【題:不条理】
――この世は、不条理だ
君から何度、この言葉を聞いただろう?
きっと、いや必ず100は優に越えている。
この後に、「努力したって夢が叶うとは限らないし、実力があっても幸せになれるわけじゃないし――」と一言一句同じように続くのがお決まりだ。
けれども、私は何度言われても、世の中には嘆き苦しむほどの不条理が溢れているとはどうも思えないのだ。
私はどこかで「努力や実力のほうが大きい」と感じてしまうから。
そう思ってはいても、不条理を嘆く、私にすがるような君の顔の前ではとても言えず、どこにも投げられずにこの気持ちはずっと誰にも見せられないままだ。
今日も、また君が口を開く。
「また模試の偏差値が下がった。毎日毎日遊ぶ時間もなく勉強してるのに。やっぱりこの世は不条理だ……」
そうだよね、たしかにね、なんてすっかり馴染んだ相づちを挟む。
「あんたはまた、成績が上がったんでしょ? やっぱあんた、地頭いいよね。うらやましい。私も、頭よく生まれたかった」
その言葉に、得たいの知れない不快感が生まれた。
たしかに私は頭がいいと思う。お父さんもお母さんも優秀な人だから。
でも、先天的なアドバンテージが能力のほぼ全てのような言いぐさが、無視できないほど心に引っ掛かった。
「……あのさ、地頭だけが全てじゃないでしょ? ごめん、正直にいうけどさ、私はそこまで世の中を不条理だとは思わない。勿論運もあるけど、それ以上に努力も重要な社会だと思うから。だから……」
「――そんなことない!!!」
体が跳ねる。聞いたこともないほど大きな声だった。
おそるおそる、君のほうへ視線を戻す。君は喉を一度大きく脈動させ、また話し始めた。
「不条理は、恵まれた人には――努力をしなくても生きてこれた人には実感できないんだよ!! あんたは幸せだね。不条理を感じなくてすんで……この世は、結局才能なんだ」
細められた目から、涙が流れ落ちている。
何も、言えなかった。そんなことないって反論したくても、私には世の中が不条理であることも、ないことも証明できなかった。
「……そ、っか」
君から目をそらす。
唯一ひねり出せた言葉は、それだけだった。
「じゃあね」
永遠のように感じた時間は、君がそう言って去っていくことで終わりを迎えた。
全身から緊張が抜け落ちて、その場に座り込む。
私はどうしたらよかったの?
分からない。誰も知らない。
ああ、確かにこの世は不条理だな――だれも、大切なことの正解を知らないなんて。
【題:現実逃避】
なんなんだろう、この空虚感は。
ベッドの上で一人、チクチクと痛みが主張する頭を回転させる。
私は一人でいるのが好きだ。だから、友達といえるような人がいなくても平気だった。
勉強は苦手でも好きでもない。だから、大学の講義やら課題も、なんやかんやこなせていた。
単純作業は得意だ。お金に困っているわけではないけれど、時間を忘れられるからチェーン店のキッチンバイトは結構気に入っていた。
でも、3ヶ月ぐらい前から、そんな生活が、だんだん嫌になってきた。
確か、きっかけは大学のグループワーク。
四人グループになる時に、女子三人組に入らせてもらった。そこにいる私は、どう考えても“余り”だった。
彼女らはなんだかとても楽しそうで……ああそうだ、自分の惨めさを、18歳にしてようやく理解したんだ。
一度自認すればもう止められなかった。
私と他人の間にあるフィルターが、明確に形を表していった。
私一人だけが、人間ではない別の種族ではと思えてしまうほど、他人と私はどこか違った。
話をふられても、受け答えすらできなくなった。声が、枯れてしまった。
今までの人生で、一人でいることになんの違和感ももたなかった自分が、到底信じられなかった。ある種の黒歴史のように、胸をじわりと、継続的に痛め付けた。
どんどん他人も、自分も分からなくなる。
外にいる、孤立した自分に、どうしようもない拒否感や嫌悪感を抱く。
2ヶ月前から、大学の講義を休みがちになった。その周期は、どんどんと早くなる。
1ヶ月前、バイトを辞めた。その前の月から遅刻・欠勤が増えてしまっていたから、周りは私が辞めたのを、ポジティブに受け取ってくれたと思う。
今は、外出自体が嫌になった。大学に行くのも週に一度程度だ。先週は一回も行けなかった。
有り余った時間は、つまらないSNSを見漁ったり、なにやら大きくてもやもやした問いに、なす術なく頭を抱えることへとつぎ込まれた。
ある日、「虚無感をなくすには」というタイトルのウェブ記事を見た。
「現実逃避も大事!自分が少しでも楽しそうだと思えることをやってみよう」と書かれていたので、すがるように実践してみることにした。
ベッドから出るのも面倒なものなので、スマホがあればできる動画視聴をすることにした。
前までずっと見ていた、いわゆる『推し』の動画。楽しくなって、笑える動画。
サイトを開き、その人の動画を2ヶ月ぶりに見てみた。
笑えなかった。
つい一年前にはげらげらと笑いながら見ていた動画が、とてもつまらなくなっていた。
――そういえば前の動画に、一人で実況なんて哀れですね、ってコメがきたんだけどさ。
いやいや、ひとり最高でしょ! 気ぃ遣わなくていいしさ!
人間関係で悩むぐらいなら、自由にいきればいいんじゃね!?
かわりに、発言の一つ一つが胸に突き刺さる。前までは、もっと救われてたはずなのに。
耐えられなくなって、スマホの電源を切って、布団にくるまる。
ああ、そうか――好きだったものも、嫌いになってしまったのか。
暗くて無音な部屋の中、ぼやりと壁を見つめる。
涙すら、流れなかった。
【題:太陽のような】
「まあまあ。切り替えて、次のテストで一緒にいい点とろうぜ! 今回の結果でずっと悩むなんて損だ、損!」
「……確かに、こんなことで悩んでるより、切り替えたほうがいいよね!」
「ああ! 次のテストに向けて、また一緒に勉強会しような!」
「ありがとう――やっぱり君は、『太陽』みたいだね! じゃあまた!」
先ほどまで相談相手だったクラスメイトが去ってゆく。
……思えば、いつからだっただろうか。
僕が、周りのみんなから「太陽みたい」と言われ始めたのは。
つい先日からのようにも、僕がまだ生まれる前からずっと、言われてきたようにも思える。
なんだか、その言葉が聞こえると、生涯いつも隣にあったようななじみ深さと、毎回毎回僕の心を刺すような新鮮さが、確かにそこに生まれるのだ。
そして、その度に僕は、もっと太陽として生きなければと焦る。
そうだ、僕の本性は、太陽なんかじゃない。欺き続けているだけなんだ。
本当は、もっとちんけな、小さなガラス玉だ。
公園で遊ぶよりも、家で寝ているほうがずっと好きだし、太陽のもとを歩くよりも、新月の夜に歩くほうが心地よい。
そんな自分の本性を落ち着かせるために、毎日の夜には散歩をする。
今日も、何度も通った道を歩いて、何度も座った道端のベンチに座る。
そして、物思いにふけるのだ。
――明日は、どんなことを学校で言おうか。
――週末の友人とのお出かけには、何を着ていけばよいだろうか。
――あの課題の感想欄に何を書いたほうが、「太陽」に近づけるのだろうか。
ぺらり……ぺらり……
何か音がする。意識が現実に戻される。
自分の右側からの音だ。そちらへ首を回す。
思わず、息をのんだ。
僕が座っている隣のベンチに、同い年ぐらいの少女が座っていた。
本を読んでいるらしい――のだが、その様のすべてがキラキラとして見えるのだ。
正した姿勢、なびく髪、目線の移動、一定のリズムで人差し指と親指を使いページをめくる動き。
優雅で美しくありながらも、どうしてか、いい意味で子供らしいエネルギッシュさも感じられるのだ。
「……どうしました? 五分間ずっと、こちらを見ていますが」
気づけば、話しかけられていた。
「……あ、いや、ごめん。なんでもない」
反射的に目をそらす。
なのに、彼女はふっと笑った。
「なんでもない、って顔じゃなかったですよ」
やわらかい声だった。からかうでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を述べるような。
「悩みごとですか?」
その問いに、胸の奥がきゅっと縮む。
太陽は、悩まない。
太陽は、いつだって前向きだ。
太陽は、人を照らす側だ。
「……別に。大したことじゃないよ」
いつもの言葉で、いつもの笑い方をする。
彼女は本を閉じ、膝の上に置いた。
「じゃあ、どうしてそんなに暗い顔をしているんですか?」
その言葉が、胸のどこかにすとんと落ちる。
暗く、見えているのか――
「……僕、太陽みたいって言われるんだ」
なぜか、口が勝手に動いた。
「……素敵じゃないですか」
「でも、本当は違う。僕は、そんな立派なものじゃない」
夜のほうが好きだし、ひとりのほうが落ち着くし、誰かを励ます言葉だって、家で何度も練習してから言っている。
「本物じゃないんだよ」
吐き出した瞬間、胸が少し軽くなる。
「――太陽って、ずっと燃えてるんですよね」
「……うん?」
「休まずに。ずっと」
彼女の視線が空へ向く。今日は月も見えない、新月の夜だ。
「それって、すごく大変だと思いませんか?」
ふっと、息がつまる。
「無理して光る必要なんて、ないんじゃないですか」
彼女は、そう言って立ち上がった。
街灯の下に出た彼女の姿は、眩しかった。
自然体なのに、どこか堂々としている。
無理に笑っているわけでも、誰かのために光ろうとしているわけでもないのに。
それが、どうしようもなく悔しかった。
「私はそう、信じてます」
本を抱えたまま歩きだす。
僕は立ち上がることもできず、ただ彼女を見上げていた。
――ああ。
僕なんかより、彼女の方がよっぽど太陽みたいじゃないか。
目を焼かれてしまいそうになりながらも、決して彼女から目をそらすことはできなかった。
【題:0からの】
大学で数学を専攻していると言うと、決まって同じような質問をされる。「計算、速いんでしょ?」とか、「一日中数字のこと考えてるの?」とか。
けれど私がいちばん好きな問いは別にある。
「何の数字が好き?」というものだ。
そのときだけは、迷わず答える、「0」と。
『0』を――『数学』を好きになったのは、中学生のころだ。
私の数学教師は、問題を解かせるよりも、「なぜそうなるのか」を執拗に問い続ける人だった。
公式の丸暗記を許さず、「方程式とは何か」「係数とは何を指すのか」と、言葉の輪郭を私たちに自分の力で捉えさせようとしていた。
初めての授業は強すぎるほど印象に残っている。
進み方の説明をしてから、先生はまず、黒板に大きく0を書いた。
「0は、すべての始まりだと言われることが多い。でもね、歴史的には逆なんだ」
――人間はまず、物を交換するときのために、1や2といった数を生み出した。
自分が物を渡すだけの時のために、失ったことを表す−1や−2も考え出した。
そうして長い時間が過ぎたあとで、ようやく“何もない”という状態を表す0が、数として認識された。
そんなことを説明したあと、一呼吸おいて、先生が口を開いた。
「ない、を、ある、として扱う。そこが面白いんだ」
その意味を理解した瞬間、黒板の『0』は、たしかに生命を持った。
動きこそしないが、なんだか、
「わたしはちゃんと、ここにいるよ」
って、やわらかなメッセージを送っているように見えた。
そうだ、「0」は、"記号"から、生きた"概念"となったのだ。
同時に『数学』が、『得意な科目』から『好きな科目』へと変わった。
だから今も、「好きな数字は?」と聞かれたら、私は少しだけ誇らしい気持ちで答える。
「0だよ」
0からのメッセージは、今もたしかに私の心に届いている。
【題:枯葉】
豪雨の後、今にも虹が飛び出てきそうな晴れ空のもと、コンクリートの通りを歩く。
出会う人々の多くは、短い袖の衣服を身に付け、また等しく汗を首筋に沿わせる。
私も、そんな大衆の中の一つだ。
まるで居酒屋のおしぼりを、身体中のすみからすみまでに貼り付けられているような、そんな不快感が、常に大きな声で主張し続けていた。
こんなときだけ、やけに冷たくってからからに渇いた、色のない時期が恋しくなってくる。
視界の果てまで続く、多様な緑を宿した街路樹。
光を反射してキラキラと、元気だよって証明するように輝いている葉っぱ達。
常に不快感に圧迫される心には、うざったくしか写らない。
この心模様には、枯れきった葉の方がよっぽど似合うだろう。
途端に、しわくちゃになって舞い落ちるそれや、くしゃりと声をだしながら大衆に踏まれるそれが、キラキラで夢のようなものに感じられる。
どちらかと言えば寒がりだというのに、夏の私は早く寒くなりますようにと願うのだ。
ああ、秋冬では枯葉を『切なくて儚いもの』だとしか捉えられないのに――どうしていつもいつも夏には、葉たちの3ヶ月後の姿を心待ちにしてしまうのだろう?
季節が巡るたび、私は同じ問いを抱え、この道を歩く。