お題【失恋】
「泣いているのか」
夕暮れ。誰も寄り付かないはずの校舎裏。制服のスカートが汚れるのも気にせず、体育座りをして膝に顔を埋めていた女に、天から声が降ってきた。
デリカシーの欠片もない。それどころか愉快そうな男の声音に、女は傷ついた心が更に荒波立つのを感じた。今二番目にあいたくない知り合いだ、人の不幸は蜜の味だと言わんばかりにいじめるサディスト。死ねば良いのに、心で呟いた。
「泣いてなんかない」
強がりだとしても弱みなど見せたくない。顔をあげず、涙声がばれないように必死に取り繕った。鼻をすするのすら我慢すれば、自分の顔が如何に酷いことになっているか容易に想像がつく。みっともなくて、どうしようもなく哀れ。
「別にそんな敵意を向けなくてもいいじゃないか。俺が告白を振ったわけでもないのに」
「ええ、そうよ。あなたは何一つ関係ない。だから即刻ここから立ち去って。傷心の女を一人にしてあげる気遣いぐらい見せたどうなの」
「いやいや。友達が苦しんでいるのに無視するなんて、心優いい俺にはとてもとても」
「死ねばいいのに」
「こぉら。強い言葉は使ってはいけないよ」
隣に腰掛けた気配がする。彼の存在が嫌でも感じて、元もなかった余裕が血を溢れさせて削られていく。
泣いてたまるものか。と意地をはっても、目はちっとも言う事を訊いてはくれない。目の奥が熱くなり、勝手に涙がこぼれて膝を濡らしていく。
「そんな苦しいなら恋なんてしなければいいのに」
男の元も子もない言葉に鼻で笑った。その通りだ。真理である。そんなこと、とうの昔に知っていたとも。
「それでも、勝手に恋したのよ」
「君の心なのに?」
「そうよ。この世界にはね、自分の言う通りになるものなんて、何一つないの。世界も他人も自分の身体も心も、どれだって勝手に動いてしまう。本当に嫌になる」
「失恋ひとつ、変に悟ってしまっているね」
「そう。たかだか失恋ごときでね、人生はこんなにもどん底に突き落とされるらしいわ。こんなことになるぐらいなら、恋なんて一生しないでいたい」
「できそうかい」
「言ったでしょう。この世界に、私の言う通りになるものなんて、何一つないんだって」
失恋の棘は胸に深く刺さり、未だ鮮血を溢れ出して地面を濡らしている。えぐられて、ぐちゃぐちゃにされる。
こりごりだ。恋などしたくない。
そう願った時点で、自分はまたいつか恋をしてしまうのだろうと漠然と思った。何故ならば、言う事を訊いてくれないのだから、この世界は。
正直
「正直に生きている、と君は胸張って言えるかい?」
「そんな人間この世には存在しない」
悲観的になるつもりも、世を憂いている気もない。だが、純白で居続けるの夢のような話だ。今どき、深窓のお嬢様でも不可能に近い。
家族、友達、知り合い、上司に至るまで人付きがあれば、嘘は必ずつく。大きいか小さいかの違いくらいしかない。
そう、目の前で優雅に気取ってソファにゆったり腰掛ける男に告げる。いけ好かない男だと睨みまでつけた。
すると男は、実につまらなげに溜息をつく。君にはがっかりだよ、という副音声まで聞こえてきそうだ。
大仰な動きに鼻白む。この男の仕草はいちいち癇に障るので話するのは疲れが貯まるのだ。できるならば、対応したくもない。
「そんなやぐされてて大丈夫かい。まだ二十代だろう」
「そっちこそ、三十代の男が正直に生きられる幻想をいだける脳内お花畑で大丈夫ですか」
「口が悪いね、慎みは持つべきだ」
「女だからとか男だからと区別するのは古い考えです。ナンセンスにもほどがある」
「僕は女だからとは言ってないよ。人間は平等に慎みというのを学ぶのが大事だと思っている。区別しているのは、そう曲解した君の方だろう」
やはり。この男とは一生気が合わない。いや意気投合できるやつなどいるのだろうか。いたとしたら。
そこまで考えて頭を振る。恐ろしい妄想だ、絶対あいたくない。
「’正直者というのはね、嘘なんて関係ないのだよ」
「はい?」
「君は正直だよ。とてもね」
にこりと微笑んだ男の思考など読めない。
だがそれこそ嘘だと叫べない。男は、心底そう思っている。もう、何度も、何度も言われたから。
「君は嘘をつけない」
「嘘ついてます。今日だって」
「いるんだよ。どれだけ嘘をつこうと、正直になってしまう不器用な人間は」
女を遮って、全てを見透かしたような瞳を向けて、邪気なく微笑んだ。
お題【梅雨】
じめじめと湿気の多い部屋に、大粒の雨が屋根を叩く音が響く。薄い壁に安い家賃のアパートに、エアコンは設置されていない。除湿機という上等な物があるはずもなく、畳の上でぐでんと溶けるように倒れていた。ぺとぺととした肌に気分が悪い、ため息がもれ出たとき。
「もー、そんなだらだらして! カビが生えても知らないんだから」
一種の清涼剤とでもいうべきか、怒っているのに優しさが根底にある幼馴染の声がした。目だけ動かせば、上から見下ろす可愛い顔。眉根を寄せて、腰に手を置く。あからさまに怒っていると主張しているのが、わかりやすい。
ギャルゲーみたいだな。
阿呆の感想を抱いて見つめ返せば、彼女は諦めたように台所へと向かってしまった。とんとん、包丁のリズミカルな音に雨音がまざって心地よい。うとうと、微睡んで目を閉じる。
「ねー、オムライスでもいい?」
「んー」
「嫌なら、買い物に……聞いてないでしょ」
聞いているとも。だが、誰が雨の道を歩きたいと思うのか。生返事に、彼女はますます不機嫌になったようで「もういい!」と黙ってしまった。可愛らしいが怒りやすいのがたまのキズだ。
「雨の日ぐらい、家でデートしたいって言ったのはそっちじゃん」
「……は? それ言ったのはそっち!」
「そうだっけ?」
「私が休みの日は外ばかり行きたがるから、雨の日はお家でまったりしたいって言ったの忘れた?」
「忘れたー」
「さいってー」
行きたいカフェあったのに。文句をぶつけてきたが、のらりくらりとよけて、ごろんと横を向く。
雨の日ぐらい、家にいたい。二人きりでいたいと思う。多分、そう素直に伝えれば喜ぶだろうけど、気恥ずかしくて誤魔化した。
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、
「君の、最後の言葉がなんだったか――だよ」
どんよりとした分厚い灰色の雲から、大粒の雨が降り注ぐ。蝙蝠のように黒い傘を叩いて滑り、墓石や土の地面に落ちていく。
何時間、そうしていたかも覚えていない。傘と同じ色のズボンの裾は濡れて重くなり、靴の中も雨水が入り込んでいる。気持ちが悪い、今すぐ家に帰って冷え切った体を、温かいシャワーでいたわりたい。
そう思うのに指一つ動かない、傘の柄をきつく掴んだ手は氷のように固まってしまった。
「なぁ、きみは最後になんて言ったんだ」
死ぬ直前。真っ白で統一された病室で電子音が響く中、呼吸器をつけた彼女は虚ろな目で、こちらを見ていた。ベッドに力なく横たわる身体は枯れ枝のごとく弱々しく痩せていて、見ているだけで痛々しい。
乾いた、かさかさの唇を何度も動かして訴える。しかし彼女の喉は機能してなかった。声はなく、もはや呼吸音すらか細い。もう死ぬのだといやでも分かった。
彼女の母親がしきりに彼女の手を揉み、頬を擦りよせた。泣きながら話しかけていたが、彼女の意識はどうでもいいクラスメイトである自分に向いていた。
場違いな自分が呼ばれた理由も不明で、ただ見つめ返す。彼女は何度も口を開く。何度も、何度も、何度も。
やがて力尽きた彼女は目を閉じる。唇の動きも鈍くなり、
「――」
彼女の死を、電子音があっけなく教えた。
「なんて、いったんだよ」
彼女が元気なとき、いつも天気の話からしてきた。多分話題が思いつかないのかもしれなかった。それでも話しかけてきた理由すら、知らない。そういえば。
死に際、彼女の目線は窓の外に一瞬だけ向けられた。いつものように、天気を確認するみたいに。そして「今日は雨だね」と笑いかけたりする。
彼女は、他にも、何か日常で言ってなかったか。
「ねぇ今日は雨だね」
「曇だね、肌寒い」
「雪だよ! 寒いけどきれいだね」
「晴れたねぇ、熱中症には気をつけて」
「ねぇ、今度、雪が降ったら」
降ったら?
伝えたいことあるんだよ。
「……あぁそうか」
傘をたたんで、雨に濡れる。死んだ日、雨が降っていた。雪ではない。彼女が求めていた天気では、なかった。
――ゆきじゃない、ざんねん、だね。
言われてないのに、声が再生される。
なぁ。天気の話なんてどうだっていいんだ、僕が話したいことは。
きみの、伝えたいこと、だったんだよ。
ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。
毎夜同じ夢を見る。あてもなく、茂る森や高層ビルが並ぶ街などを走る夢。止まることなど許されず、闇雲に命を削るように、感覚すら消え始めた足を必死に動かす。死物狂い、という言葉がよく似合う夢であった。
目が覚めれば見慣れた木の天井、朝の清々しい太陽の光が出迎える。しかし体は汗で冷えて、寝間着はぐっしょりと濡れて不快でしかない。本当に走ってきたかのように呼吸が乱れ、どっと襲いかかる疲労感に、体力など回復しなかった。
「何かに取り憑かれてるのかも」
重たい体を引きずり、学校の友達に相談すれば暫しの沈黙が流れる。
目の下の色濃い隈や見るからに痩せ細っていき、痩けた頬から只事ではないと判断したのだろう。友達は「なら今日は泊まるよ。あなたが魘されていたら起こしてあげる」と提案した。
その日は久しぶりの休息を得た気分だった。なんてことない会話と暖かな食事を楽しみ、風呂にて疲れを流し落とす。嫌で仕方がなかった布団も、隣に同じく客人用の布団で寝転ぶ友の笑みを見れば気持ちが楽になる。
「そろそろ寝ようか」
夜の十時すぎ早寝早起きの友達は欠伸をして眠たげな目を擦る。まだまだ話し足りないが、付き合わせている身として無碍にできず、渋々うなずいた。
その日の晩。やはり同じ夢を見た。
夢だと認識しているのに足は止まらず走り続ける。止まれば死ぬとでも言わんばかりに。ぜぇぜぇと呼吸が苦しくなり、頭すら痛む。あぁやはり変わらぬと嘆いた。
そのときだ
「――ッッ!」
名前を呼ばれ、腕を掴まれる。ぐんと後ろに引っ張られ、肩の関節が抜けるかと思うほどの痛みに顔を引きつらせた。
悲鳴がこぼれ、半狂乱で腕を振り回す。しかし掴む力は強まるばかりで、頭が真っ白になり、無我夢中で掴む何かを。
どぼん。
落ちる音がした。自分が何をしでかしたか、わけも分からず固まる。まばたきを繰り返せば登下校の道、とある橋の上だった。のろりと視線が下へと、流れる川の水面に向けられる。
何かが浮いている。☓☓が。理解したくない、すべきではない。
おなじこうけいをみた。さいきん、どこで、そう、あれは。
「ねぇ、――さんっていたじゃない?」
「隣のクラスの? 今休んでるよね」
「あれ、休んでるんじゃないらしいよ」
「えっ、じゃあ、なんで」
「警察に捕まったんだって! ほら仲の良かった☓☓さん、あの子を川に突き落としたんだって!」
「うそだぁ、殺したってこと?」
「なんか揉めたらしいけど……なんかーおかしくなってて、なぁんにも答えないらしいよ。一昨日の夜、パジャマのまま橋に向かってぶつぶつ呟いてるのをケーサツに発見された、だって」