雨は嫌いだ。身体を芯から冷やしていき、感覚を奪う。
何より、自身が犯した沢山の罪の証拠を洗い流していくようで、居心地が悪かった。
「三耀は雨が嫌いかい?」
賽花が繕い物から顔を上げ尋ねる。答えなどとうに出ているというのに、彼女にそう聞かれると何故か俺は言葉に窮した。
「別に嫌いって訳じゃ…」
「けど、朝起きて雨が降っていると気落ちして見えるよ」
「そりゃ誰だってそうでしょ」
雨が降れば畑仕事は捗らないし、何より散歩さえ儘ならない。彼女と違って手持ち無沙汰になる。
「運動出来なくて彼女の機嫌が悪くなるからかな」
そう言って賽花は窓の外を見た。視線の先では仮作りの厩で愛馬が不機嫌そうに嘶いた。
「まあ、それもあるけど」
そもそも、この三耀という名も仮の名だ。記憶を無くしこの山中に行き倒れていたのを、賽花に拾ってもらった。その折に彼女の父の名を借りることになった。
だからこそ、思い出したい。元々俺は何者だったのか。何故あんな立派な軍馬が俺に懐いていたのか。
雨に降られる度に、記憶が洗い流されていくみたいだ。本当の自分から遠のいていく気がして焦りが募る。別に今の生活が嫌いなわけでも無いのに。
「…私はね、雨は好き”だった”よ。君がそんな顔するようになるまではね」
彼女は不思議だ。俺の何もかもを見透かしてるような気がしてくる。
「そろそろ君は消えて居なくなってしまうのかもな」
「そんなこと…」
無い、とは言い切れなかった。今だって、何故か駆け出して元いた場所に戻りたい、と掻き立てられている。どこに居たのかも分からないのに。
続きを言い淀む俺の言葉を遮る様に、愛馬が再び嘶いた。まるで俺を呼ぶように。
「……けれど迎えが来たみたいだよ」
賽花が諦めた様に苦笑した。俺はその言葉にハッとして外へ駆け出す。靴に泥が染み込むのを気にかけることもなく。
山の木々に雲間から差し込む光が当たる。霧雨が辺りを靄がけて、そこに居る存在の輪郭をぼやかせた。
「——若様!」
誰のことを言ってるんだ。俺にも分からなかった。なのに咄嗟にそう呼びかけた。
美しい毛並みの軍馬に跨った錦の鎧の男は、雷鳴が轟く様な大声で俺に呼びかけた。
「何をしている!早く帰って来い!—“ ”!」
その声を聞くや否や、俺は厩に向かって叫んだ。
「翡翠!」
呼ばれた彼女は柵を軽々と飛び越え俺の元へと駆け付ける。躊躇うことなく跨がれば、疾風の様に俺たちは駆け出した。
全身が雨でしとどと濡れる。けれどなりふり構わなかった。
(賽花に礼もしてないのに)
そう思い後ろを振り返れば、霧の向こうに確かに彼女が立ち尽くし俺を見送って居た。
何も気にすることはない。そう、言っているように見えた。
「一体どこをほっつき歩いていたのだ、岱」
あの山中で見た時と同じ、錦の鎧を身に纏った偉丈夫…従兄の馬超が問うた。
「はは、俺にもさっぱり…けど、多分」
あの日と同じ柔らかな霧雨に包まれながら、三耀—もとい、馬岱が答えた。
「山の神様にでも魅入られてたのかも」
豫劇:収馬岱 より
≪柔らかい雨≫
11/7/2024, 1:14:43 AM