リバーランドのとある町。川沿いの宿の一室。屋根を打つ雨粒と、この町に着く前から続く長雨で増水した川の音が閉じた窓ごしに聞こえ続けている。俺は海沿いの村で暮らしていたから水の音には安らぎを感じるほうだ。夕方からあのひとと飲みに出る約束をしているから、言い換えればそれまでは暇だ。ベッドに横たわって天井の木目を眺めていると、徐々にそれが波の描く模様に見えてきて、懐かしいような、虚しいような、そんな気持ちになってくる。
母も父も子供のころから村で冷遇されていたと聞いていた。どちらも体が小さく、村に貢献することはできずにいた。いまにして思うに、一族として出来が良くない者同士をくっつけることであわよくば消えてなくなってほしい。俺が生まれたときも、すぐに死んでしまうに決まっているのだから好きにさせておけ――そういう老人たちの思惑があったのだろう。その結果がいまを招いているのかもしれないと思うと、数奇とか、運命のきまぐれとか、そういう言葉では片づけられないものを感じることもある。ただ、何にせよ俺はあのひとのもとで、俺にとって最良の未来を引き寄せなくてはならないことに変わりはない。
故郷にいたころが「降り続ける冷たい雨」なのだとすると、いまは「遠くに見えてきた晴れの兆し」なのだろう。
ただ、最上の結末を迎えるには、俺ひとりの手ではどうしようもない。何人もの手と、いくつもの偶然を呼び込む必要がある。
だから――
コンコン、と部屋の戸が叩かれる。
ベッドから半身を起こして扉を見る。短く返事をすると、あのひとの声が扉ごしに聞こえてきた。
「私だ。少し早いが迎えに来た。開けてくれ」
「はい、すぐに」
急いで靴を履き、戸口に向かう。
戸を開くと、あのひとは断ることなく俺の脇をすり抜けて入ってきて、部屋の真ん中あたりでこちらを振り向いた。
「どうせぼんやりとしていたんだろう?ほら」
あのひとはとん、とテーブルに酒瓶を置き、反対の手に提げていたグラスを俺に示す。
「私も暇でな。少しつき合え」
がたりと椅子に腰を落とすと、俺にベッドに座るように促して懐から取り出した栓抜きであっという間に抜栓し、とくとくと音を立ててふたつのグラスを満たしてそのひとつを俺に向けて差しだした。
「飲め」
「――はい」
俺はそれを受け取ると、ほんの少しその香りを嗅いでひと口だけ口にする。あのひとはそれを見てす、と自分のグラスを一気に空けた。
「悪くないだろう?」
あのひとの目に灯る光が凶暴さを増す。俺はそれを見ながらさらにグラスに口をつける。
「ええ。あなたらしいお酒ですよ」
繊細なのとは明らかに違う。重厚さとも少し違う。攻撃的で情熱的な、そんなタイプの赤だ。
「はは、分かるようになってきたな」
うれしいぞ、とあのひとは破顔すると、立ちあがって俺の胸倉を掴んで引き寄せる。
もちろん俺は抵抗しない。
「カル」
「ん、」
このひとの求めているのは問うまでもない。考える必要すらない。俺はあのひとが酒を口にするのを待って唇を重ねた。
「ん、ぐ」
「――」
温まる前のスパイシーで奥行きのある味が俺の口に注がれる。二度、三度と。
「ちゅ、は――」
「ん、んふ、」
気がつくと俺の頭の後ろには枕があって、逃げられない状況になっている。そのうえ頭の後ろには腕が回されていて、いよいよ逃げられない状況になっている。
ん、あ。ヴィオラさん。
暗い欲望の灯った目をしているのはおそらく俺も同じ。
それでも、俺にとってはこのひとのこの目こそが、このひとが追い込んでゆく堕落が。
暗く深い、星ひとつない俺の「空」なんだ。
6/1/2025, 2:19:16 PM