お題【ごめんね】
「ごめんね」
「もういいって」
彼女はよく謝る子だった。何しても口癖のように謝って、身を縮こまらせる。デートでも、遅刻したのはこっちなのに、何時間も待ちぼうけした彼女が「走らせてごめんね」と頭を下げた。
大好きな恋人だが、その部分は好ましいとは嘘でも言えない。謝る必要ないだろとやめさせようとしたが、返事すら「ごめんね」だった。正直、少々疎ましくもあった。
「無駄に言ってると、ありがたみっていうか、軽く聞こえるからやめとけよ」
だからキツイ、棘のある言葉をぶつけてしまった。積み重なった不満や苛立ちを何も着せぬまま、彼女へと刺した。
彼女は目を見開き、硬直した。しかし、すぐにはっとして口を開くも迷うように開閉を繰り返す。結局黙ったまま、曖昧な笑みを浮かべて、小首を傾げるにとどまった。
少し言い過ぎたと後悔したものの、重たく息苦しい雰囲気と彼女の笑顔に口を噤む。泣きそうな、引きつった笑みだった。こちらの罪悪感を的確に突く、痛ましい表情。
その後、彼女は謝ることはなくなった。同時に口数も減った、何か……おそらく謝罪を言いそうになるのを堪える姿を何度も見た。
彼女から言葉を奪ったのだと、あとになって気がついた。
お題【半袖】
「ふつー、下になんか着るもんじゃねーの」
男の指摘に、むっとして「この暑さで重ねて着ろって?」と睨みつけた。
めいいっぱいの棘を込めたのに、男は気にしたふうもない。それどころか不躾で不埒な視線が、遠慮なく注がれてくる。まっすぐに胸部へ。ふっくらと曲線を描く身体、白いワイシャツは案外無防備らしく、同じく白い下着を薄っすらとうつしている。
普通ならキャミソールやら着るのだろうが、暑がりの自分にとってそれは自殺行為である。たまにこの花すら枯れ始める真夏に学校指定のセーター来ている生徒がいるが、本当に同じ生物なのか怪しいものだ。
「羞恥心はどこに落として来たんだよ」
「はっ、別に裸じゃあるまいし。下着だって形だけでしょ」
直接見えるわけでもない。気にするほどではない、公然わいせつ罪にあたるなんてこともないはずだ。
少々男子のうるさい視線が面倒だが、暑さと天秤にかければ。いやかけるまでもない。涼しさの方が大切だ、なんたって命にかかわる。わりと本気で。
「じゃあせめて長袖にしとけよ」
「死ねって?」
「言ってねぇよ」
呆れた男が仕方なさそうに立ち上がり、気怠げにちょい、と袖を掴んできた。
くいっと引っ張られ、胡乱に男を見上げる。何が言いたいのか、したいのかさっぱり理解ができない。
男はほら、と指をさす。
「腕上げたら、裾から下着が丸み」
「――変なとこまで見てんじゃないわよッッ!」
ばしんと渾身の力で男の頬を引っ叩く。げふっとうめき声がしたが謝る気どころか、もう一発食らわされないだけありがたいと思えよ、吐き捨てた。
男はなんでこうも、どうでもいいところで目敏くて、面倒なの!
鳥肌を立つ両腕を、己を抱きしめるように擦って早足で、その場を立ち去る。後ろから気をつけろよー、と呑気な男の声がしたが、当然無視した。
お題【天国と地獄】
「死ぬ天国か、生きる地獄。どちらの方が幸福なんだろうね」
猫脚ソファにゆったり腰掛け、ティーカップを傾ける男は突然、そんなことを呟いた。窓から入り込む朝日に照らされた姿は、品のある――いわゆる懐があったかそうな雰囲気である。彼専用に仕立てられたスーツにカフスボタンがきらめいて、見ていると無性に腹が立つ。
神様は不公平なので、一人に何個も与えて、一人に何も与えない。
「わたしは死ぬ天国を選びます」
無視すると後々めんどくさい。適当に返答して、同じく琥珀色の紅茶を喉に流し込んだ。同じ動作なのに、まったく下品だと己ながらも呆れる。
「君は悲観的だね。でもそういうと思った」
彼は眉を下げて鼻を鳴らす。足を組んで、目を閉じれば長いまつげを揺れた。薄い唇を震わすと、加虐的な色を含んだ声音が投げられる。
「だから、紅茶に毒を仕込んだよ」
「――……うそですね」
さらりと世間話のような調子で、とんでもないことをのたまう男を睥睨すれば「バレちゃった」とおちゃめな言い方をする。
ふざけやがって、と怒りたい気持ちを抑えるために拳を握った。なんせ自分は大人なので。我慢できるのである。
「でも一瞬だけ、どきっとしただろう? 死ぬ恐怖が上回った。すぐわかる嘘なのにね。小指の先ほどもない可能性に怯えた」
「……そういうとこ、大嫌い」
目を細める。その瞳がすべてを見透かして、知っているようで。そしてそれが真実であるのが、ますます気に食わない。なんていやらしいのだろう。それでも美貌はかげらないのだから、この世界は不平等極まりない。
男は緩慢な動きで頬杖をつくと猫のように、にんまりと笑った。
「つまりそういうことだよ。きみには死ぬ天国は選べない」
諦めて生きる地獄を選びなさい。
残酷な断言に、反論する余地はなかった。
お題【月に願いを】
「なにしてるの?」
「お願いしてるのよ」
おかあさまったら、今日も夜空にお祈りしてる。ちっともわたしを見てくださらない。うんともすんとも言わない、ただの白いつぶつぶのある黒に何があるの。そんなのことより私とお喋りしてくださったらいいのに。
私は熱でぼやける視界にむっとして、顔を背ける。ふかふかのベッドの中で、布団を頭までかぶった。まっくらで空みたいできもちわるいけど、おかあさまよりましだわ。
腫れて痛む喉を無視して、とげとげしく文句をぶつけた。
「星に願ったって叶わないわ」
「あら、この子ったら。星になんか願わないわ」
くすくすと楽しげに笑ったおかあさまが、動く気配がする。布団ごしに優しく頭を撫でられて、ますます嫌なきもちになった。
子供扱いはきらい。病院で泣いたら「子供じゃないでしょ」ってなだめるくせに。つごうがいいんだから。これだから大人ってきらいなの。
「お月さまに願ったのよ」
「……月?」
聞いたこともない、思ってもいない返事にわたしは、まぬけに聞き返した。星にお願いごとは絵本で読んだけれど月というのは初めて聞いた。でもどっちにしたって。
「お月さまだって叶えてくれないわ。ほら、わたしは変わってないもの。お熱だってひいてくれない、自由にそとへもいけない。なぁんにもできないもの」
「お月さまはね、不思議な力があるの」
おかあさま、やっぱり聞いてない。いつもそう、へんな人たちの話はすなおにうんうんと頷いて、涙流しながら聞くくせに。わたしの話になんか興味がないみたい。
「お月さまはね、魔力の塊で、光を浴び続ければ万病が治るの」
「なおらないよ」
「治るわ、なんてこというの? あの方のことが信じられないの」
あの方というのは誰だかしらない。なんだか偉そうなひとが一度来たけど、そのひとかしら。
おかあさまが布団をうばった。わたしの腕をつかむ手は冷たくてきもちがいいのに、むねは押しつぶされるようにいたい。
「おかあさま」
「さぁお月さまにお願いしたから。もう大丈夫よ、お外で光を浴びましょう」
「おかあさまうごけないわ」
「さぁさぁこのカーディガンを羽織って」
「おかあさまのどがかわいたわ」
「さぁ」
おかあさま。
わたしのこえはとどかない。よたよた、おかあさまのあとをついていけば庭に出る。今日初めて見上げた、くらい、くらい、そら。わたしのむねを押しつぶそうとせまってくる。
ねぇおかあさま。
「ほら、もう大丈夫よ」
――おつきさまなんて、どこにもないよ。
星すらない、まっくろなおそらを見上げるおかあさまは、幸せそうに笑った。わらった、きがした。くらくて、みえやしない。
やまないのね。
女の呟きが部屋に転がる。いいや、やんでいるとも、と答えた。凪いだ女の瞳は海の底のようで、恐ろしい。たおやかに微笑む薔薇の唇が、女の強さをたたえていて、怖い。
「かわいそうなひと」
清廉な、美しい声で憐れみを与えた女。滑らかでか細い人差し指が、伸びてきて頬を撫でた。ぬぐうような仕草だが濡れてはいない。
それでも女はやめない。何度も何度も恍惚とした表情で、頬を愛撫する。撫でて爪を立ててひっかいて、顎の輪郭を確かめるようになぞった。
「あめをやめないで」
拙く、熱を孕んだ懇願がぶつけられる。
「やんだら、あいせない」
唇が頬を食む。舌をちろりとのぞかせて、猫のようになめる。
あめは、もう、やめられない。