小説
千ゲン
「ん?」
机の上に見覚えのない貝殻が置いてあった。少し大振りなそれはいつもの実験室には存在しない代物だった。
「子供たちが置いてったのかな…?」
ふと持ち上げてみると僅かに重みがあった。
「バイヤー…中身まだ入ってる感じ…?」
中身とご対面しなければならないのかと身構えていると、実験室の主の一人である千空ちゃんが重そうな実験用具を抱え、息を切らしながら入ってきた。
「あ゛ー大樹に運ばせりゃ良かった…」
「お疲れ様。ねぇ千空ちゃん、これ多分子供たちが持ってきたやつなんだけど、まだ中身が入ってそうな重みがあるんだよね…」
「あ゛?あー…そりゃ俺がテメーにやるために作ったもんだ」
「え?」
千空ちゃんが俺に?
「開けてみろ」
促されるまま俺は貝殻を開く。
「……ハンドクリーム?」
半透明なそれは現代でもよく使っていた無香料のものにそっくりだった。千空ちゃんの顔を見ると、満足そうにハンドクリームの完成過程を話し始める。俺はそれに相槌を打ちながら、心の中は沢山の嬉しさと少しの寂しさでいっぱいだった。
俺のために作ってくれた。他にもしなきゃいけない事があるはずなのに…。本当に優しい千空ちゃん。
でもね千空ちゃん、これ以上やさしくしないで。いつか離れなきゃいけないこと、忘れちゃいそうだよ。
「ありがとう…千空ちゃん」
話し終えた千空ちゃんにお礼を言うと、彼はなんて事ないように笑った。
「他にも欲しいものがあるなら言えよ。ドイヒー作業の報酬だ」
「ん…?まさかこれ先払い報酬ってこと?!」
「正解百億万点やるよ」
「ドイヒー!」
さっさと外に出ていった千空ちゃんの背を追って、俺はハンドクリームの入った貝殻を大切に抱え直し外へ向かった。
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おばみつ
伊黒小芭内様
あのね、伊黒さん、聞いて欲しいことがあるの。
私、貴方のことが、す
くしゃりと手紙を握り潰す。手に墨が着くことも厭わず、私は小さな想いを握り潰した。
冬の夜は心を弱くすると実感する。
「駄目よ蜜璃…勘違いしちゃ…」
彼は皆に優しいのだから。決して私だけに優しい訳では無いのだから。
屑箱に握りつぶした手紙を投げ捨てようとする。はしたないと思いながらも大きく腕を振り上げた。
けれども、出来なかった。
これは私の気持ち。私の大切な想い。それを屑箱に投げ捨てるなど出来るはずもなかった。
「…」
腕を下ろすと、私は力なく手紙を見つめる。手紙の至る所にまるで涙のように墨が滲んでいた。
この手紙は隠してしまおう。
本棚の中から一冊の本を取り出す。西洋の童話『人魚姫』。和訳されたそれを初めて読んだ時、なんて悲しい物語だと涙した。
だから私の想いはこの本に隠す。
想いを言葉に出来ずに泡になる人魚姫。伝えたくて、知って欲しくて、溢れて、溶けた。
この想いが、私自身が溶けてしまうまでこの隠された手紙が開かれることは無い。
本を閉じ、元の場所に戻す。
小さなため息をひとつ零し、私はまた彼に手紙を書くべく机に向かった。
まだ知らない君
俺の中にまだ知らない君が居たのか…
とか宇宙広げる伊黒さん欲しいですね
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迅嵐
日陰から救い出してくれる人を待っている。まるで体に鉛玉を飼っているかのような重みに耐えかねて、おれは膝から崩れ落ちた。
自ら動く事は出来ず、受け身でしかいられない。
そんなおれを救い出してくれる人を、おれは待っている。
「日陰もいいじゃないか」
太陽みたいなお前ははそう言った。座り込んだおれの隣に座り、無邪気に言った。
お前は太陽の下でしか生きたことがないからそう言えるんだ。
そんな屁理屈を軽々と躱し、お前はおれの手をゆっくりと握る。
それは大切な宝物を扱うかのように。
「迅と居れるなら、日当でも日陰でも良いよ」
日陰から出なくても良いと初めて思った。お前が、嵐山が一緒ならば。
おれは引きずり込んだ。暗い暗い日陰の中へ。
これからはここで二人きり闇の中。
嗚呼嬉しい……誰もここから救い出さないでくれよ!
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迅嵐
「ほら、帽子かぶって」
「わっ」
迅は俺に帽子をかぶせると満足したように手を引いた。帽子の陰から女の子たちが歩いて来るのが見える。盗み聞くつもりは微塵もなかったが、横を通り過ぎる時にその子たちの話す内容が聞こえてきてしまった。
「今ここら辺に嵐山さんが居るらしいよ〜!」
「えー?どこ情報よー。でもまじだったら会いたい〜!」
女の子たちが通り過ぎると、迅が帽子のつばを持ち上げ、俺の顔を覗き込む。
「だってさ、嵐山さん」
「迅…視えてただろう」
「もちろん」
余裕そうな笑みを浮かべた迅が触れるだけのキスをしてくる。
「っ…ここ外…っ!」
顔に熱が集まるのを感じながら形だけの抵抗を示す。…そう、形だけ。好きな人にキスされて満更でもないのだ。
「格好いいヒーローの嵐山准は、おれにちゅーされるとこんな可愛くなるってあの子たち知らないんだなぁ」
言葉にされると途端に恥ずかしくなり、しみじみしていた迅の頭に勢いよく帽子をかぶせる。
「うおっ」
「……ばか」
くるりと背を向け歩き出す。
後ろから可愛い顔隠せだの何だのと聞こえてきたが、俺は無視を決め込むのだった。