【題:スマイル】
ニコリと穏やかに話す先方の方々。
いつもとは違う笑みをはりつける同僚たち。
俺にはその笑顔が、この空間が、とても恐ろしく映る。
笑顔は俺にとって、どす黒い社会の象徴だ。だから怖くて、嫌いなんだ。
昔からだ。中学のときからずっと、両親や塾講師からの笑顔が、なんだかおかしく見えた。
全教科ほぼ満点のテスト。すべての欄に5と記された成績表。名門高校への入試の合格印。
全てが、大人たちにいびつな笑顔を与えた。
大人が使う笑顔なんて、ただの道具だ。そこに喜楽はひとつもない。
それは、俺も例外じゃない。皆と同じように笑顔を装備して、武器にしている。
金を稼ぐため
名誉を得るため
弱さを隠すため
そして生きていくために、笑顔を使う。
あのとき嫌っていた大人たちのようになるなんて、自分が嫌になる。
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ある日、会社で『笑わない人』に会った。
この春から、ともに仕事をする同い年の女性だ。
仕事はできるものの、常に無表情で必要以上の会話をしない彼女は、一般的に見ると社会人として異端だった。
俺は気になって、休憩時間に少し、彼女と話すようになった。
彼女との会話は楽だった。笑顔という呪いに気を使わなくてすむからだ。
二ヶ月ほどそんな日々を送ったある日、週末に二人で出掛けようという話になった。
提案は彼女から。駅前で小さく芸術品の展示をするらしいから、よければ一緒に行かないか、ということだった。
駅前の小さな展示と、休憩がてらよった小さな喫茶店。
少し、出掛けるにしては地味かもしれない。
お出掛けの間、彼女は相変わらず無表情だった。
けれど、展示の前では足を止める時間が長く、気に入ったものの前では、ほんの少しだけ姿勢が前のめりになる。
喫茶店の扉をあけるスピードが、いつもよりわずかに速い。
会話のトーンも心なしか上がっているような気がする。
表情には出ていないが、楽しんでくれているんだと理解した。
胸の奥が、少しだけ温かい。その温度が心地よかった。
そのうち夕方になり、駅で別れることとなった。
去り際、彼女は一瞬だけこちらを見て、言葉を紡ぐ。
「……やっと、心から笑ってくれましたね」
思わず立ち止まる。自分の頬に触れて、ようやく気づいた。
――ああ、今、笑えてるんだ
その時、笑顔が呪いから喜びへと変わった。
【題:どこにも書けないこと】
白紙の日記を前にして、右手にペンを握る。
SNSアプリを起動して、フォロワー数0の私のアカウントに投稿しようとする。
だめだ、書けない。
わたしだけの日記になら、なんでも書けると思っていた。
誰にも見られないXの鍵垢でなら、なんでも呟けると思っていた。
嬉しかったことも、腹が立ったことも、恥ずかしかったことも。
私しか見ないのだから、正直でいられるはずだった。
でも、これだけは書けない。
なんだか、書いた瞬間に形がひとつに決まってしまいそうだから。
その正体は、私は今苦しいんだとか、幸せなんだとかの、妄想か本当か分からなくって、揺れ動き続けている感情。
本当は楽しいこともあるのに苦しいって決めつけたり、嫌なこともあるのに幸せだって自分に催眠をかけてしまうのが、きっととっても怖いんだと思う。
だから、これはどこにも書けない。
書くべきじゃない。
人なんて皆あやふやだ。
迷い続けないといけないんだ。
……ああ、この文章も、本当は書いてはいけないのかもね。
【題:時計の針】
この春から、私は都会の方にある大学へ通う。
そう決まったときは子供のように喜んだ。
都会が楽しみだということも勿論だが、なんてったって一人暮らしができるのだ!
絶賛反抗期中である五歳下の弟やら、口うるさい両親から離れられ、自由に過ごせる――なんて魅力的だろうか。
ワクワクした気持ちで新幹線に乗り、人生で初めて、都会へと足を踏み入れた。
人々が早歩きで行き交う。車が一時も休まず動き続けている。
私の実家らへんにあったしんみり静かな気配はまるでない。代わりに冷静さや焦燥感が辺りを支配していた。
時間が、実際に私の地域よりも早く進んでいるのではと感じるほど、その差は明白だった。
私の暮らす場所は、駅から15分の一般的なアパートだ。
備え付けられているのは、小型冷蔵庫やらエアコン、布団などと最低限のもののみ。
このままでは食事すらまともに作れないため、家電を買いに行こうと思い立った。
大きなショッピングモールへ赴き、良さそうな包丁やフライパンなどを適当に購入した。
そろそろ帰ろうかというとき、時計屋を見つけた。
アパートには壁掛け時計がなかったからあると便利かも、と考え、入ってみた。
大小、白黒、様々な時計が、棚いっぱいに並んでいた。
カチリ、カチリと音を鳴らしているものと、スムーズに動き続けるものがあった。
同じ時間を刻んでいるはずなのに、何かが違う。
音を立てて進む針は、今どこにいるのかが分かりやすい。一秒ずつ、ちゃんとそこにある感じがした。
一方で、音もなく流れていく針は、気づけば少し先に進んでいる。見ていたはずなのに、いつの間にか時間が過ぎているような気がした。
なんとなく、時間を感じて過ごしたいと思って、音を立てて進む時計を購入した。
その日から、都会に組み込まれた私の部屋に、カチリカチリと時を教えてくれる音が流れるようになった。
【題:溢れる気持ち】
――もう、休みたい
他の人よりなんにも努力してないのに、強くそう思ってしまいます。
学校には週の半分ぐらい行けてません。
いけたとしても三時間目からとか、午後の授業からです。
課題もほとんど手につきません。やりたくないことが、何でか一つもできないんです。
ここ一ヶ月で提出した課題は、学校に着いてから急いでやった、歴史のプリント一枚だけです。
人ともほとんど話せません。学校で話す言葉は、一日で10言にも満たないです。
班活動では、一人だけなんにも話せないから、邪魔なだけでしょう。
夜は、寝たくありません。夜は楽で、日中より楽しいからです。
朝は起きられません。夜に寝ないからです。
みんな優しいから苛められたり不満を言われてないだけで、きっとみんなから要らないやつ、って見られてます。
それか、存在すら認知されてないかもしれません。
だからもう、ずっと休んでしまいたいです。
家で毎日、ゲームとか、SNSとか、自分がやりたいことだけしてたいんです。
でも、やっぱり、怖いんです。完全に止まってしまうってことが。
完全に止まってしまえば、それからずっと、もう歩き出せなくなってしまいそうだからです。
なんにもできない、ゴミみたいな人間になってしまいそうだからです。
だから、学校にいかなきゃって、いっつも言い聞かせてます。
でも、すぐに楽したいって気持ちにまけて、結局行けません。
今日は、お母さんに『どうしてほしいの?』って聞かれました。
休んでいいよ、って言ってほしい気持ち。
ダメな人間になりたくないから、無理やりでも学校に行かせてほしい気持ち。
もうほうっておいてほしい気持ち。
いろんな気持ちが一気に溢れてきて、ぐちゃぐちゃに混ざりました。
だから素直に、『分かんない』って答えました。
お母さんは寂しそうで、ちょっと怒ったような表情になりました。
喉がきゅっとしまりました。痛かったです。
もう部屋にいっていいよ、って言われたから、逃げるように自室へ入り、扉を閉じました。
その瞬間、『自分は弱いな』って気持ちがどばっと溢れてきて、体内を埋めていきました。
それは今、涙とうめき声という形で、外に出ていっています。
でも出ていったそばからまた気持ちが貯まっていきます。
いつになったら、溢れなくなるんでしょうか。
【題:Kiss】
『キス』って、文字の雰囲気からその実態までの全てがセンチメンタルで、キラキラしている。
一つ恋人に落とすだけで、言葉にできない深すぎる愛情を、相手に捧げられる。
そんな、大人だけがつかえる魔法みたいなものなんだろう。
中学生の私
不安定な私
初恋すら来ていない私
女性なのに、乙女心が全く分からない私
大人になりきれない私
私が嫌っている私
なんにも愛せない私
どんな私にも、決して交わることのない言葉だ。
そう思ってたから今日、挨拶代わりにキスをする国がある、って知って驚いた。
それは、恋とか欲とかじゃなくて、ただ「あなたがここにいること」を確かめたり、「大丈夫だよ」って伝えるためのものらしい。
触れるだけでいい。深い意味なんてなくていい、だってさ。
それなら、こんな私でも『キス』を使って良いのかな。
誰かにするなんてまだ出来ないから、一度、自分で確かめてみようかな。
好きになれない、私の黒いココロに『キス』をする。
胸がふわっと浮いたような感覚。少しだけ、満たされたようだ。
私の、不確定で不安定な明日に『キス』をする。
未来に流れ星が落ちる感覚。ああ、明日も生きていられそう。
嫌いな私にも、気に入っている私にも『キス』をする。
愛情にふれあう感覚。ちょっとだけ、私という存在を許せた。
私に勇気と安心をくれた。
やっぱり、『キス』は魔法だ。