元来、ウォーカーは紅茶が好きでは無かった。
竹馬の友であるジャンが生粋の紅茶信者であったが為に、気がつけば飲む機会が多かっただけだ。
そもそも紅茶は嗜好品であり、原産のトルマリスタン公国から関税の高いフロイト連邦を経由しなければ手に入らない。所謂、貴族や有産階級が嗜むものだった。
我がコバルタ共和国には珈琲の文化が浸透しており、仕事終わりの農夫でさえも飲めるほど普及している飲料であった。
焙煎された珈琲は香り高く鼻腔をくすぐり『飲みたい』という欲求に訴えかけてくる。ウォーカーもあの香りには抗い難い官能的な魅惑を感じていた。
だが実際飲んでしまえば、木炭をすり潰した濁水のような苦味。砂糖を入れなければ飲めたものではない。それが珈琲への感想だ。
麗らかな午後の日差しと共に、ウォーカーは自身の執務室にいた。お互い時間が取れた為、副官のジャンがこうして紅茶を淹れてくれている。
パチンと懐中時計を閉じ、ジャンがポットへと手を伸ばす。この蒸らす時間さえ勿体無いと感じてしまう辺り、やはり自分は紅茶に”向いていない”。ウォーカーはしみじみ思う。
鼈甲色の液体を仰々しく注ぐ姿は、宛ら宮殿遣えの執事のようでもあった。
寸分も無駄のない動きで紅茶を差し出すジャンの表情は、穏やかであり誇らしささえ滲んでいた。
カップを口元へ運ぶ。燻る湯気には華やかな芳香が纏わりついていた。
この、何とも形容し難い複雑で且つ独特な香り。ウォーカーはどうにもこの香りが苦手だった。
だが飲んでしまえば何ともない。ただの”美味い茶”であった。
ほう、と一息つきウォーカーはぼやいた。
「……この間、レイが入れた紅茶を飲んだんだ」
「おや。経過は如何ですか」
「ぼちぼちだ。左手の治療の一環で、日常生活でも使うよう言われてるんだ」
レイがあの激戦区から戻ったのは鋼鉄国との停戦協議後から数ヶ月経った先月だ。満身創痍の状態からよくあそこまで復活したものだと医者も目を見張る程であった。
「で、練習がてら紅茶を淹れたんだ。ほら、お前に貰ったえらく高い茶葉だ」
「ああ!あれを淹れたんですね。どうでしたか?香りが良かったでしょう」
「いや、クソ不味かった」
苦い顔をしたウォーカーに、ジャンは驚いたあと何かを察したのか小さく笑った。
「…煮出し過ぎて苦かったとか?」
「うん。えらく濃くてな…香りも酷かった。入れ手で変わるってのは本当だったんだな」
一杯目は酷く薄かった。だからウォーカーは『遠慮せず茶葉を沢山使え』と言った。それが悪かった。
二杯目は紅茶とは思えないほど黒々とした液体で、エグ味と紅茶特有の香り、苦味が変わる変わるやって来てとても飲み干せなかった。
「だから紅茶に関してはお前の淹れたものに限るな」
「それは…お褒め頂き光栄です」
苦笑するジャンにウォーカー情けなく笑って返す。
好きでは無いはずのその香りが、今のウォーカーにはひどく安心出来るものになっていた。
「彼に淹れ方、お教えしましょうか?」
「やめろ。練習台にされる俺の身にもなれ」
苦言を呈するも二人して小さく笑った。ようやく戻った日常がそこにはあった。
ウォーカーはまた一息ついて、馴染み深い味を一気に飲み干した。
≪紅茶の香り≫
「母さん」
それだけ言ってまるで岩壁のような、男梅の様に眉間に皺を寄せた男—善爺さんは湯呑みを握りしめたまま新聞から顔を上げなかった。
齢八十九歳。昨年米寿のお祝いにと着せられた黄色のちゃんちゃんこを羽織っても、そのぶすくれた表情をぴくりとも動かさなかった。
さて、この無口で無愛想で岩の様に動かない善爺さんが、生涯の伴侶と出会ったのは戦後間も無い頃であった。
馴染みの床屋のおかみさんが、朴訥で浮いた話の一つもない善に是非合わせたいと、床屋の斜向かいのお隣に住まう娘、絹江を紹介した。
この絹江という娘、大層小柄でまだ中学にも上がってない様にも見えたが、今年で十三になったとのこと。
十七になったばかりの善からしてみれば、第一印象は「ガキじゃないか」のただ一点であったそうな。
だが紹介された手前、善も顔だけ合わせて帰るわけにもいかず。何度か顔を合わせれば相手も己の無口さに呆れて断るであろう、と善は踏んでいた。
しかし、想定外であったのは絹江の”おしゃべり具合”であった。善が黙っているのをいいことに、まあ良く喋る娘であった。のべつ幕なく実にかしましく、善はラヂオでも聴かされているかとさえ錯覚した。
挙げ句の果てには「あたし、五月蝿くないかしら?」と聞いて尚その癖は直らないときたものだ。
善は不思議でならなかった。どうして自分の様な仏頂面の男に話し続けて苦ではないのか、と。
そのまま絹江に問えば、彼女は頬を林檎のように赤らめてこう言った。
「父も母も忙しくて、妹も弟も皆まだ小さいから…だぁれもあたしの話なんて聞いてくれないの。友達も皆彼氏の話ばかりで…あたしそんなのいないから、あたしの話はつまらないって。でも、善さんは黙って聞いてくれるでしょう?嫌な顔もしないし、たまに頷いてくれる。だからあたし嬉しくて!」
善は思った。なら俺がこの縁談を断ったらどうするのだ、と。もう話を聞く者はいないのか?と。そう思うと、途端に不憫に思った。
「善さん。あたし、喋りすぎかしら?もしかして、嫌だったのかしら?」
絹江の問いに、善は思わず口走った。
「…聞くだけなら、別に」
「おじいちゃん!お茶なら自分で入れなよ!急須目の前じゃん」
孫娘が善に苦言を呈した。だかその言葉に答えたのは絹江婆さんであった。
「いいのよ。私が好きでやってるんですから。それにこの人は…」
善の手から優しく湯呑みを受け取ると、絹江は嬉しそうに言った。
「これしか言わない人だから」
ふふ、と微笑む絹江にため息をつく孫娘。それを尻目に善は呆れて内心ぼやいた。
(お前が喋らせないからだろうが)
≪愛言葉≫
さよなら大好きな人、ずっと大好きな人…
あの有名な歌をたまたま聴いた時、私は真っ先に喧嘩別れした友人を思い出した。
酔ってんじゃねぇよ。それが感想だった。吹っ切れた瞬間でもあった。
…決してこの曲のネガキャンではない。
10年来の友人だった。何をするにも一緒だった。
共通の友人達からは「熟年夫婦みたいだ」とさえ言われた。
だがある日「そういうのやめてや」という何気ない私の非難に、過敏に反応して逆ギレに逆ギレをかましてくれた。
「私も悪かったです。でも—」からの言い訳があまりにも保身に走った内容過ぎて、謝りたいのか私を非難したいのか全くわからなかった。
親友が話の通じない宇宙人に変わり果てた絶望感たるや。
挙げ句の果てに「縁を切ってくれて構いません」という何様だ?という迷言さえ吐き捨てられた。切りたいならオメェが切れよ。そうやって責任をこっちに押し付ける所が卑怯なんだよ。それが本音だった。でも言えなかった。
本音を言い合えるのが親友だと思っていた。
でも現実は言いたいことの三分の一も伝わらない。…懐メロばかりを例に出して申し訳ない。
大体うまく行ってる友人との会話は、8割私が聞き役で本音の殆どを飲み込んで口滑りのいい事を言っている事が多い。
多分それは相手もそう思っていて、持ちつ持たれつなんだとも思う。
そういう関係性に不満があるわけじゃない。時間を共有出来る上部だけの存在って大事だと思う。
それが大人な交友関係なんだと思う。
ただその根底が崩れると、上記のように拗れてコケる。コケると結構疲れる。私は人間として生きるのに向いてないのかなとさえ思う。
私が本音さえ言わなければ、拗れることはない。簡単だけど、結構しんどい。
そうした瞬間に思う。友達ってなんだろう。
少なくとも私には”疲れる”要因なのかもしれない。
……なんてね。まぁ冗談なんですけど。
≪友達≫
白い軍服を肩から羽織り、まるで外套のようにはためかせながら、男は大股で急いていた。
表情は険しく肩で風を切る姿に、すれ違うものは皆驚き男に道を譲った。
「—レイ!」
扉を開くと同時に男—ウォーカーは吠える様に呼びかけた。呼ばれ振り向いた赤毛の男は、ウォーカーを見とめるや否や和かに応えた。
「ウォーカー!こっちから声掛けに行くつもりだったのに。わざわざ来たのか?」
数名の部下と共に荷造りしていたようで、既に部屋の半分程が片付き殺風景に見えた。それがウォーカーの心境を逆撫でした。
「あのふざけた辞令は本当なのか」
—レイ・ウォーリア少佐をダマスカス国境地帯第二戦闘区域第十四番隊部隊長へと任ずる。
「ふざけたってお前なあ。映えある抜擢って言ってくれよ」
「馬鹿言え!あそこは…」
死にに行く様なもんだ。ウォーカーは言いかけて喉が詰まる。国境地帯の戦闘区域は何処も激しい戦闘が続いている。
前任がヘマをした尻拭いを誰かがしなければ、必ずそこから敵は攻め込んでくる。早急に対処が必要だった。
そんなこと誰もが理解していた。ただ納得がいかないだけで。
「分かってる。遊びに行くつもりなんて無い。でも心配要らない。俺の悪運知ってんだろ?な、大佐?」
レイは茶化すようにウォーカーの胸を小突くも、その手をがっしりと取られる。怒気をはらんだ顔がぐっと近付く。
「だからって、見送れって言うのか?!友が、死地に赴くのを!黙って!!」
あまりの気迫にレイは口をぽかんと開けて呆けた表情で固まった。二人の様子に、側にいたレイの部下達も荷造りの手を止めて見守っている。
この口下手な男が必死に何か伝えようとしている。長く側にいた友だからこそ、レイには分かりきっていた。それが嬉しくも心苦しかった。
「ウォーカー。俺が行かなきゃ他の誰かが行く羽目になるだろ」
「ならお前じゃなくていい」
これは長引くぞ。レイは苦笑し部下に目配せする。二人は静かに頷きそそくさと部屋を後にする。
「そういうわけにはいかないだろ。国の危機なんだから」
「ならこんな国滅んじまえ」
「そんな悲しいこと言うなよ」
レイはそっとウォーカーの手に自分の手を重ねた。手首を握る彼の手は情けない程小さく震えていた。ウォーカーは何度も何かを言いあぐね、漸く虫のさざめき程小さな戦慄く声で告げた。
「……行くなよ」
なんて弱々しい姿だろう。味方を鼓舞し、自ら敵陣へと斬り込む、皆が知る勇敢な姿とは全くの別人だった。
「帰ったらさ、愚痴でも何でも全部聞くから。だからさ…」
レイの頭上から小さな嗚咽が聞こえる。肩口に覆い被さるように、ウォーカーが額を擦り付けた。
まるで母に縋る子供のようだ。レイは困った顔で微笑んだ。
「そんな顔すんなよ」
≪行かないで≫
トゥルーブルー—誠実な人。
貴方と聴いた曲。大好きだった。
徹夜明けの皺々の顔で、明美は朝日を拝んだ。
社会人3年目。学生時代から付き合っていた彼氏から別れのメッセージが来たのは10日ほど前だ。
返す暇もない程の多忙な一週間が過ぎ、そのうちアプリを立ち上げることすら億劫になっていた。
追撃が来たのは数時間前。『さよなら』と淡白な4文字だけが送られていたのに気がついたのは、つい先程締切のデータをサーバーに格納した後だった。
女々しいやつめ。あたしより”悲劇のヒロイン”してやがる。明美はその4文字に顔を顰めた。
院に進んだ彼にはこの苦しみは分かるまい。と思う気持ちと、ここまで頑張っても受注しなければインセンティブすら入らないのかという徒労感と。
好きな業種に就けた喜びと、ここを逃せば同業に再就職は厳しいだろうという焦り。第二新卒という括りにも期限があった。
友達は好き勝手「辞めなよ」と心配だけして、親は「折角の正社員なのに」と無責任なことばかり言った。
明美は理想と現実の狭間で雁字搦めになっていた。疲れ果てていた。
二徹の後の土曜。朝6時の帰り道は、この世に明美以外は存在しないかのように静まり返っていた。
ビルとビルの合間から差し込む朝日と、イヤホンから流れる美しい旋律。トゥルーブルー。明美が大好きな曲だった。
「……辞めよ」
ぼんやりと、だが確信を持って呟く。リセットしよう。なにもかも。疲れてしまった。
あんなくそくらえな仕様書も、あんな自己愛まみれの男も、全部無かったことにしよう。
明美は晴々としていた。迷いは無かった。理由なんて要らなかった。
この空と同じ。どこまでも果てなく晴れ渡っていた。
≪どこまでも続く青い空≫