僕はその人を本当に諦めるべきなのか、どのくらい考えたのだろう。とても長かったはずだけど、仕事の合間、生活の合間に考えただけのような気もする。
いわく年齢、いわく良識、いわく年収、いわく生活スタイル。理由はいくらでも考えついた。どれも諦めがたかったけど、捨て去ることで楽になることもたくさん見つかった。
思えば、最初に感じていた火のような熱は本当に最初だけだったかもしれない。いや、それでもその人との時間は僕の胸から他の何をも追いやり続けたし、その人に触れるときはいつだって胸が苦しいほどだった。虚ろであり充足していた。愛着があり、疎ましかった。その矛盾がおそらく僕をその人に結びつけていたのだろう。
だけど、僕はこの関係を精算することに決めた。いつまでもこんなでは、お互いのためにならない。あの人だっていつまでも若いわけじゃない。いつまでも自由でいていいわけじゃない。...とてつもなく癪な尺度だな。
いつもなら勝手に鍵を開けて入るのだけど、今日はチャイムを鳴らす。もう、明日からはただの知人なのだから、このくらいできなくてどうする。あの人は不思議そうに扉を開け、僕を中に導く。どうしたのか、鍵をなくしたのかと困惑しながら。僕は鞄の中のこの部屋の鍵を握りしめる。来るのなら言ってほしいとあの人は冷蔵庫から僕の好きなチューハイを取りながら言う。言ってくれれば何か用意したのに、と。
そんなことを言われたら、切り出しにくくなるじゃないか。やっぱり僕はこの人から離れたくない。ずっとここにいたいと思ってしまう。いいじゃないか。まだ切り出していないのだし、考えなかったことにしようと、僕の中の僕が告げる。だって僕はまだこの人を好きじゃないかと。嘘をつくなよと。
「ああ」
僕は缶を傾けて息をつく。胸が苦しい。
「駄目だ。俺は――」
やっぱり君には絶対に勝てない。嘘つきの誹りを受けてでも、ここにいたい。
僕はまた耐えきれなくなって、泣きながらこの人にすがった。
自転車に乗って、どこまで行こう?
歩きでは遠い、町の反対側まで?それとも河のむこうまで?
自転車に乗れるようになったとき、世界が一気に広がった気がした。いや、実際広がったのだ。
家族に頼めば車で色々なところに連れて行ってくれたけど、それは自分で行くわけじゃない。自分で運転するのじゃない。寄り道も好きにできない。だから窮屈だった。
だからたくさん練習した。たくさん転んでたくさん血を流した。すごく痛かった。
けど、もうそんな思いをすることはあんまりない。
車や電車には及ばなくても、自分で、遠くまで行けるようになったのだ。
それが15年前。たくさん漕いだ。でも何度も転んだ。目茶苦茶痛い思いもした。
でも分かった。山のむこうにはどうやっても行けない。そこまで頑張るのなら、不自由でも電車で充分だと学んだ。
そして今日。納車の日だ。
10万キロも走った、ちょっとがたのきている軽だ。
でも、いずれ。金さえあれば、もっといい車に乗れるだろう。だから今はこれで充分だ。――話がそれたな。
そういうわけで、ただとはいかないが、自分で、山のむこう、自転車ではとても行けない遠くの街まで、寄り道もなんでも勝手にできる。雨に降られても濡れることもない。雪が降ってもそこまで困らない。
でも、ちょっと淋しいかな。自分の力で漕ぐって結構楽しいんだよ。
だから。
また、きっと乗るからな。何代目かの俺の自転車。
奴の引く曲には引き込まれることもあるが、合わないときは本当に合わない。異常なほど合わない。後ろから頭をこづいてやめさせたくなるほどだ。
巧いとか下手とか、そういうのは今ひとつ分からない。一貫していない。すべてが噛みあっているときもあれば、ちぐはぐで聴いていて面白くないこともある。要は素人だ。だから酒場で引くという話を聞いたときには、他人ごとながら心配になる。
ただ、奴の曲には心が動く。ときに激しく狂しく刹那的に、ときに普段なら振り返りもしない悔しさ、理不尽さ、そういうものを引き出されてひどく心をかき乱される。らしくないほど甘く苦しくなる曲を奏でられたときは、二度と引くなと殴ってやった。また心が凪いで何もかも許せそうな気持ちにさせられることもあるし、尽きない闘争心をかき立ててくれることもある。そういうことが彼や彼の故郷の連中にはできるのだそうだ。理屈も技術も分からないが。
ああ、引いている。軽妙で酒の進むような曲。私に飲みに来いと言っているのだろうか。自分は弱いくせに生意気な。だが、それもまた可愛いところだ。いいだろう、とごちて立ち上がる。
さて、今日はどんな目に合わせてやろうか。
季節は初夏。それは機能するモノとしてのモノを終わろうとしている。
ああ、これ麦わら帽子ですね――作業員はそれを手にして呟いた。へぇ、まあそれっぽい形してるもんな。一緒に登っていたもうひとりが応える。
大きさから量るに、子供のものだったのだろうか。つばはほつれ、半円形の部分にはつばだったわらや、どこかからもってきた雑多なもので埋め尽くされていた。そして大量の羽毛。
この帽子をなくした子供は、泣きながら家に帰ったのだろうか。家族にも叱られ、さらに泣いたのだろうか。そしてこの帽子は人知れず冬を越し、カラカラに乾いていたから、次の役割を果たすことになったのだろうか――作業員は休憩時間に考える。そうすると、あの帽子は多くの子供たちを見守っていたのだろうか。作業員は独身だし、子供も幼いきょうだいもいなかったからそのへんの感覚は分からなかったのだが、そうなのだろうと彼は思った。
だから作業員は棚から袋を取ってくると、帽子をそっとそこに入れて元の場所に戻した。廃棄されるのは変えられないし、さすがに作業員も欲しくはなかったから。
安田、行くぞ。
外から彼を呼ぶ声がしたので、作業員は部屋を出た。
じゃあ。たくさんの子供を見守ったどこかの帽子。たぶんお前はそんなに酷い扱いじゃなかったのかもな。
お客さん、終点ですよ、と紋切り型の台詞が降ってくる。私は携帯から目を上げて、終点ってことは始発ですよね。お構いなく――とだけ返して視線を落とす。掃除があるんで、と制服は言う。足を上げるのでその下を掃けばいいじゃないですか、と今度は顔も上げずに返すと、一旦出ていてください、終わった呼びますから、と言う。キセルにならないんですか?と問うと、私は困らないんで、と言って制服は重心を崩してラフな立ち姿になる。...足しか見えないけれど。面白い乗務員さんですね、と顔を上げると、制服は意外と爽やかな顔立ちをした若い人だった。知りませんよ、会社に怒られても。 怒られてばっかですよ。 だったら真面目にやったらどうです? そういうのは他の人が勝手にやりますよ、鉄道会社ですから。 日勤教育とか。 ああ、あれ違法だってことで禁止になりました。ざまあみろです。 始末書とか。 そんなもの寝ながら書けます。 減給とか。 連れ合いがいっぱい稼いでいるので。 いやいや。 宝くじも当たりましたし。一等。 はぁ? 予定ですけど。 予定...
それはそうとそろそろ降りてくれませんか? ああ、もういいです。あなたの相手のほうが面倒です。 ご協力ありがとうございます。ところで...
キセル、ってご自分で言いましたよね。一応切符、見せてもらいますよ?