あの人の名前を聞くと耳がひくりとする。
あの人の声を聞くと耳に血が集まる。
あの人の前に出ると胸が苦しくなる。
...なんてことはない。
そういうのは、聖火教会の恋愛小説にやらせておけばいい。
でも、
あの人と視線を交わすと胸が痛む。あの、実際そう珍しくない色あいのブラウンの眼に射すくめられると、俺はぎくりとしてしまう。そこに意味を感じさせるものが見えると、わずかに硬直してしまう。焼きごてを向けられたように。
あの人に触れられると、背筋がぞわりとする。特に胸板や指と指の間、ちょっと感覚の違うところに触れられると、意図せず縫い留められた生地の模様のように、強烈な違和感と居心地の悪さを感じる。こことは違う、もっと刹那的な、吹き荒ぶ烈風のような、そう、あるべきものに反するような、自覚的に悪を為すような後ろめたさ。
あの人に追い詰められると、もう死にたくなる。突き倒され、見おろされ、それを強要されると、胸の壁ががたがた言いだす。それ以上の刺激は毒だ――俺の脳、俺の心臓、背骨が訴える。死にたくなければ引き返すのだと。
でも俺は、それらに絶対に抗えない。雪原に伏して獲物を待つ熊のように、火に魅了された愚かな羽虫のように、“粉”を前にした中毒患者のように。
だって俺は――
「おい」
その人の声が頭上から降ってくる。
「もう酔ってるのか?ちょっと早いんじゃないか?」
それはそうなのだけど、酒を進める原因が自分だとこの人は気づいているのだろうか。機嫌がよければ酒は進むものだ。それはあなたが教えてくれたじゃない
か。
「今日だ。あの場所に」
それだけ言ってその人は去る。いつもながら簡にして素な誘い文句。
「君、相当好かれてるようだね」
「もうちょっとこう、迷うふりだけでもしてやったほうがいいんじゃないか?」
あまりに無抵抗だといいようにされるだけじゃないかな――
同席していた男たちからそんな言葉が投げかけられる。さすがに詳細は知らないはずだが、それのたびに翌日消耗しきった状態で顔を出す俺を心配しているのだろう。けど。
「いえ、半分はあの人のすることですけど、半分は俺のやってることですから」
そう言う俺の言葉に、ある人は肩をすくめ、ある人は天井に目をやり、ある人は憐れみとも軽蔑ともとれる視線を投げてよこす。
しばらく適当に言葉を交わし、適当なものを飲んで時間を潰し、酒場を出ると早足に町を歩いて指定された家の指定された部屋の入る。彼女いつもように飲みながら待っていたようだ。
「待っていたぞ」
そのひと言で、俺の血が沸きたつ。
「その様子だとまた何か言われたみたいだな」
とは言うものの、その言葉の裏にはこれっぽっちも痛痒はない。
「ええ。でも、僕のことが分かるのは、ひとりいれば充分なんです」
今日は俺のほうから彼女に近づいてねだる。それを察してくれたのか、彼女は酒をひと口含んで立ちあがり、俺に唇を重ねた。
それは二度と訪れない、ほんの一瞬のもの。
同じところ、同じ角度、きわめて正確に模した光に照らされても、同じ光は放てない。
砂漠の砂粒のように旅を続けるものじゃない。
海の潮のようにも巡らない。
路傍の石、何かの原石かもしれない、それでもわずかな価値も与えられない、ちょっときれいなただの石。
その石ころ放ったわずかな輝き。出来損ないの物書きに訪れる、つまらない、すぐに忘れてしまう思いつきのようなささやかなきらめき。
ぽつ、と雨粒が当たって、その石にぴしりとひずみが生まれた。
そのひずみは小さな亀裂となって、
もともと脆弱だった小さな石に、
無数のひびが走って、
捨て石は砂つぶとなった。
だから、もうおしまい。
そのきらめきはこの夜のこのとき、ここ、この世の果てから、
永遠に失われましたとさ。
そして。
それはあなたの命と等価のものでした。
故郷を出るまで、俺はずっと這いつくばるようにして生きてきた。先ほどまでは物理的に這いつくばっていた。そして今は仰向けに寝そべっていた。
――今日もずいぶん派手にやられたな。
首に手を当てると、先ほどまで食い込んでいた帯の跡が残っている。そしてどこがとは言わないが、とにかく痛くて身動きがとれない。寝返りをうとうとして失敗し、小さくうめくと、テーブルで酒肴を楽しんでいたそのひとがちらりとこちらを見たが、すぐにこちらへの興味を失ったようだった。
俺がしたいのは、復讐でも破壊でもない。俺が求めるのは自分の納得だ。故郷を出るために老人たちに並べたことは方便、嘘八百。彼らが喜びそうなことを適当に並べただけだ。もっとも、彼らとて俺を全面的に信じて送り出したわけではないし、こちらの状況も実は筒抜けだったりするから、どこかのタイミングで彼らからの接触は覚悟しなければならないだろう。故郷は場所が場所だし、こちらも常に移動しているからそうそう捕まることもないと思うが、その時にどう対処するか考えておかなくてはならないのが少し憂鬱だ。
ただ――思った以上に、この人のそばの居心地がよかった。俺はこの人のところ、この人のいるところに逃げてきたのだが、それで俺の世界がこれだけ劇的に変わることまでは期待していなかった。のらりくらりと故郷から離れる口実にしただけ――“だけ”と言い切ることに違和感はあるし、そのわりに支払うものも多かったが――のつもりだった。それが、あの人の前に出て、よく分からないうちにああいうことになって、結局あの人とあの人のそばにいることにのめり込んでしまっていた。それは半分望んでいたことだし、ある部分で期待していたことですらあったのだが、それでもこれだけとは想像外だった。
“そんなこと”で俺の問題が解決するとも思っていないが、それでも、今が心地よいのはどうしようもないのだ。
この人の側にいることで――
俺はそっと酒を注ぎ足している彼女を見た。
――俺は俺の納得する生き方ができるようになるのだろうか。
場合によっては故郷の老人たちをどうにかしたら、故郷以外のいくつかのものも俺は捨てることになるだろうが、それを選ぶ力を俺は得たい。
うっすらと涙が浮かぶ。憎く、疎ましく、忌々しいと考えてきた故郷を捨てることを切望してきたから、自分でも涙の理由は分からなかったのだが、俺はそれを拭おうとは思わなかった。
「どうした、まだ痛むか?」
そんなに痛かったのか、とそれに気づいた彼女がグラスを手にしたままやって来る。
「いえ、――」
彼女に話すべきなのかと、俺は少し考える。
「その酒、飲ませてくれませんか。口移しで。あのときのように」
「はぁ?」
珍しく驚いた声を彼女はあげた。俺はそれが面白くて、思ってもいないことを、できるだけふてぶてしい態度で訴えた。
「まだ動けないんですよ。あなたに滅茶苦茶にされたから。少しは加減してください」
「――、本当に生意気になったな。うんざりするほど飲ませてやろうか」
「ええ。でもそのときは、あなたが介抱してくださいね」
眉をつり上げてこちらを見下ろす彼女に、俺は笑いかけた。
あ、と思ったときにはすでに視線はそらされていた。
今、目が合ったよな。
たぶん。おそらく。高確率で、お互いのブラウンの視線はかち合っていたはずだ。いや、そんな気がしただけだろうか。逡巡していたためにわずかに伏せられていた視線を上げて彼女を探す。が、見える範囲にはすでに彼女の姿はなかったし、足音など大勢が歩き回るなかではひろえるはずもない。
「しょうがないか」
そうごちて俺もすべきことを探しはじめた。この町での滞在は今日までだ。団のですべきことはたくさんある。俺は頭を切り替えて、手近で仕事をもらえそうなメンバーのひとりに話しかけた
結局あの人はあれから見かけなかったな。どうも他のところ行ってたらしいけど。
夜。割り当てられた部屋のベッドで俺は思い出していた。一瞬視線が交錯していたと思ったのだが、何度も思い出そうとしたために、その真偽はもう分からなくなっていた。
でも、なぜだろうか。どうしてそんなに気になるのだろう。視線などいろんなところで、いろんなシチュエーションで、何度でも交わしている。
――理不尽だな。
自分の感じているこの不安なのか不満なのかよく分からないものが。ああいうかたちで、俺はすでにあの人のそばにポジションを得ているじゃないか。いきなり失うものでもないだろう――そう自身の納得を引き出そうとする。もっとも、それが成功しようのない試みであることはすでに分かっているのだが。
しかし不安を呼び水にした思考は止まらない。気づけば月が夜中を意味するあたりまで上ってしまっていた。ランプの油も尽きそうになっている。
理不尽だ。とんでもなく理不尽だ。
もう諦めて寝なければならない。でなければ明日に障る。そんなことはとっくに分かっている。だというのに、俺はまだまだ折り合うことはできそうになかった。
翌朝、結局ほとんど眠れなかった俺は小隊のリーダーに咎められ、少しのやりとりのあと、今日は馬車の中で休まされることになった。
「おい、どうした。すごい顔だな」
「あ――」
落ち込んで馬車の荷台に上がろうとしたそのとき、睡眠不足の原因が現れた。すぐ後ろで、いつになく上機嫌の彼女が笑って立っている。
「僕は、それが欲しかったんです。言葉でなく」
その素っ気ない声と、興味を引くものを求める視線が。
ようやっとそれだけ言葉にして、俺は荷台のへりによりかかった。
今日ですか?と訊き返した俺に、旅団長は急で申し訳ありませんが、と表情を曇らせた。
「たまたま道でオーナーの方と会って。本来来るはずだった奏者の方が来なくて困っているそうなんです。着いて早々お疲れでしょうが、行ってはもらえませんか?」
「――分かりました」
渋々頷いたのはたぶん伝わってしまっただろう。旅団長は重ねて頭を下げた。そして、夕方迎えに行くので一緒に行きましょう、と結んだ。
素人ながら、奏者として評価してもらえるのはありがたいと最近思う。非力なため、戦うことの難しい俺がここにいるのはたまに申し訳なく思うし、倒した魔物の素材が大きな収入源になることを聞かされてからはあの技術もあまり意味をもたなくなってしまったので、いよいよ団で埋没するような感覚をもつようになってしまっていた。だから、こうしたかたちで団に役立てるのはありがたい、と思うこともある。ただ、今日はできれば予定を空けておきたかったのだ。
「仕方がないか。今日合流できるかどうか分からないって、言ってたしな」
そう自分に言い聞かせるようにして椅子から立ちあがると、俺は預けられていたギターの調律だけでもしようと、先日買ってもらったばかりの赤い革張りのケースを手にした。
小雨の降るなか旅団長に連れられて酒場を訪れた俺を酒場のオーナーはやや大げさな態度で迎え、奏でてほしい種類の曲をいくつか挙げた。俺はケースからギターを取り出して短くつまびきながらオーナーと演目を詰めてゆく。オルステラの曲はそれほど多くは知らなかったのだが、案外なんとかなるということを、俺は学びつつあった。
酒場の雰囲気が俺は好きだ。
辛気臭く貧しい故郷にはそんなものはなかったし、陽気であり、悲しくもあり、猥雑であり、さまざまな物語の生まれる酒場という場所がとても刺激になった。半端に禁欲的な故郷では、音楽は人によっては不道徳なものと考えていたから、この特技をもっていることで嫌な思いをすることもあった。だからオルステラに来て、音楽も相性のよいこの技術も、ここで求められるものだと気づいたときはなにか暗示めいたものを感じたのを憶えている。
そんな喜びをこめて俺はギターを奏でる。旅団長とオーナーが同じテーブルで頷きあっているのが見え、俺は少し大胆に感情をギターのせる。音楽は心だと言う人が結構いる。それは半分あたりだし、外れだ。どこまで気持ちをのせても補えない拙さはあるし、渋々弾かれる曲は美しくても鮮烈さはない。それに――
酒場の扉が開き、新しい客が入ってくる。長旅を超えてきた旅人か、少し足音に疲れが感じられる。そんな彼に、俺は歓迎の気持ちを向けた。
演奏を終えた俺は旅団長のいるテーブルに向かう。オーナーは途中で満足したのか、すでに席を離れていたようだ。もうひとり、あの疲れた旅人が同席していることに俺は意外に思い、挨拶をして座る。
「なんだ、気づいていなかったのか」
「え――」
聞き憶えのある、いや、もっとも馴染んだ調子の声に、俺は出されていた水割りに口をつけようとしたまま旅人に視線を送った。
いや、だってこの人はたしかに男だったはず――
「ふふ、では私はこれで。あまり羽目を外さないでくださいね」
そう言いながら旅団長は席を立つ。俺は旅人から目を離せずにいる。旅人はそこでようやくマントを脱いだ。その下からあらわれた人は――
「こら、やめろ馬鹿」
思わず手をとって口づけをした俺の手を、その人は軽く叩いた。
まったく、その大げさなのはどうにかできないのか――そう言ってその人は自分の手に唇を当てた。