…いつか着るかも。
クローゼットの中にはその“いつか”を今か今かと待ち望んでいる洋服たちが所狭しと並んでいた。
朋子がセミリタイアしたのは一昨年の暮れのことだ。
義父の孝之の介護のために、夫宏樹から頭を下げられてのことだった。義理の母は既に鬼籍、他の親族も遠い地にいるため、致し方のない判断だった。
子供達はその前の年にはみな社会人となり独り立ちをした。育児がひと段落し、長年勤めた会社からはいい加減役職に就かないかと打診されたばかりの出来事だった。
苦渋の決断で会社を辞め、義理の実家へ週3通い、合間にパートタイムで働き出した。だが、孝之は介護疲れを感じる暇など与えず、一年たたずで文字通りぽっくりと去ってしまった。
正直、朋子は「あと1年渋っていれば」と思ったが、決して口に出すことはなかった。
それを機に朋子は宏樹と離婚した。理由は様々あったが、概ね宏樹が介護に非協力的であったためであった。
他にも、孝之が「世話になったから」と朋子に少しばかり遺した遺産に、義理の姉である麻美が文句をつけて来たことも原因ではあったが。
兎も角、朋子はあっさりと彼らとの縁を切った。会社を辞めると決める時よりも、即決であった。
子供達や実母にも淡々と伝えたが、意外というよりは至極当然のように「まあいいんじゃない?」と返され朋子は拍子抜けしてしまった。
離婚を機に朋子は宏樹と共に住んでいた家を出た。
その際彼女は酷く驚いた。クローゼットに満ちていた自身の服の量にだ。
会社に着て行っていた服はなじみがあるが、大半はクリーニングから返ってきたまま、ビニールが掛けられた状態で吊られている。
最後に着たのはいつだったか。もう思い出せない。いや、思い出す暇も無かった。
家事に育児に仕事に…朋子の人生は常に全力疾走だった。だが自分に妥協もしたくはなかった。
それ故に自身を鼓舞するように華やかな衣装で身を固めた。時にステージへ立つ歌手のように。時に死地へ赴く武将のように…。
の、結果が“コレ”であった。初任給で買った肩パッド入りのスウェード地のジャケット片手に朋子は頭をかかえた。
写真を撮り娘に「今こういうの流行ってない?いる?」と問う。すぐ来る「いらない」の返信に納得のため息。
「よし、捨てよう」
この一言が出るのに朋子は5時間も要した。一度袖を通し、鏡の前でくるりと回り、写真に収め、在りし日の二人を思い出し…最近宏樹に言われた腹のたつ言葉を思い出し、やっと決心がついた。
(服一枚捨てるのにどんだけ時間かけてんのよ)
そう心で呟きながらも、朋子はようやく独り身になったのだと実感をした。
ン十年かけて積み上げてきたもの。捨てるのにはやっぱり勇気がいる。
「こりゃ、長引きそうですなあ」
そう独り言ちて、朋子は一気にクローゼットの中の服たちをビニール袋へぶち込んだ。
≪手放す勇気≫
鼻の先が冷たい。喉が渇いた。部屋はまだ薄暗く、シンと静寂に満ちている。
(トイレ行きたい)
そう思いながらも隆之介は、キンキンに冷え切った鼻先を毛布に埋めて縮こまった。
布団越しに小さな塊が足先に当たるのを感じる。
(ゆかりさん起きるかもだし)
徐々に強くなる尿意と、寒々しい気温へ募る億劫さ。瞼は未だに眠りへと誘ってくる。
意を決して外に出した片手でスマホを引っ掴み時刻を確認する。
—6:27……あと1時間寝れる。
パッと照らされて顰めた顔のまま、スマホをサイドボードに放る。
寒い。尿意を誤魔化す様にそう脳裏で呟き二度寝の態勢に入る。
「ミ……」
小さく聞こえた欠伸と共に、足元の塊が動く気配がする。
ごめん起こしたね、と声をかけるよりも先に、縁は隆之介の腹の上に歩みを進めた。
布団越しに感じるずっしりとした重み。彼女は布団の中が嫌いらしく、添い寝は布団の上に限られる。冬の風物詩だ。
嬉しい。嬉しいのだが、今の隆之介にとって腹の上は尿意を促進させるだけの忌々しい場所であった。
「…ゆっちゃん、お腹やめて…」
弱々しい提案も虚しく、彼女は丸まり眠りにつく。
トイレに行きたい。眠い。トイレ。
散々葛藤した末に隆之介は身体を起こし、布団から出る。ヒヤリとした空気が身体中を包み、足先がカチコチに凍りつくようだった。
無理矢理退かされた縁は「理解出来ない」と言わんばかりの視線を隆之介へと向けた。
トボトボとトイレへと向かい、やっと一息付く。
扉の外には縁が待っており、迷惑そうに「終わったか」とひと鳴きして踵を返した。
二人してベッドへと戻りようやく二度寝をする。先程同様、縁は隆之介の足元で落ち着いた様だ。
寒いのは嫌だ。けれどこれがあるから冬を嫌いにはなれない。
この時期にのみ起こるこの日常に、隆之介はヤキモキしながら再び眠りについた。
≪冬は一緒に≫
「じゃ」
「うん」
空港の保安検査場の前で、タイキは小さく手を掲げた。それに合わせてモトナオは何とか笑顔を繕った。
ルームシェア始めて三年。ぬるま湯のような心地良い関係。彼の荷造りが済んだ後の部屋は、悲しい程に広々としていた。自分も今月末には一人暮らし用の部屋へと引っ越す。
日本から約20時間。ほぼ丸一日かけて彼は遠い国へと旅立つ。イタリア在住なんて、カッコいいじゃないか。
タイキは元々、地元の商社に勤めていた。夢は『書道家になること』だと聞いたのは、一緒に暮らし始めて初めて迎えた年末だった。実家に帰らないのか、という問いから派生した話題だった。
大学を卒業する際に親族総出で反対されたらしい。それでも夢を諦めきれず、心のしこりとして今まで燻っていたそうだ。
コツコツと作品を作り、小さな画廊を借りて個展を開く。たまにSNS等でその様子を発信していた。彼の休日の趣味は専ら制作活動だった。
そうした活動が実り、徐々に彼は顧客を得ていった。そして溜まった貯金を元に遂に旅立つ時が来たらしい。
「着いたら連絡するね」
「ああ。気をつけて」
タイキからの選別の品は、モトナオの名前が書かれた書だった。ご丁寧に額に入れられていた。『数年後に値打ち物になるようにするから!』と屈託の無い笑顔と共に渡された。
正直、羨ましいとさえ思う。打ち込める何かを彼は持っている。自分はどうだろう?
「ナオさんもさ、落ち着いたら遊びに来なよ。なんなら引っ越して来ても良いからね」
「はは。引っ越してどうするんだ」
眩しい。彼が。憎いほど。そう思う自分がさもしい。
そうだなぁ、と一考してタイキは笑ってみせた。
「ピザ食べたくなったら、引っ越しなよ」
じゃあまた、と惜しげもなく保安検査場へ吸い込まれていくタイキに、モトナオは呆気に取られた。
同時に笑いが込み上げた。ああ、そうか。彼にとってはそれ位のノリなのか。今生の別れのような気持ちの自分が馬鹿らしくなった。
モトナオは急に嬉しくなり、タイキの背に呼びかけた
「じゃあ、良い店探しといてくれ」
タイキは振り返り「オッケー!」と手を挙げた。
≪さよならは言わないで≫
…ふざけんなよ。ふざけんな!
俺たちが求めてたのは”こんな結果”じゃないだろう?!
俺たちはただ、ただ…笑って欲しかった。今まで出会って来た人たちに、別れて来たものたちに、これから出会うだろう全てに、ただ、笑っていて欲しかっただけ。
ただ、いつでも隣に居てくれたお前たちに、笑っていて欲しかっただけ…。
朝日が昇り教会の鐘の音と共に毎日が始まる。人々は畑を耕し汗を流す。月夜に祈り、大地の恵みに感謝をする。そうして眠りにつく。
何の変哲もない明日を迎えて、俺たちは方々旅をする。そうしてたどり着いた街で宿を取り、滅茶苦茶な曲を奏でるアイツに合わせてオッサンは下手な即興曲を披露する。それをヤジ混じりに笑うお前がいて、壁に寄りかかってアンタは呆れた顔で笑うんだ。
俺が、俺たちが求めてたのはそんな…変わり映えのない日常だった。そうだろう?
富とか名声だとか、そんなもの求めちゃいなかったんだ。この際感謝の言葉だって要らない。
それなのに、どうして…—?
強過ぎた光は世界を飲み込んだ。闇夜は光で塗り替えられて、やがて人々は夜空を忘れた。
光の均衡を崩したかの英雄は、いずれこの世界の人々から謗りを受けることになるだろう。
誰かが言った。「希望は絶望に、光は闇に負けることなどないのだ」と。なら問いたい。光に闇が負けてしまったらどうなるのだ?と。
血濡れて転がる仲間たちを見て思う。嗚呼、これが俺が望んだことだったのか?と。
光を失った瞳はまるで紛い物の様に虚空を見つめている。忌々しいほどに光に溢れた空が、黒鉛のようなその目を煌めかせた。
—こんなの負け戦だ。
それでもいかなくてはいけない。この世界の人々を”救う”為には、道はコレしか残されていないのだから。
俺は首元に武器を当てがう。幾度と無く悪を切り裂いて来た自慢の一品。それが今は仲間たちの血潮で濡れている。
覚悟を決めて力を込める。痛みよりも先に身体に漲るのは、新たな決意だ。
—救ってみせる。必ず…!
たとえこの先に困難が襲い掛かろうとも。受け入れ難い現実が待ち受けていようとも。たとえ、この先の世界ですら極悪人になろうとも。
次元の狭間で俺は腹を括る。俺たちの世界に”闇”を連れて帰る為に。
≪光と闇の狭間で≫
—そうして二人は、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし…。
「ああ…終わってしまった…。私の唯一の楽しみが…」
撮り溜めしていたドラマを観終わり、怜が恨めしそうに呟いた。手元のスナック菓子は空っぽだ。
あれだけ尺伸ばししておいて、結局リリィベルとオーガスタは結ばれた。一話目から分かっていたのに、結局俺まで全話観てしまった。
久方ぶりに日本へ帰ってきた怜が真っ先にしたことは、和食を浴びるように食べ(主に寿司とラーメンだ)、レコーダーに溜まっていた今期のドラマを一気に観る…だった。彼氏の俺そっちのけでだ。
精神も肉体もタフな奴ではあったものの、余程過酷な環境での奉仕活動だったようだ。その反動か、やけにジャンキーな食生活を謳歌しているようにも見えた。
「ヒロ、ピザ頼もうよ」
怜がソファでそう言いながら、無料動画配信サービスの新着一覧をスクロールする。空いた手はグミの袋をガサゴソと探っている。
これで前より太りでもしていたら咎めるものの、目に見えて痩せて帰ってきたのだから止めようが無かった。
「観るもん無いなら俺が観たいやつ観ていいか?」
「いいよー。オススメある?」
スマホでピザを注文しながら、新シーズンに突入したドラマのタイトルを言う。
「…それ多分前シーズン観てないな」
「だろうな」
「おさらいがてら前のも観ていい?」
「いや…それに付き合ってたら観終わらんて…」
既に時刻は夜の10時。長期休みの怜と違って俺は明日も仕事だ。
その言葉に怜は困ったように笑った。
「だって〜…久々のぐうたら生活最高過ぎて…終わって欲しくないんだもん!」
≪終わらせないで≫