「じゃ」
「うん」
空港の保安検査場の前で、タイキは小さく手を掲げた。それに合わせてモトナオは何とか笑顔を繕った。
ルームシェア始めて三年。ぬるま湯のような心地良い関係。彼の荷造りが済んだ後の部屋は、悲しい程に広々としていた。自分も今月末には一人暮らし用の部屋へと引っ越す。
日本から約20時間。ほぼ丸一日かけて彼は遠い国へと旅立つ。イタリア在住なんて、カッコいいじゃないか。
タイキは元々、地元の商社に勤めていた。夢は『書道家になること』だと聞いたのは、一緒に暮らし始めて初めて迎えた年末だった。実家に帰らないのか、という問いから派生した話題だった。
大学を卒業する際に親族総出で反対されたらしい。それでも夢を諦めきれず、心のしこりとして今まで燻っていたそうだ。
コツコツと作品を作り、小さな画廊を借りて個展を開く。たまにSNS等でその様子を発信していた。彼の休日の趣味は専ら制作活動だった。
そうした活動が実り、徐々に彼は顧客を得ていった。そして溜まった貯金を元に遂に旅立つ時が来たらしい。
「着いたら連絡するね」
「ああ。気をつけて」
タイキからの選別の品は、モトナオの名前が書かれた書だった。ご丁寧に額に入れられていた。『数年後に値打ち物になるようにするから!』と屈託の無い笑顔と共に渡された。
正直、羨ましいとさえ思う。打ち込める何かを彼は持っている。自分はどうだろう?
「ナオさんもさ、落ち着いたら遊びに来なよ。なんなら引っ越して来ても良いからね」
「はは。引っ越してどうするんだ」
眩しい。彼が。憎いほど。そう思う自分がさもしい。
そうだなぁ、と一考してタイキは笑ってみせた。
「ピザ食べたくなったら、引っ越しなよ」
じゃあまた、と惜しげもなく保安検査場へ吸い込まれていくタイキに、モトナオは呆気に取られた。
同時に笑いが込み上げた。ああ、そうか。彼にとってはそれ位のノリなのか。今生の別れのような気持ちの自分が馬鹿らしくなった。
モトナオは急に嬉しくなり、タイキの背に呼びかけた
「じゃあ、良い店探しといてくれ」
タイキは振り返り「オッケー!」と手を挙げた。
≪さよならは言わないで≫
…ふざけんなよ。ふざけんな!
俺たちが求めてたのは”こんな結果”じゃないだろう?!
俺たちはただ、ただ…笑って欲しかった。今まで出会って来た人たちに、別れて来たものたちに、これから出会うだろう全てに、ただ、笑っていて欲しかっただけ。
ただ、いつでも隣に居てくれたお前たちに、笑っていて欲しかっただけ…。
朝日が昇り教会の鐘の音と共に毎日が始まる。人々は畑を耕し汗を流す。月夜に祈り、大地の恵みに感謝をする。そうして眠りにつく。
何の変哲もない明日を迎えて、俺たちは方々旅をする。そうしてたどり着いた街で宿を取り、滅茶苦茶な曲を奏でるアイツに合わせてオッサンは下手な即興曲を披露する。それをヤジ混じりに笑うお前がいて、壁に寄りかかってアンタは呆れた顔で笑うんだ。
俺が、俺たちが求めてたのはそんな…変わり映えのない日常だった。そうだろう?
富とか名声だとか、そんなもの求めちゃいなかったんだ。この際感謝の言葉だって要らない。
それなのに、どうして…—?
強過ぎた光は世界を飲み込んだ。闇夜は光で塗り替えられて、やがて人々は夜空を忘れた。
光の均衡を崩したかの英雄は、いずれこの世界の人々から謗りを受けることになるだろう。
誰かが言った。「希望は絶望に、光は闇に負けることなどないのだ」と。なら問いたい。光に闇が負けてしまったらどうなるのだ?と。
血濡れて転がる仲間たちを見て思う。嗚呼、これが俺が望んだことだったのか?と。
光を失った瞳はまるで紛い物の様に虚空を見つめている。忌々しいほどに光に溢れた空が、黒鉛のようなその目を煌めかせた。
—こんなの負け戦だ。
それでもいかなくてはいけない。この世界の人々を”救う”為には、道はコレしか残されていないのだから。
俺は首元に武器を当てがう。幾度と無く悪を切り裂いて来た自慢の一品。それが今は仲間たちの血潮で濡れている。
覚悟を決めて力を込める。痛みよりも先に身体に漲るのは、新たな決意だ。
—救ってみせる。必ず…!
たとえこの先に困難が襲い掛かろうとも。受け入れ難い現実が待ち受けていようとも。たとえ、この先の世界ですら極悪人になろうとも。
次元の狭間で俺は腹を括る。俺たちの世界に”闇”を連れて帰る為に。
≪光と闇の狭間で≫
—そうして二人は、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし…。
「ああ…終わってしまった…。私の唯一の楽しみが…」
撮り溜めしていたドラマを観終わり、怜が恨めしそうに呟いた。手元のスナック菓子は空っぽだ。
あれだけ尺伸ばししておいて、結局リリィベルとオーガスタは結ばれた。一話目から分かっていたのに、結局俺まで全話観てしまった。
久方ぶりに日本へ帰ってきた怜が真っ先にしたことは、和食を浴びるように食べ(主に寿司とラーメンだ)、レコーダーに溜まっていた今期のドラマを一気に観る…だった。彼氏の俺そっちのけでだ。
精神も肉体もタフな奴ではあったものの、余程過酷な環境での奉仕活動だったようだ。その反動か、やけにジャンキーな食生活を謳歌しているようにも見えた。
「ヒロ、ピザ頼もうよ」
怜がソファでそう言いながら、無料動画配信サービスの新着一覧をスクロールする。空いた手はグミの袋をガサゴソと探っている。
これで前より太りでもしていたら咎めるものの、目に見えて痩せて帰ってきたのだから止めようが無かった。
「観るもん無いなら俺が観たいやつ観ていいか?」
「いいよー。オススメある?」
スマホでピザを注文しながら、新シーズンに突入したドラマのタイトルを言う。
「…それ多分前シーズン観てないな」
「だろうな」
「おさらいがてら前のも観ていい?」
「いや…それに付き合ってたら観終わらんて…」
既に時刻は夜の10時。長期休みの怜と違って俺は明日も仕事だ。
その言葉に怜は困ったように笑った。
「だって〜…久々のぐうたら生活最高過ぎて…終わって欲しくないんだもん!」
≪終わらせないで≫
12月の忘年会シーズン。
弊社も例に漏れず、職場近くのホテルの宴会場を貸切り、部署の垣根を越え労いの場が設けられている。
乾杯の折には行儀良く部署同士で固まっていたテーブルも、時間が経てば皆が席を立ち、顔馴染み同士が同じ席に着く。
他部署の部長達に挨拶が終わり、俺はグラス片手に自分の席に戻ろうとした。だがそれは陽気な聞き馴染みのある声に引き留められる。
「設楽!設楽ぁ!」
来い、と手招きしているのは同期の豊田。ニヤニヤした豊田の横には奴の部下の根田が居る。いつもの喫煙所メンバーだ。
だがいつもと違い根田が机に突っ伏している。酔い潰れたのだろうか。苦い顔で俺は彼らに近づく。
「どうした。大丈夫か?」
「アホだ。阿保がいるぞ。話聞いてやってくれ」
他人の不幸は蜜の味、と言いたげなだらしない笑顔で豊田が言う。
「じだら”ざん”、聞いてくだざいよぉ」
鼻声で泣き喚く根田の話をまとめるとこうだ。
—付き合い出して5か月の彼女が、クリスマスに会えないからと先日プレゼントを要求してきた。
それはブランド物のバッグで、まあまあな金額だったらしい。だが冬のボーナスを見越して根田は張り切って彼女の為に奮発したそうな。
だが、渡したその日から彼女とは音信不通。当然バッグも持ち逃げされたも同然な状況。
「な?アホだろ」
「見事に集られたな。高い勉強代だったと思え」
笑い過ぎたのか豊田が嬉しそうに俺に問うた。俺は呆れて溜息混じりに根田に言った。
「というか付き合って数ヶ月でブランドほいほい渡すなよ。甘いんだよお前は」
「正直チョロ過ぎる。チョロ甘だな」
だっはっは、と下世話な笑い声で豊田が笑い飛ばした。
「じゃあどうすりゃ良かったんすか?!」
投げやり気味に泣く根田に、俺と豊田は一度目を合わせ、容赦無く告げた。
「別れて正解」
≪どうすればいいの?≫
道端の石ころだったんだ。俺は。
誰も目にも止めない。誰も気にも止めない。蹴り飛ばしたとて、そこに転がっている俺が悪いのだと言われる存在。
何の変哲もない。何の名前も無い。ただの石ころだったんだ。
だが、お前はそれを拾い上げ、あろうことか大事に大事に磨き上げた。名を付け、愛おしそうにそれを呼んだ。
お前にとっちゃ拾い上げた数ある石ころの内の一つだったのかもしれない。もっと出来の良い、比べ物にならない宝石を拾ってたのかもしれない。
けれど、俺にとっちゃ拾い上げてくれた手はお前しか知らない。唯一無二の存在だった。
拾い上げ、包み込み、守ってくれたのは、お前しかいないんだ。
俺の知りうる世界の全てだった。
そんなことを言ったら、お前はどんな顔をするだろうか。重たい、なんて言うだろうか。こんな重たい石ころ、捨ててしまいたいだろうか。
それでも俺は。俺は—心から願う。
友よ、俺はお前の一番の宝でありたい。と。
***
あの日のことは良く覚えている。晴れやかな気分だったことも。
なのに、どう説明したらいいか未だに難しい。ただ、俺にとって凄く嬉しい出来事だった。それだけは確かだ。
けれど、今まで誰にも言えなかった。なんだろう、秘密にしていたかったのかもしれない。
砂浜を散歩していたら、たまたま見つけた綺麗な貝殻。それがアイツの第一印象だった。
少し欠けてはいるけれど、綺麗な色で陽に当てるとキラリと輝いた。
角度を変えその煌めきを見て「ああ、ココに居たんだ」と何故か嬉しかった。ピッタリはまる片割れを見つけた、そんな気分だった。
だから誰にも言えなかった。本当は皆に見せびらかして自慢したかったんだ。「すごいお宝見つけたんだ!」って。でも、そんなことしたら、誰かに取られちゃうかもしれないから、言えなかった。
兄ちゃんだから、いつだって大事なものは弟や妹に譲ってばっかりだったから。別に嫌じゃ無かったけど、何故かこの時は誰にも取られたく無かったんだと思う。だから、仕舞った。心に鍵をかけて、大事に、大事に…取られませんようにと。
でも、今はハッキリと言える。
親愛なる友よ。お前は俺が見つけた最高の宝だ!と。
≪宝物≫