そのうえ、仲間を見捨てて、怪我だけして帰ってきた臆病者。両親が死んでからはずっとそんな扱いだった。だから、ここにいつづけたいと思う理由はない。むしろ出ていくことが許されてせいせいしている。そのための努力ならいくらでもしてやる。そう思う。
「カルロス。今日のご飯と差し入れ」
そう言って俺のすぐ後ろに、俺の取り分にちょっとした色をつけた食料を置いてくれるのは、この村で数人しかいない、俺を少しは好意的に見てくれる稀有な仲間のひとりだ。俺は目の前のものから意識を外し、長いことじっとしていたために思うように動かせなくなってしまっていた身体を反転させてその人を振り向き、礼を言う。
「君がどうしてこんなことを始めたのかは分からないけど、あまり根を詰めないで」
ごくごく小さな声でそう言ってくれる変わり者に礼を言うと、持ってきてくれたものをひとつ、がりがり、ごりごりと音をたてて飲み込める程度に噛み砕くと、ごくりと飲み込む。
「美味い。いいところを持ってきてくれたんだね」
「そう。みんな心配してる」
みんな、とはもちろん俺に好意的な変わり者たちのことを指す。
「そんなに大事なの?その復讐って」
君がひとりでここを離れることが心配だよ、そう言葉を続ける。
「答えることはできないんだ。それでは駄目かな?」
「……そうなんだ」
「さすが」
表面的にはほとんど意味をなさない言葉の裏を、目の前の仲間――友はすぐに読んでくれる。それがうれしい。俺は親愛の情をあらわすかなり強い言葉を口にし、触れる。――温かい。こんなところでも、仲間の肌というのは温かいものなんだな。そう、思うと鼻の奥がつんとしてくる。
「へへ」
そんな、はた目には絶対に分からないようなことも、目の前の仲間は鋭敏に感じとってくれる。
「ありがとう。――そろそろ戻ったほうがいい。君まで冷ややかな目で見られてしまう」
だから行ってくれ。そんな気持ちを視線にのせると、俺は友に背を向け、再び勉強をはじめる。後ろの気配はなかなかなくならない。
「『ありがとう』」
知らず、オルステラの言葉が出てくる。もちろん友には通じない。だから、ここの言葉で言いなおす。
「ありがとう」
そう言うと、友の気配はす、と消えた。
「『ありがとう』」
たぶんここを出たら君たちと会うことはないだろうけど、君たちがいてくれてうれしかった。
ここから出て行きたい気持ちと、彼らにもっと励まされたい気持ちが滑り込んでくる。
でも、それでも俺は、あの人を追ってここを出る必要があるんだ。
たぶんあの人が、いや、あの人にかかわることで、俺は俺や世界に納得をもてるように、なれる、気がするんだ。そう、勝手に期待している。信じている。
いくつもの場面、いくつもの言葉、いくつもの身振りが映しだされる。俺はそれを見つめ、言葉を真似、言葉を作る。考えをもつ。
だめかもしれない。実を結ばないかもしれない。でも、ここにいるほうが悪い。
がりがり、ごりごりと差し入れを噛み砕く。
一歩には満たない。半歩にもまだ及ばない。それでも、繰り返していけばやがて一歩になる。百歩になる。そしてそれらを束ねることで、旅路になる。旅人になれる。
旅人に、俺もなるんだ。
さっきから焦点の合っていない目でふわふわしていたと思っていたら、気づいたらこいつは突っ伏していた。――相変わらず弱い。全然進歩していない。
今日も担いで帰るのか――そう考えると少し面倒だが、誰かに押しつけることはできない。そこまで治安もよくない。
くせの強い赤毛がまとめられた首のあたりが見える。こいつのここはそこまで敏感じゃない。撫でても唇で触れてもあまり反応しない。だからつい放っておいてしまっている。他の部分でもっと感じるようだから、そっちを優先している。
君たち、本当に酒とセックスばかりですね――いつだったかソレイユに言われたし、こいつも言われたらしい。たしかそのときはこいつがすねていて、しばらくしたら子供みたいな誘い文句で飯に誘ってきたから、市で変なものばかり食べさせてやったっけ。カエルの足を提案したときは全力で、ちょっと涙を浮かべながら拒否されたのもまだ憶えている。可愛いやつなのだ、こいつは。
オルステラにも好意や愛情を言い表すのにいろんな言葉がある。が、面倒な言い回しは分からない。そこまで分かろうとも思わない。愛しいというのもよく分からない。たぶん違う。こいつのことは、可愛いとか、生意気とか、そういう言葉で形容することが多い気がする。
高価いものは散々見てきたが、それでも私は高貴さとは縁遠い。学者のような知識層でもない。だから面倒な言葉は知らない。こいつもたまに知らない言葉で、(たぶん)愛情を表現することがあるが、やっぱり分からない。ただ、そのときのこいつの顔を見れば程度はともかくその気持ちが好意や愛情であることだけは分かる。だからそれでいいのだ。
もし、私にもそんな細かな言葉が分かるとしたら、こいつに何を言ってやれるのだろう。何を言いたくなるのだろう。そう、答の出ようもない疑問がよぎる。奪われたことのない者でも失うことの不便さや悔しさを考えることはできる。切られたことのない奴でも、痛いということくらいは想像できる。でも、たとえば赤という概念を知らない者が赤を思い描くことはできない。私の今の感覚も同じだ。知らない言葉など捻り出しようもない。
「だが、」
目の前で静かに眠っている男を見やる。
今日はもういいか。
ポケットの中で数枚の硬貨を選び、立ちあがってこいつの横から腕をさし入れ、肩で支える。服ごしに熱を感じる。立ちあがってゆっくりカウンターに寄ってコインを投げ出すと、馴染みのバーテンダーがこいつを見て微笑んだ。
いつかこの男に飽きることもあるのだろうか。
この男が離れていくことがあるのだろうか。
だが。
この男は、今このときは、私のものなのだ。
このひ弱で知らない言葉を発する変な男は。
そう、誰にともなく気を吐いて、私は酒場の扉を押した。