ドルニエ

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 ある日、ある町に訪れたときのこと。ヴィオラさんは着くなり「仕事」がある、と言ってどこかへ行ってしまった。ので、俺は久しぶりにギルデロイさんとふたりで酒場にやってきていた。
 彼からは商売の技術としてではない、人の内面、心の動きやかけひき、そういったものを教えてもらうことがある。商人というものは普通、自身の商売を他人に教えるということをしない。彼に言わせれば旅団にやってきたときの俺が、あまりに世間知らずでかけひきの”か”の字も知らない、危なっかしくて放っておけない子供だった、のが理由らしい。そのあたりについて否定するつもりはない。世渡りや落としどころ、そういうものに縁のなかった俺が、そんなものを身につけている道理がなかったからだ。いまだってそういう部分にかけてはようやっと人並みに追いつきつつある、といった水準だろうし、当たり前の話、ギルデロイさんなどには遠く及ばない。
 もっともギルデロイさんは言葉で語ることはほとんどない。言葉では伝えきった気になってしまう、理解しきった気になってしまう。それで終わらせるには俺は少々惜しい人間――なのだそうだ。買いかぶりの気もするが、真剣に教えてくれるつもりなのが分かると、こちらも真面目に学ぶ気になる。
 そういうわけで、基本的には市を歩きながら、酒場で酌み交わしながら、というのがお決まりのスタイルになっている。今日は後者で、大体の酒場と同じく騒がしいなかで特に何を話すでもなく飲み食いしていた、そんな状況だった。
「こいつをどう思う?」
 そう言ってギルデロイさんがポーチの奥から出してきたのはひとつの青い、楕円形に磨かれた深い青の石だった。俺は何気なく受け取ろうとしたのだが、触れる瞬間に流れ込んできたもののおぞましさに反射的に指を引っ込めてしまった。
「どうしたよ?」
 そう問うてくるギルデロイさんに俺は頭を振って、ごまかすように酒を多めに流し込むと、石を目の前に置くように頼んだ。
「海の近く、あまりいい商売をしていない商人のものだったようです」
 石の青を見据えてゆっくり言葉を吐きだす。ギルデロイさんはサンシェイドの宝石商から仕入れた旨のことを口にしたが、そういうこともあるよな、と声のトーンを落とした。
「その商人が、娘に贈ったもの、みたいです。娘は体が弱かった、ようで、それでもよく身につけていた。それが狙われて、強盗に...父親、商人は不在だった。母親が娘の前で暴行されて、娘は喉を、穿たれて亡くなりました。母親もすぐに殺されて、石は別の土地に運ばれていった、ようです」
 石に残った恨みの残り香のようなものが、触れようとしたわずかな時間で、こびりついた潮ごしに伝わってきていたのだ。そういうことを、俺は拙い言葉でギルデロイさんに伝えると、ギルデロイさんは難しい顔をして椅子にもたれかかった。
「なんだってそんなことが思いつ――いや、分かるんだい」
「分かるというか、勝手に伝わってくるというか。ギルデロイさんだって相手の気持ちを読むのは得意でしょう」
 そうとしか言いようがなかったので、ごまかすように少し生意気な調子で言うと、ギルデロイさんはいよいよ不味い酒に当たった美食家のような顔をして、じゃあ占いの類かい、と毒づくように言った。
「あとは、そうですね。宝石の価値をはかるとき、言葉や数字であらわせないものってある――んですよね。相場や流行だけでもつけられない値打ちといいますか。そういうものなんですけど」
 まあな、とギルデロイさんは腕を組む。俺は毛色的にはそんなもんです、と言うが、ギルデロイさんはやはり納得できない、というような顔をしていた。
「――まあ、もしそうなら、お前はグランポートの船には乗らないほうがいいかもな」
 少しの空白ののちにぽつりとギルデロイさんが言った。俺は少し考えたのち、ガ・ロハの名前を出した。
「ああ。あのときは本当に酷かった。団から死人が出なかったのは奇跡みたいなもんだったよ」
「俺は伝え聞いただけですけど」
 様子を気にしていた老人たちが数日寝込んだというから、よほどの地獄だったのだろう。指輪の影響もあったのかもしれないが、人間の欲の深さ、という表面的な言葉だけでは片づけられない重々しさがふたりの間に淀んだ。
「まあ、たしかに俺たち宝石商は因果なものを扱ってるのかもな。ただきれいなだけのものでよければガラス玉でも売ってたほうがよほど気楽だ」
「......」
「それでも俺たちは惹かれるのさ。大地の底で誰のためでもなく生まれて、その美しさで俺たちを魅了する、意味の分からない巡りあわせにさ」
 そうかもしれない。石の価値など、人間が寄ってたかって掘らせて選んで磨かせて、精緻な細工ものと合わせて、そんな迂遠な無駄の果てに抱かせる思いがせいぜいがところきれい、だの神秘的、だの、その程度のものなのだ。
 そんなもののために生活をかけ、人生をかけ、命も捨てさせる――その上澄みのようなものを扱うのが宝石商なのだ。愚かで滑稽な商売、なのだろう。
「そのために、こんなに長い間旅を続けてるんですね、ギルデロイさんは」
「おうよ。底なしの間抜けさ」
「そして俺は、ひとりの女性を追いかけて、そのそばにいるためだけに大陸を駆けずり回るど阿呆なわけですね」
 俺がゴブレットをギルデロイさんに向けると、彼もからからと笑って彼の器のふちを合わせた。
「ま、そういうわけだ。お前さんとの旅がいつまで続くか分からんが、それまでよろしくな、馬鹿弟子」
「ええ、よろしくお願いしますよ。アホ師匠」
 できれば――とギルデロイさんが丁寧に布で包んでしまい込んだ石にまとわりついた潮の名残りに意識を向ける。
 あんたを持ち主のもとに返してやりたいけど、その前に売られてしまうんだろうな。
 まあもしどうしても、であれば――
 名うての盗賊に依頼するのも手かもしれないな。
 そんなことを考えながら、俺は次の一杯に何を頼もうか、と、カウンターに並べられてぎらついた輝きを放つ瓶たちに、最高に俗悪な視線を投げるのだった。

6/30/2025, 9:54:54 AM