「ぅ、えっくし!!!」
喫煙室に響き渡るくしゃみに、その場にいた連中は顔を顰める。
「汚ね、うつすなよお前」
鼻水を啜りながら、俺は設楽に忌々しく告げる。
「移んねぇよ。花粉は」
この時期の憎いあん畜生がやってきた。由々しき事態だ。
「えっ、豊田お前花粉症だっけ?いつから?」
「多分一昨年くらい…病院行ったのは去年」
「うわ、課長俺もっス。杉?」
頷くと根田が哀れみの視線を向ける。顔が「うわぁ」と言ったままで固まっている。
「俺、稲っス」
「稲もしんどいって聞くな…」
ポケットティッシュを取り出し鼻をかむ。残り数枚。心許ない。
「俺に金さえありゃな…」
「新薬でも作るのか?」
我関せずな設楽がフウと煙を吐き出す。
「いや。『花粉撲滅党』って政党立ち上げて日本中の杉林刈り取る」
「そっちかい。出馬って幾らだっけ」
「300」
案外するな、と二本目に火をつけながら設楽が嘲笑する。
「流石に世の林業従事者が黙ってねえだろ」
電子タバコを指揮棒のように振りながら俺は答えた。
「でも絶対過半数以上は議席取れるね」
「杉切り終わったら解散する政党なんてあるか」
俺たちのやり取りを聞き、根田が閃いたように言う。
「あ!そしたら稲刈ったらいいんですよ」
「稲は植えたら刈るまでがセットだろうが」
「…確かに」
「稲ってそのイネじゃないだろ、確か」
スマホで調べ出す俺に、設楽が呆れ声で言う。
「今の会話みたいなの、なんて言うか知ってるか」
「”一攫千金”?」
「”取らぬ狸の皮算用”」
スマホから視線を外さずに言う俺たちに、溜息混じりに設楽が答える。
「……”机上の空論”」
≪意味がないこと≫
♪おおきなくりのきのしたで あなたとわたし なかよくあそびましょう…
「イヤ!!もうたっくんとはあそばない!
くぅちゃんの方がせがたかいもん!あしもはやいの!
じゃなきゃイヤなの!だからもうあそばない!もうたっくんってよばない!あっちいって!!」
努力が実を結ぶなんて嘘だ。僕は幼稚園でそれを身を持って体感した。
チビだと揶揄われ、かけっこだとビリ。カッコいいと言って欲しくて、父と一緒に走る練習もした。毎日好きでも無い牛乳も飲んだ。子どもなりに努力したつもりだった。でも。
「うわ、デカ」
「自販機よりデケェじゃん」
ヒソヒソと僕に向けられる陰口が、ホームに滑り込む電車と共に掻き消える。
成長期と共に僕の身長は190センチまで到達した。クラスの男子たちには「自分が小さく見えるから」と避けられ、女子たちには「圧迫感がある」と避けられる。
おまけに学校規定の机は高さが低すぎて、万年猫背で姿勢が悪い。そのせいで視力も悪いし目付きも悪い。いいことなんて無い。
電車に乗り込み、リュックを抱え込んで隅に立つ。ドア付近だと邪魔になるからなるべく連結部分近くで縮こまる。
発車してしばらく、そのドア付近で男女が言い合いをし始めた。恐る恐るその方を見れば、片方は見覚えのある顔だった。
(くぅちゃんだ)
サラリーマンが苦言を呈していたのは、僕の近所に住む同級生の中川来未だ。幼稚園から中学まで一緒だったが、高校は別の学校へ進学した。
「は?なんなん。先にぶつかったのそっちじゃん。てか謝ったのにウザいんだけど」
「だから、その態度は何だって言ってんだ」
車内の空気がピリつく。僕は咄嗟に彼女たちに近づいた。
「あ、あの」
「ああ?……うおっ?!」
デカ、とサラリーマンが尻込む。僕は彼と彼女の間に割り込むように立ちはだかった。声がうわずり心臓がバクバクと破裂しそうだった。
「あ、えっと…こ、声、大きいんじゃないかな…って…」
電車の音で掻き消えそうになりながらも、僕は精一杯伝える。もう理由なんて何だって良かった。この騒ぎが収まれば。
サラリーマンの方も、図体の割に気弱な発言に気が萎えたのか「お、おう…」と気まずそうにして、それ以上は彼女に食ってかからなかった。
小さく会釈して彼女の方に向けば、彼女は僕を見上げるように睨んだ。
「…だる」
「ご、ごめん…」
そう謝ると同時に電車が大きく揺れた。慌てて手摺りに捕まるも、吊り革が顔面に直撃する。
その様子を見て、彼女が小さく吹き出す。
「え?嘘、それで顔打つ人初めて見たんやけど」
昔と違う髪色、髪型、化粧、爪には綺麗にマニキュアが塗られている。だけど笑顔は昔のままだった。
「は、はは…。あ、あのさ、く……中川さん」
「え。どしたん急に。タニンギョーギじゃん。……たっくん」
挑発気味にそう呼ぶ彼女に、僕は困惑する。嫌われてるものだとばかり思っていたから。
「あ、はは…く、くぅちゃ…」
「キモ」
「えっ」
いつも背比べしていたあの日。いつも見下ろされてた僕。
いつの間にか逆転して、離れ離れになっていた僕たち。
“ふたり”と呼ぶには少し頼りない。そんな関係。そんな君と僕。
≪あなたとわたし≫
雨は嫌いだ。身体を芯から冷やしていき、感覚を奪う。
何より、自身が犯した沢山の罪の証拠を洗い流していくようで、居心地が悪かった。
「三耀は雨が嫌いかい?」
賽花が繕い物から顔を上げ尋ねる。答えなどとうに出ているというのに、彼女にそう聞かれると何故か俺は言葉に窮した。
「別に嫌いって訳じゃ…」
「けど、朝起きて雨が降っていると気落ちして見えるよ」
「そりゃ誰だってそうでしょ」
雨が降れば畑仕事は捗らないし、何より散歩さえ儘ならない。彼女と違って手持ち無沙汰になる。
「運動出来なくて彼女の機嫌が悪くなるからかな」
そう言って賽花は窓の外を見た。視線の先では仮作りの厩で愛馬が不機嫌そうに嘶いた。
「まあ、それもあるけど」
そもそも、この三耀という名も仮の名だ。記憶を無くしこの山中に行き倒れていたのを、賽花に拾ってもらった。その折に彼女の父の名を借りることになった。
だからこそ、思い出したい。元々俺は何者だったのか。何故あんな立派な軍馬が俺に懐いていたのか。
雨に降られる度に、記憶が洗い流されていくみたいだ。本当の自分から遠のいていく気がして焦りが募る。別に今の生活が嫌いなわけでも無いのに。
「…私はね、雨は好き”だった”よ。君がそんな顔するようになるまではね」
彼女は不思議だ。俺の何もかもを見透かしてるような気がしてくる。
「そろそろ君は消えて居なくなってしまうのかもな」
「そんなこと…」
無い、とは言い切れなかった。今だって、何故か駆け出して元いた場所に戻りたい、と掻き立てられている。どこに居たのかも分からないのに。
続きを言い淀む俺の言葉を遮る様に、愛馬が再び嘶いた。まるで俺を呼ぶように。
「……けれど迎えが来たみたいだよ」
賽花が諦めた様に苦笑した。俺はその言葉にハッとして外へ駆け出す。靴に泥が染み込むのを気にかけることもなく。
山の木々に雲間から差し込む光が当たる。霧雨が辺りを靄がけて、そこに居る存在の輪郭をぼやかせた。
「——若様!」
誰のことを言ってるんだ。俺にも分からなかった。なのに咄嗟にそう呼びかけた。
美しい毛並みの軍馬に跨った錦の鎧の男は、雷鳴が轟く様な大声で俺に呼びかけた。
「何をしている!早く帰って来い!—“ ”!」
その声を聞くや否や、俺は厩に向かって叫んだ。
「翡翠!」
呼ばれた彼女は柵を軽々と飛び越え俺の元へと駆け付ける。躊躇うことなく跨がれば、疾風の様に俺たちは駆け出した。
全身が雨でしとどと濡れる。けれどなりふり構わなかった。
(賽花に礼もしてないのに)
そう思い後ろを振り返れば、霧の向こうに確かに彼女が立ち尽くし俺を見送って居た。
何も気にすることはない。そう、言っているように見えた。
「一体どこをほっつき歩いていたのだ、岱」
あの山中で見た時と同じ、錦の鎧を身に纏った偉丈夫…従兄の馬超が問うた。
「はは、俺にもさっぱり…けど、多分」
あの日と同じ柔らかな霧雨に包まれながら、三耀—もとい、馬岱が答えた。
「山の神様にでも魅入られてたのかも」
豫劇:収馬岱 より
≪柔らかい雨≫
昔、父さんが言った。
『レイ、お前の名前は”一筋の光”という意味なんだ』と。『いつか迷った人達がお前を目指して進めるように、誰かの光になりなさい』と。
でも結局、俺は誰かの光にはなれなかった。俺の力量不足で部下達を沢山失ったし、俺自身も大きな怪我を負った。
戦場で敵や味方の遺体と一緒に転がりながら、俺はぼんやり思った。
(ああ、帰って愚痴聞くって言ったのにな)
ウォーカーだったら上手くやれてたのかな。アイツは器用だし俺と違って視野が広いから。もっと上手く部下達を逃してやれたかもなぁ。
粉塵で茶色く濁る空を見上げる。さっきまで嫌に痛んでいた左腕は、最早感覚すら無くなっていた。涙は枯れ果てた。
そうする内に、俺の意識は途切れた。
***
野戦病院で再会したレイは、全身包帯まみれで御伽話で見たミイラのようだった。
それから足繁く通っている内になんとか意識を取り戻し、そこからの回復は目覚ましいほどだった。
しかし、流石のレイでも精神的に参っていた。目の前で何人もの部下を失ってきたのだから心中を察するに余りあった。
かつての明るさは鳴りを顰め、代わりにベッドから外を眺めることが増えた。
毎日時間を割いて会いに行くも、会話はあまり弾まず、俺は次第に焦り始めていた。
そんなある日。
「ウォーカー、お前の名前さ…俺が決めたじゃん?」
ようやく口を開いたかと思ったら、随分と昔の話をし始めた。
レイの言う通り、俺の名は奴が決めた。俺は孤児のまま育ち成人してからも名無しのまま生きてきた。
軍が難民の為にと炊き出しをしていたキャンプへ迷い込んだ俺に、レイが食事と共に俺に名をくれたのだ。
「俺の名前さ、父さんが付けたんだ。”一筋の光”って意味なんだってさ」
「ああ、一度だけ聞いた気がする」
「なんか…名前負けしてるなーって、思って」
そう言うとレイは右腕で両膝を抱え込んだ。左腕はまだ感覚があまり無いのか、だらりと下ろされている。
「…そんなこと無いさ」
「ウォーカーは、その名前…気に入ってる?」
「勿論」
ウォーカー・ライト。光を歩む者。名付けられた当初はなんて小っ恥ずかしいダサい名前だと思ったものだ。
けれどレイの名前の話を聞いた時、何故か嬉しかった。何故なら。
「レイ。お前にとってはなんて事ない出来事だったかもしれないが…俺はお前に救われたと思っているよ」
レイが膝から顔を上げて俺を見る。改めて言葉にするのは気恥ずかしいが、レイが元気になるならどう思われようと構わなかった。
「名前なんて無くても生きていけたんだ。それなのに、お前だけが俺に名を尋ねてくれた。無いと答えたら『付けてやる』と言ってくれた。道端の石ころだった俺をを拾い上げて丁寧に磨いてくれた。いつだって俺を導いてくれた」
格好をつけて言いたかった言葉は、途中詰まりながら、掠れながら、何とか口にできた。
「レイ。俺にとっては、お前は歩むべき”道筋”だったよ」
そこまで言ってレイを見やれば、琥珀色の瞳に溢れんばかりの涙を溜めていた。けれどその表情は先程よりも明るく嬉しそうであった。
「へへ……なら、良かった」
そう微笑むと、堪えきれなかった涙が一粒ニ粒と零れ落ちた。光を受けたそれが、乱反射して宝石の様に輝いた。
二人して照れ臭さから小さく笑う。心地いい笑いだった。
「…あー。こんな落ち込んでる場合じゃないな!皆に顔向け出来ないや。まずは治療頑張らないと」
少しだけ吹っ切れたその表情に、俺は小さく頷いた。漸く踏み出せた一歩を後押しできる様に提案する。
「ならそうだな…日常生活で腕を使う練習をするのが一番だそうだ。まずは紅茶でも淹れられるようにしてみるか?」
紅茶!そう呟いたレイの表情が少しだけ曇る。どうしたのかと言葉の続きを待てば、気まずそうに言った。
「そもそもの淹れ方分からないんだけど…大丈夫かな?」
そのなんとも締まらない言葉に、俺は思わず声を上げて笑った。
≪一筋の光≫
縁側で緑茶を啜り、善は背を丸めた。側には愛犬のきなこ(柴雄6歳)が寄り添う様に日向ぼっこをしていた。
今日は曾孫が帰省する予定だった。しかしその父親(善から見たら孫娘の婿)が熱を出したらしく、予定が延期になってしまった。
その為、善は手持ち無沙汰になってしまい、こうして庭をぼんやりと眺めているのだ。
「お義父さん、お昼ですよ」
嫁がそう声をかけるも、善はぼうっと動かないままだった。
「美里さん、いいのよ。放っておきなさい。勝手に食べに来ますよ」
妻の絹江がそう言って嗜めた。いや、恐らく善にそう言ったのだろう。少し嫌味な物言いに、善は少し顔を顰めた。
◇◆◇
「風邪?」
「はい、二日前から」
休日に出掛けようと約束をした日、善は待ち合わせ場所に来ない絹江を迎えに家へ向かった。
しかし、彼女の弟曰く二日前から熱が出て寝込んでいるそうではないか。
手ぶらで来たことを後悔し、弟に宜しく伝えるよう言って踵を返した。そのままその足で汽車を乗り継ぎ、百貨店へと向かった。
再び絹江の家へ辿り着いたのは日が傾きかけた頃だった。
「絹江さんに」
それだけ言って善は絹江の母に百貨店の袋を押し付け一礼した。中には餡蜜とシトロンが入っていたそうな。
***
善は手持ち無沙汰であった。本当なら絹江と公園を散歩して、昼食でもと誘うつもりでいた。
だが出鼻を挫かれ善は内心狼狽えた。それが自分だけ浮かれているようで少し恥ずかしく歯痒かった。
ぼうっと陽が沈むのを腰掛け眺めていた。とんだ骨折り損だ。どうせ今日も彼女が喋り通して口も挟めず、昼飯も行けなかっただろう。何を期待していたんだか。
そうして背を丸め溜息をひとつ。そんな背に声がかかる。
「善さん」
「……!?絹江さん、あんた何で…」
頬を林檎の様にまんまる赤く染め絹江は立っていた。善が慌てて駆け寄れば、困った様に笑った。
「母さんが『善さんがお見舞いに来てくれたよ』って教えてくれて。あたし、約束すっぽかしちゃったから…お礼とお詫びを言いたくて…」
まだ汗ばんだ顔といつもより少ない口数。善は頭に血が上る感覚がした。自分のせいで無理をさせたのだ。
「っ、ばかやろう!寝てなきゃ駄目だろうが!」
思わず怒鳴ってしまった事を善は直ぐに後悔した。だがそれを意図もせず絹江は微笑んだ。
「でも、善さんに会いたかったから…」
夕陽に照らされた頬が熱くなるのが分かった。耳まで熱い。今日の夕陽はやけに強い日差しだ。
「お、」
彼女の視線に合わせるように、善は背を丸めた。
「………俺だって」
◇◆◇
「お父さん、拗ねてないで早く片してくださいな」
絹江の呆れ声がその背に投げられる。
あの日と一緒。丸まって、小さくて、哀愁を誘う寂しげな背中。
(本当、見かけによらず寂しがりやなんだから)
ふふ、と思わず声が漏れれば、丸まった背が気恥ずかしそうにしゃんと伸びた。
そうしてようやく腰を上げた彼に、絹江は微笑んだ。
≪哀愁を誘う≫