ドルニエ

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8/12/2023, 9:35:55 PM

 奴の引く曲には引き込まれることもあるが、合わないときは本当に合わない。異常なほど合わない。後ろから頭をこづいてやめさせたくなるほどだ。
 巧いとか下手とか、そういうのは今ひとつ分からない。一貫していない。すべてが噛みあっているときもあれば、ちぐはぐで聴いていて面白くないこともある。要は素人だ。だから酒場で引くという話を聞いたときには、他人ごとながら心配になる。
 ただ、奴の曲には心が動く。ときに激しく狂しく刹那的に、ときに普段なら振り返りもしない悔しさ、理不尽さ、そういうものを引き出されてひどく心をかき乱される。らしくないほど甘く苦しくなる曲を奏でられたときは、二度と引くなと殴ってやった。また心が凪いで何もかも許せそうな気持ちにさせられることもあるし、尽きない闘争心をかき立ててくれることもある。そういうことが彼や彼の故郷の連中にはできるのだそうだ。理屈も技術も分からないが。
 ああ、引いている。軽妙で酒の進むような曲。私に飲みに来いと言っているのだろうか。自分は弱いくせに生意気な。だが、それもまた可愛いところだ。いいだろう、とごちて立ち上がる。
 さて、今日はどんな目に合わせてやろうか。

8/12/2023, 1:29:10 AM

 季節は初夏。それは機能するモノとしてのモノを終わろうとしている。
 ああ、これ麦わら帽子ですね――作業員はそれを手にして呟いた。へぇ、まあそれっぽい形してるもんな。一緒に登っていたもうひとりが応える。
 大きさから量るに、子供のものだったのだろうか。つばはほつれ、半円形の部分にはつばだったわらや、どこかからもってきた雑多なもので埋め尽くされていた。そして大量の羽毛。
 この帽子をなくした子供は、泣きながら家に帰ったのだろうか。家族にも叱られ、さらに泣いたのだろうか。そしてこの帽子は人知れず冬を越し、カラカラに乾いていたから、次の役割を果たすことになったのだろうか――作業員は休憩時間に考える。そうすると、あの帽子は多くの子供たちを見守っていたのだろうか。作業員は独身だし、子供も幼いきょうだいもいなかったからそのへんの感覚は分からなかったのだが、そうなのだろうと彼は思った。
 だから作業員は棚から袋を取ってくると、帽子をそっとそこに入れて元の場所に戻した。廃棄されるのは変えられないし、さすがに作業員も欲しくはなかったから。
 安田、行くぞ。
 外から彼を呼ぶ声がしたので、作業員は部屋を出た。
 じゃあ。たくさんの子供を見守ったどこかの帽子。たぶんお前はそんなに酷い扱いじゃなかったのかもな。

8/10/2023, 1:17:23 PM

 お客さん、終点ですよ、と紋切り型の台詞が降ってくる。私は携帯から目を上げて、終点ってことは始発ですよね。お構いなく――とだけ返して視線を落とす。掃除があるんで、と制服は言う。足を上げるのでその下を掃けばいいじゃないですか、と今度は顔も上げずに返すと、一旦出ていてください、終わった呼びますから、と言う。キセルにならないんですか?と問うと、私は困らないんで、と言って制服は重心を崩してラフな立ち姿になる。...足しか見えないけれど。面白い乗務員さんですね、と顔を上げると、制服は意外と爽やかな顔立ちをした若い人だった。知りませんよ、会社に怒られても。 怒られてばっかですよ。 だったら真面目にやったらどうです? そういうのは他の人が勝手にやりますよ、鉄道会社ですから。 日勤教育とか。 ああ、あれ違法だってことで禁止になりました。ざまあみろです。 始末書とか。 そんなもの寝ながら書けます。 減給とか。 連れ合いがいっぱい稼いでいるので。 いやいや。 宝くじも当たりましたし。一等。 はぁ? 予定ですけど。 予定...
 それはそうとそろそろ降りてくれませんか? ああ、もういいです。あなたの相手のほうが面倒です。 ご協力ありがとうございます。ところで...
 キセル、ってご自分で言いましたよね。一応切符、見せてもらいますよ?

8/7/2023, 1:59:24 PM

 始まりがあれば終わりがある。なければならない。
 だからそれは安息。それは恐らく救い。
 あっちなんてあってほしくない。だって先生だって休みたいだろうから。身体がないなら薬もない。でも心は?だからあっちなんてあってほしくない。
 馬鹿が死んだら治るだろうか。死んだら欲望が浄化されるだろうか。だからあっちにはあってほしくない。
 寒さも暑さもないなら、きっと適温もない。
 身体がないなら重力もない。どこまでも飛んでいってしまう。うっかり跳んだら二度と会えない。そんな悲しいところ、あってほしくない。
 身体がないなら酔いようもない。酔わずにどうやってやっていくんだい?
 苦痛がないなら愉悦もない。悲しみがないなら楽しさもない。怒りがないなら赦しもない。憎しみがないなら愛もない。そんなところ、あってほしくない。
 摩擦がないなら字も書けない。絵も描けない。そうしなければやってられない人はどうするの?

 ああ、野暮だ。野暮すぎる。野暮天だ。でも野暮がなければ洗練もない。洗練のないところにどんなよさがある?
 みんな救われて、罪も科も業もなくて善と安息のみがある?澄まし返った世界が素晴らしいって?おあいにくさまだ!

 だから僕は死の先を認めない。死なない身体に用はない。ほっといても死なないのなら僕が殺す。それが始めから決まっていてほしいことだ。

8/6/2023, 10:42:36 PM

陽の光は無遠慮で、苛烈で、容赦がない。
雨は時に恐ろしいけど、本当に稀だ。
雪は頑としていて、生き物の行く手を阻み、巣穴へと閉ざすけど、同時に美しい。
陽の光は多くを暴く。密やかなもの、見られたくないもの、隠していたいもの。何もかも暴く。星々や月の光は頼りないがどこまでも優しい。
だからというわけじゃないけど、僕はスターダムには上がりたいと思わなかった。隅々まで暴いてその人を消費し尽くす富と欲望の象徴。――上がろうと思っても上がれなかったけれど。

でも、それも大体言いがかりだ。
陽がなければ星もなかった。
陽がなければ生き物もいなかった。
陽がなければ何もかも見えない。
陽がなければ月も光らない。
そしてスターダムの光は陽の光なんかじゃない。
あんなに下品でもない。

だから、悪いことばかりじゃないんだよな。
そうして僕はこっそり誰かに謝って日なたに出る。サングラスはしっかりかけて。

ああ、やっぱり眩しい。お前なんか――ちょっと好きじゃねぇ。

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